第10話
文字数 1,564文字
俺は何かとても大事なことを忘れているような気がする。その時俺の目はテーブルの白百合に留まった。
「ああ、ところで石田さん。一つお聞きしたいことが」
「なんでしょう」
「なぜあの席にだけ白百合が置いてあるのですか?」
「ああ、最初に写真を撮った時に、花井くんのアイデアでたまたま置いたものです」
「たまたま?」
「はい。テーブルだけでは殺風景かなと思って、その日偶然駅の花屋さんで買った百合をその時の思いつきで置きました。アクセントになっていいかなと」
「では今も置いてあることには何か意味が?」
「ええ、ただ目印にはなると思って」
「なるほど」
「わたし、百合が好きなんです。亡くなった母が一番好きだった花なので、うちでも百合の花は切らしたことはないの。だからあの日も本当はうち用にたまたま買った花をこのテーブルに飾りました。でも決してお供えとかそういうんじゃないから。とってもきれいでしょ?」
時刻は午後五時半を回った。
「せっかく遠いところ来ていただいて天宮さんには申し訳ないが、今日はどうも現れそうもありませんな」
壁の時計を見ながら石田はすっかり困り顔だ。
「店長、わたし少し離れてもいいかな? 仕事溜まってるんで」
「うん。そうだな。今夜は日曜の夜だしな。いつまでもこうしてはおられんな」
「お二人は店の準備があるでしょうから、ここはわたし一人でもうしばらく待ってみますよ」
まあ俺一人の方が気を遣わなくてもいい。
「そうですか、では申し訳ないがそうさせてもらうとしよう。もし何か変化があったらすぐに声を掛けてください」
そう言うと二人は奥に消えて行った。一人残された俺は、いつも女性が座っている向かいの席に腰を下ろした。
すぐ目の前のテーブルには白百合の花。当然向かいには誰も座っていない。そのずっと奥、テーブルと椅子だけが並んでいる広い空間に南向きの窓から勢いを失いつつある陽光が射し込んでいた。がらんとした無人の空間には、ほのかな百合の芳香だけが漂っていた。
窓の外に目を移せば、明石海峡大橋にうっすら灯りが点っている。しかし外はまだ明るかったので橋の灯りはぼんやりと今にも消えそうな滲んだ光を放っていた。少し前ならこの時間、もう日が暮れていてもおかしくはない。季節の移り行く早さに驚く。まだ黄昏はやって来ないだろう。
俺は海に浮かぶ大きな貨物船を見つめながら、先ほどから得た情報を頭の中で考えていた。
『写真』
『白いワンピースの女性』
『見える人、見えない人』
『白百合の花』
『現れる時、現れない時』
『おしゃれなカフェ』
『午後五時の約束』
『待ち合せ』
『石田オーナー』
『花井さん』
『花井さん』
『二十一年前の震災』
『花井さん』
『花井さん……花井さん……』
えっと、なんだろうこの違和感。何か引っかかるな。
腕組みしながら俺はどうやら少し眠ってしまったようだ。疲れが溜まっているのかもしれない。白い世界が広がっていた。またいつもの世界だ。
ふと匂いを感じた。甘い百合の匂いではない。古びた本の匂いだ。俺はゆっくり目を開ける。目の前に女が座っていた。ほっそりした色白の美人だ。年の頃ならたぶん二十代半ばだろうか。白のワンピースに胸まで下ろした漆黒のロングヘア。あの写真の女だ。そして顔を見て思い出したことがある。俺は彼女を知っていた。やっと思い出した。
あの朝、震災の朝、俺のところへ来た女性だ。間違いない。二十一年前の記憶がようやく蘇った。
女はじっと俺を見ていた。それはまるで俺に何かを懇願するような眼差しだった。
俺もじっと彼女の目を見る。
彼女が俺をどこかへ連れて行こうとしている。俺は誘われたまま彼女の世界に入って行った。
