第11話

文字数 1,815文字

   5

 どこまでも見渡す限りずっと緑の絨毯が広がっていた。そこに何頭もの牛が放牧されている。 
 牛はホルスタインだ。ロールケーキを輪切りにしたような奇妙な円筒状の物体が、向こうの丘の斜面まで点々と規則正しく置かれていた。とてもシュールな光景だ。
 ふいに彼女の声が聞こえた。

「ねえ、あれ何?」
「どれ?」
「あの黒いクリームコロンみたいなの?」
「クリームコロンって、ああ、あれか、あれはねモウモウさんのご飯だよ。冬の間に食べるご飯ね。あの中には牧草が入っていて、ああやってビニールで包んで発酵させているんだ」
「ふぅん。物知りだね。でもなんか不思議な景色ね」
「えっと、中……」
「中谷です。中谷恵子」
「あ、中谷さん、これからどうするの?」
「わたしは別に当てはないけど、あなたは?」
「俺も特に当てはないけど、そうだな、雪が降るまでには北海道(ここ)を離れようかと思っている」
「そっか、バイクだもんね。でも雪なんて十月入ったらすぐだってお母さんが言ってたよ」
「お母さん? 中谷さんこっちの人なの?」
「あ、いえ、ペンションのお母さん。わたしは神戸から来たの」
「え、なら俺と同じだ。俺も神戸から」
「え、そうなの。神戸のどこ?」
「俺は長田区。中谷さんは?」
「わたしは灘区よ。でも嬉しいな。こんなところで同郷人に会えるなんて」
「ほんとだね。ところで中谷さん、ペンションのアルバイトはもう終わり?」
「九月末で終わり。夏休みも終わってこれからはそんなに忙しくないんだって。だからあたしはお役御免ってわけ。まあ元々がそう言う契約なんだけど」
「シーズンバイトなんてそんなもんだよ。でももう十月か。早いな。家を出てからあっという間に二ヶ月だ」
「楽しい時間は過ぎるのが早いのよ」
「ほんとにそうだ」
「ね、もう少しこっちに居なよ」
「どうして? 何かあるの?」
「雪が降るまでさ、あたしといっしょに北海道、周らない? そのバイクで」
「え? 中谷さん、まだ帰らなくていいの?」
「あたし六月で仕事辞めて今プータローだから帰ってもやることないのよ」
「俺、あちこちでけっこう時間掛けて写真撮るけど、それでよかったら」
「やった! 全然オッケーよ。あたしここへ来る前からペンションのバイト終わったらこっち旅したいって思ってたんだ。あなたがいてくれてほんと嬉しいよ」
「俺は君の足ってか?」
「そんなんじゃないよ。たぶん」
「たぶん?」

 一九八〇年  夏
 彼はその年の六月に、福岡にある会社を辞めて神戸の実家に戻った。二十二才で関西の大学を卒業して親元を離れ、九州で骨を埋めるつもりで働いていたが、たった一人の父親が身体を壊して入院し、神戸に戻らざるを得なくなったのだ。
 彼の父は昔から神戸市垂水区で喫茶店を営んでいた。母は彼が子供の頃に病気で他界してすでにいない。
 八年も勤めた会社を辞めてまで帰らなければならないほど父の病気が重かったのかと言うと実はそうではない。父の病気は胆石症だった。今では内視鏡術でも簡単に治療ができるが、当時は開腹術が当たり前だった。だから最低でも三週間は入院生活を強いられることになったが、とは言え、それほど重篤な病ではなかった。
 実は彼には就職する前からずっとカメラマンになりたいと言う夢があった。そして勤めてからもその夢をずっと諦めきれないでいた。だから父の病気入院の為に実家に戻らざるを得なくなったと言うのは、仕事を辞めるための格好の口実に過ぎなかった。
 そして彼には将来を誓い合った恋人がいた。彼女は元居た会社の同僚で、いずれは結婚して神戸に呼び、父の喫茶店を手伝う約束が交わされていた。もちろん彼自身もそのつもりだった。だがその前に、どうしても彼は行きたかった。諦めきれない夢の欠片を捜し求めて。憧れの地、北海道へ。
 そこで彼は父が退院するや否や、なけなしの退職金を叩いてホンダのCB750Fを中古で買い、カメラバッグとわずかな荷物を積んで、敦賀から小樽行きのフェリーに乗り込んだ。
 一方、やはり神戸出身の中谷恵子は、その年の六月から九月いっぱいの契約で富良野のペンションのヘルパーをしていた。若い二人はそこで出会った。
 二人は同郷と言うこともあり、すぐに意気投合して、それから約一ヶ月間いっしょの時を過ごした。彼の孤独な旅は大きく軌道修正、一転して華やかな二人旅に変わった。
                                   続く
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