第4話

文字数 2,598文字

 その声は俺の頭にすぅっと入って来た。
 〝それ〟とは他人の心に同調する並はずれた強い共感力のことらしい。通称エンパスと呼ばれている。俺は物心ついた頃から人が苦しんだり怒ったり悲しんだり、そういうのが一番の苦手だった。つまり負の感情だ。その苦悩は他人の物なのに、まるで自分のことのように感じてしまう。 
 その人が苦しめば自分も苦しむ、その人が悲しめば俺も涙する。そしてその人が怒ったり恨んだりすれば、俺も憎しみに心囚われてしまう。だからそう言う厄介な人が傍に来れば出来るだけ遠ざかる努力をして来た。それが無理ならひたすら心を閉ざし決して係わらないようにして来た。俺には自分から苦しみを求めて行くような変な趣味はない。
 しかしその彼女はこう言った。
「あなたは生まれながらにして癒す人なの。どんな負の感情にも負けないとても強い精神を持っている。だから自信を持って受け容れて。受け容れない限り、ずっと苦しむわ。それはね、その人に起こった問題を解決するとか、援助するとか、そう言うことではないの。ただその人と心を一つにして、いっしょに悲しみ、いっしょに苦しみ、そしていっしょに喜ぶ。ただそれだけでいいの。それがあなたの役割だから。今以上、もっともっと他人を思い遣る感度を上げて。そうすればあなた自身もきっと救われるはずだから」
 それで俺はようやく自分の心に掛けた鍵を外した。封印が解けたように。
 それ以来俺は他人を拒むことはなくなった。すると今まであまり気にしていなかった特殊な匂いを理解するようになり、様々な気を感じられるようになった。そして彼女が言ったように、俺はどんな負の感情にも負けることはなかった。
 彼女は共感力の強さと言ったが、人は誰でもそれなりのものは持っている。
 誰だって相手が今どのような心持ちでいるのかはすぐにわかる。いわゆる、顔色ってやつだ。怒っている人、悲しんでいる人、喜んでいる人、楽しそうな人、つまり喜怒哀楽は、顔色を見れば大概はわかるだろう。
 身内や友人など自分と親しい間柄ならすぐにわかるだろうが、ただ、人間と言う生き物は、感情をコントロールする能力に長けている。心の中ではどんなに苦しくとも悲しくとも、それを億尾にも出さずにポーカーフェイスを決め込むことができる。そうなるともうわからない。沸々と湧き立ち、今にも爆発寸前の怒りであっても、自殺しそうなほど深い悲しみであっても、だ。
 でも俺にはわかる。昔から、俺はとても鼻が効いた。それも普通の匂いにではない。例えば犬。犬は飼い主の感情を嗅ぎ分けることができると言うが、俺の鼻もそう。犬並みなのだろう。
 つまり感情にはある種の決まった匂いがある。ただ匂いと言っても実際に鼻で感じるのではない。それは心の匂いを嗅ぎ分ける嗅覚。おそらく彼女はこのことを並はずれた特殊な共感力と言ったのだろう。一つ例を挙げるなら、悲しみは、校舎奥の古い図書室みたいな黴臭い匂いだし、悦びはどこか甘いヴァニラビーンズの香りだった。
 幼い頃、俺は初めて会った人にふとそれらの匂いを感じた。それが一体何なのか、その匂いを嗅ぐたびに不思議でならなかった。そしてその匂いにも何かしら条件のようなものがあった。ただ誰でもがそのような匂いを発するのではない。また人によっては、それまでは何の匂いもしなかったのに突然感じるようになる人もいた。
 あれは俺がまだ小さなガキの頃だ。ある時、遠方に住む亡き父の古い知り合いが母を訪ねてやって来た。母と同じぐらいの年の女性だったが、化粧っ気のない母に比べてその人は随分ときれいに見えた。その首元に大粒の真珠のネックレスが光っていたことを鮮明に覚えている。
 遠路はるばるやって来た彼女に対して、母は労いの言葉を掛け、家に上がるように促したが、彼女は黒く光沢のあるヒールを脱ぐことはなかった。俺はなぜ上がらないのかとても不思議に感じていた。
「奥さん、私はここで構いません」
 彼女は深々と頭を下げて言った。その刹那、母の表情が曇った。幼い俺はその微妙な変化を見逃さなかった。
「奥さん、大変ご無沙汰しております。本日お伺いしましたのは他でもございません。大変不躾で申し訳ございませんが、幾らか用立てて頂ければと思い参りました。本当に一万でも二万でも幾らでも構いませんので、どうかお願いいたします」
 今だからこそわかるが、彼女のその必死な形相から、必要としている額はそんな一万とか二万とかではなかったのだろう。しかし、うちも早くに父が死に、母は女手一つで俺と俺の姉を育てていた。とてもではないが他人様に用立てる余裕などなかった。
 そこで母は、彼女に我が家の困窮した経済状況を話し、そして最後に、もうこのお金は返さなくても良いからと財布から一万円出し、そのまま押し付けるように渡した。冷たいようだが、母としては出来得る最大限の援助だったはずだ。彼女は随分と落胆した様子で帰って行った。
 その時、俺ははっきり感じた。彼女は若い頃は大そう羽振りが良かったらしい。今も身なりこそ良かったが、落胆した彼女の後姿から漂う匂い。それは埃臭い、古い図書室のような匂いだった。俺は思わずくしゃみが止まらなくなった。
 翌月、母の下に黒縁取りの案内状が届いた。例の彼女だった。旦那が事業で失敗して、大きな負債を抱えて、そして悩んだ挙句、夫婦でホームから通過の快速電車に飛び込んだらしい。
「バカよ、見栄張って」
 その案内状をじっと手にとって見つめていた母が一言ぽつりと呟いた。後で知ったが、それは彼女がうちにやってきた時にこれ見よがしに身に着けていた装飾品のことだった。悲しい女のプライドが仇となったのだろう。
 しかし母は彼女の申し出を断ったことを随分と悔やんでいた。するとどうだ。その手紙をじっと見つめる母から、やはりどこか古い本の匂いがした。
 おそらく母の下に訪ねて来た彼女は藁をも掴む思いだったのだろう。島の彼女に出会い、覚醒した俺はあの本の匂いをはっきりと思い出していた。同じ匂いだ。これではっきりわかった。これは悲しい匂いなのだと。
 それ以来俺はこの嗅覚を頼りに、亡くなった人々の残した未練で起こる様々な難題を解決して来た。そしていつしか俺は常世探偵と呼ばれるようになった。 
                                 続く

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