第13話

文字数 1,806文字

 最短ルートは三角形で例えるならば、美幌から津別を通って国道二百四十号を南下する長辺ルート一択だったが、敢えて小清水から左に折れ、二人の大好きな摩周湖と屈斜路湖の間を通り弟子屈(てしかが)に抜ける三角形の二辺を通るルートを選んだ。
 遠回りだ。しかも標高の少し高い野上峠を越えなければならなかったが、事前に聞いた情報によると、まだ凍結には至っていない。何とかバイクでも通行できそうだ。敢えてこのルートを選んだ訳は、途中にいくつもの無料の温泉があること。冷え切った体を温めたかった。
 やがて川湯温泉の標識が現れた。ここにはたくさんのホテルや旅館などの観光施設が軒を並べていたが、屈斜路湖半を走りながら二人が選んだのはコタンの湯と呼ばれる無料の露天温泉だった。旅で出会った人々からぜひここへは行くべきだと聞かされていた。
 コタンの湯は湖岸までわずか五メートルのところにあった。湖が荒れればその波をもろに被るだろう。正に大自然の中の温泉だ。今年は冬の訪れも早いためか、すでにオオハクチョウが多く飛来していた。
 脱衣所は男女別だったが、中の湯船は一つ。湯船と言うほどきちんと整備されているような風呂ではない。源泉近くに穴を掘り、周りを岩で囲んだだけの簡素な温泉だった。
 湖から水を引き入れ湯温を調節している。湯面には落ち葉が多く浮かび、底は苔でぬるぬる。お湯は薄緑色でとても清潔とは言い難い。しかしすぐ前の湖面と同じ高さにあるため、それは風呂に入ると言うより湖に入るような感覚だ。
 湯船の中央辺りに背の高い大きな岩と低い岩が二つあり、男女仕切られているように見えたが、その二つの岩の切れ目からどちらにも自由に行き交い出来る。つまり混浴だ。
 
 より湖に近い方の背の低い岩を挟んで二人はお互い恥ずかしそうに見つめ合った。シーズンオフ。他に客はいなかった。すぐ目の前には青く大きな屈斜路湖、対岸には標高千メートルを越える藻琴山、サマッカリヌプリの絶景が広がる。二人の目線と同じ高さの湖面で数羽の白鳥が体を休めていた。
 二人は無言で見つめ合う。阿寒国立公園の雄大な自然の懐に抱かれていると実感したその時、恵子は左手でタオルを胸に押し当てて右手を彼の方に伸ばした。彼もおずおずと右手を差し出し。二人はお互いその手を握り合った。
「いろいろ連れて行ってくれてありがとう」
 恵子は改めて彼に礼の言葉を述べた。
「いや、こちらこそ。君と旅が出来て本当に良かった。感謝している」
「ううん、こちらこそ」
 その時、どこからか一羽の大きな白鳥が二人の頭上を越えてすぐ傍の湖面に降り立とうとしていた。白い大きな翼をめいっぱい広げ、脚を前方に突き出し、その大きな水掻きで湖面を押さえつけるようにして静かに止まった。まるで巨大なジェット機がゆっくりと着陸するようだ。二人はその圧倒的な光景に言葉を忘れてしまった。
 白鳥は何事も無かったように嘴を水につけて優雅に浮かんでいた。

「この子たちはシベリアからやって来るのでしょう? 遠かったでしょうね」
「ああ、遠かっただろうな。一生懸命飛んで、やっとここまでたどり着いたんだ」
「ね、石田さん、わたしたちは、どこから飛んで来てどこへ行くのかな?」
「さあ、どこだろう。俺にはわからない」
「ね、こっち来てもいいよ。もっと近くに来てもいいよ」
 恵子の透き通った頬にほんのり紅が差す。
 岩を回り込めばその白い肌に触れることはた易い。その行為のどこがいけないと言うのだ。誰がそれを止めることができると言うのだ。
 しかし彼にはできなかった。キスすることも抱きしめることも、そのやわらかい肌に触れることすら。
「ありがとう。でもこれで十分だ」
「そう」
 恵子は少しだけ淋しそうな顔をした。
 その時、湖面を一陣の冷たい風が吹き渡り、白鳥たちが一斉にコォーコォーと大きな声で鳴き始めた。もうすぐこの湖にも白い季節が訪れるのだ。
「今度、内地に戻ったら、必ずもう一度会おう」
「え? 何? 聞こえない」
 彼の切なる願いは一斉に鳴く白鳥たちの声にかき消されてしまった。
「何でもない。もう行こう。遅くなる」
 彼は大声でまるで叫ぶように言った。赤く染まった原生林が湖面にその色を落とす。晩秋の屈斜路湖畔に早い黄昏が迫っていた。本日の目的地まで後七十キロ。ゆっくりしている時間はなかった。
                                    続く
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