第20話
文字数 1,467文字
一九八〇年 十一月一日
「釧路まで彼女、送ってもらえればあとはフェリーに乗りますので」
「ええ、こっちは全然かまいませんよ」
「よろしくお願いします」
そう言って石田は山田夫妻の車に乗る恵子を見送った。
「じゃ、行こうか」
そう言うと信雄はアクセルを踏む。後部席の恵子はもう振り向かなかった。スプリンタートレノの砂利を踏みしだく音が悲しく響いていた。
暫くすると後ろから恵子のすすり泣きが聞こえた。その手には蒼いバンダナがしっかりと握られていた。
「あなた、ちょっと止めて」
「戻るのかい?」
「いいえ」
奈緒美はドアを開けて一度外に出て、助手席のシートを前に押し倒した後、再び車に乗り込んだ。恵子のいる後部シートに。
「ね、恵子さん、狭くてごめんね。わたしも後ろに乗るね」
奈緒美が乗り込むと、信雄は再び車を出発させた。夕べは真っ暗でよく見えなかったが、阿寒横断道路は、昨日見えなかった山や湖が真っ青な空にこれでもかと言うぐらいに美しいパノラマの景色を映し出していた。その空の青が今日の恵子には痛い。昨日まで感じていた石田の背中の温もりは感じられない。
恵子は必死で涙を堪えていた。
「本当に好きだったのね。彼のこと」
そう言って恵子の頭をやさしく撫でると、その途端に恵子は嗚咽を上げた。奈緒美は年下の恵子が不憫でならなかった。
「ごめんなさい。せっかくの新婚旅行なのに、わたし……」
泣きながらやっと喋る恵子。
「いいのよ。これも何かの縁だと思うから。気にしないで」
「もう彼とは会わないのかい?」
信雄が無神経に尋ねる。
「あなた!」
「あ、すまん」
「ええ、もう会いません。彼には三十五年経ったら会いに行くって言ったけれど、やっぱりできない」
「え、行けばいいじゃないの」
「彼、戻ったら結婚するそうです」
「え、でも君たち、九月からいっしょに旅していたんだよね? 彼、そんな彼女がいるのに君といっしょにいたってこと?」
「あなたはちょっと黙っててください」
「すまない」
「一ヶ月いっしょに居て、わたしが勝手に彼を好きになっちゃったんです。それにただいっしょにひと月旅をしていただけで、そんな関係じゃない。だから彼には迷惑掛けたくない」
「あなたいい子ね。でもきっと彼も辛いのよ。ほんとは別れたくなんてなかったと思うわ。でもきちんと振るところは男らしいじゃない。信雄さんならきっとずるずる付き合うわね」
「うるせえよ」
「でもね、恵子さん、あなた、彼との約束は守るべきよ。三十五年後の再会の約束は守るべきだとわたしは思うな。きっと二人とも素敵に年を重ねていると思うわ。遠慮しなくていいのよ」
「ありがとう」
「どういたしまして。とっても素敵なお話、わたし感動した」
「じゃあでっかい釧路湿原でも見て気持ち切り替えるか」
「そうね。安全運転でね」
傷心の彼女を乗せた車は釧路へと向かい、そこからフェリーで東京を目指した。
そうして私たち夫婦は東京で恵子さんとお別れしましたが、すっかり彼女とは仲良くなって、それ以来ずっと連絡を取り合っていたんです。
わたしたちの下に彼女から少し厚めの封書が届いたのはそれから五年経った一九八五年のことでした。
その封書にはこの藍染のハンカチと石田さん宛ての手紙と、それにわたしたちに向けてのメッセージが入っていました。
それにはこう書かれていました。
前略 山田様
突然ですが、わたし、この度、結婚することになりました。
続く
「釧路まで彼女、送ってもらえればあとはフェリーに乗りますので」
「ええ、こっちは全然かまいませんよ」
「よろしくお願いします」
そう言って石田は山田夫妻の車に乗る恵子を見送った。
「じゃ、行こうか」
そう言うと信雄はアクセルを踏む。後部席の恵子はもう振り向かなかった。スプリンタートレノの砂利を踏みしだく音が悲しく響いていた。
暫くすると後ろから恵子のすすり泣きが聞こえた。その手には蒼いバンダナがしっかりと握られていた。
「あなた、ちょっと止めて」
「戻るのかい?」
「いいえ」
奈緒美はドアを開けて一度外に出て、助手席のシートを前に押し倒した後、再び車に乗り込んだ。恵子のいる後部シートに。
「ね、恵子さん、狭くてごめんね。わたしも後ろに乗るね」
奈緒美が乗り込むと、信雄は再び車を出発させた。夕べは真っ暗でよく見えなかったが、阿寒横断道路は、昨日見えなかった山や湖が真っ青な空にこれでもかと言うぐらいに美しいパノラマの景色を映し出していた。その空の青が今日の恵子には痛い。昨日まで感じていた石田の背中の温もりは感じられない。
恵子は必死で涙を堪えていた。
「本当に好きだったのね。彼のこと」
そう言って恵子の頭をやさしく撫でると、その途端に恵子は嗚咽を上げた。奈緒美は年下の恵子が不憫でならなかった。
「ごめんなさい。せっかくの新婚旅行なのに、わたし……」
泣きながらやっと喋る恵子。
「いいのよ。これも何かの縁だと思うから。気にしないで」
「もう彼とは会わないのかい?」
信雄が無神経に尋ねる。
「あなた!」
「あ、すまん」
「ええ、もう会いません。彼には三十五年経ったら会いに行くって言ったけれど、やっぱりできない」
「え、行けばいいじゃないの」
「彼、戻ったら結婚するそうです」
「え、でも君たち、九月からいっしょに旅していたんだよね? 彼、そんな彼女がいるのに君といっしょにいたってこと?」
「あなたはちょっと黙っててください」
「すまない」
「一ヶ月いっしょに居て、わたしが勝手に彼を好きになっちゃったんです。それにただいっしょにひと月旅をしていただけで、そんな関係じゃない。だから彼には迷惑掛けたくない」
「あなたいい子ね。でもきっと彼も辛いのよ。ほんとは別れたくなんてなかったと思うわ。でもきちんと振るところは男らしいじゃない。信雄さんならきっとずるずる付き合うわね」
「うるせえよ」
「でもね、恵子さん、あなた、彼との約束は守るべきよ。三十五年後の再会の約束は守るべきだとわたしは思うな。きっと二人とも素敵に年を重ねていると思うわ。遠慮しなくていいのよ」
「ありがとう」
「どういたしまして。とっても素敵なお話、わたし感動した」
「じゃあでっかい釧路湿原でも見て気持ち切り替えるか」
「そうね。安全運転でね」
傷心の彼女を乗せた車は釧路へと向かい、そこからフェリーで東京を目指した。
そうして私たち夫婦は東京で恵子さんとお別れしましたが、すっかり彼女とは仲良くなって、それ以来ずっと連絡を取り合っていたんです。
わたしたちの下に彼女から少し厚めの封書が届いたのはそれから五年経った一九八五年のことでした。
その封書にはこの藍染のハンカチと石田さん宛ての手紙と、それにわたしたちに向けてのメッセージが入っていました。
それにはこう書かれていました。
前略 山田様
突然ですが、わたし、この度、結婚することになりました。
続く