――これはおそらく彼女の生前の記憶の世界だ。
続く
「ああ、ところで石田さん。一つお聞きしたいことが」
「なんでしょう」
「なぜあの席にだけ白百合が置いてあるのですか?」
「ああ、最初に写真を撮った時に、花井くんのアイデアでたまたま置いたものです」
「たまたま?」
「はい。テーブルだけでは殺風景かなと思って、その日偶然駅の花屋さんで買った百合をその時の思いつきで置きました。アクセントになっていいかなと」
「では今も置いてあることには何か意味が?」
「ええ、ただ目印にはなると思って」
「なるほど」
「わたし、百合が好きなんです。亡くなった母が一番好きだった花なので、うちでも百合の花は切らしたことはないの。だからあの日も本当はうち用にたまたま買った花をこのテーブルに飾りました。でも決してお供えとかそういうんじゃないから。とってもきれいでしょ?」
時刻は午後五時半を回った。
「せっかく遠いところ来ていただいて天宮さんには申し訳ないが、今日はどうも現れそうもありませんな」
壁の時計を見ながら石田はすっかり困り顔だ。
「店長、わたし少し離れてもいいかな? 仕事溜まってるんで」
「うん。そうだな。今夜は日曜の夜だしな。いつまでもこうしてはおられんな」
「お二人は店の準備があるでしょうから、ここはわたし一人でもうしばらく待ってみますよ」
まあ俺一人の方が気を遣わなくてもいい。
「そうですか、では申し訳ないがそうさせてもらうとしよう。もし何か変化があったらすぐに声を掛けてください」
そう言うと二人は奥に消えて行った。一人残された俺は、いつも女性が座っている向かいの席に腰を下ろした。
すぐ目の前のテーブルには白百合の花。当然向かいには誰も座っていない。そのずっと奥、テーブルと椅子だけが並んでいる広い空間に南向きの窓から勢いを失いつつある陽光が射し込んでいた。がらんとした無人の空間には、ほのかな百合の芳香だけが漂っていた。
窓の外に目を移せば、明石海峡大橋にうっすら灯りが点っている。しかし外はまだ明るかったので橋の灯りはぼんやりと今にも消えそうな滲んだ光を放っていた。少し前ならこの時間、もう日が暮れていてもおかしくはない。季節の移り行く早さに驚く。まだ黄昏はやって来ないだろう。
俺は海に浮かぶ大きな貨物船を見つめながら、先ほどから得た情報を頭の中で考えていた。
『写真』
『白いワンピースの女性』
『見える人、見えない人』
『白百合の花』
『現れる時、現れない時』
『おしゃれなカフェ』
『午後五時の約束』
『待ち合せ』
『石田オーナー』
『花井さん』
『花井さん』
『二十一年前の震災』
『花井さん』
『花井さん……花井さん……』
えっと、なんだろうこの違和感。何か引っかかるな。
腕組みしながら俺はどうやら少し眠ってしまったようだ。疲れが溜まっているのかもしれない。白い世界が広がっていた。またいつもの世界だ。
ふと匂いを感じた。甘い百合の匂いではない。古びた本の匂いだ。俺はゆっくり目を開ける。目の前に女が座っていた。ほっそりした色白の美人だ。年の頃ならたぶん二十代半ばだろうか。白のワンピースに胸まで下ろした漆黒のロングヘア。あの写真の女だ。そして顔を見て思い出したことがある。俺は彼女を知っていた。やっと思い出した。
あの朝、震災の朝、俺のところへ来た女性だ。間違いない。二十一年前の記憶がようやく蘇った。
女はじっと俺を見ていた。それはまるで俺に何かを懇願するような眼差しだった。
俺もじっと彼女の目を見る。
彼女が俺をどこかへ連れて行こうとしている。俺は誘われたまま彼女の世界に入って行った。
――これはおそらく彼女の生前の記憶の世界だ。
続く