第14話

文字数 1,655文字

   6 

 時刻は午後四時を過ぎた。まもなく日没がやって来る。夕暮れの国道二百四十一号、阿寒横断道路。凍結こそまだなかったが、激しいアップダウンに加え、きついカーブが連続する。タンデムライディングにはとてもハードな道だ。しかし他に道はない。
 彼は慎重にアクセルを開けた。体感気温はおそらく零度近いはずだ。先ほどの温泉の温もりはすぐに冷めてしまった。晴れた昼間ならば、ペンケ、パンケの双湖台、雄阿寒岳、そして阿寒湖と絶好の観光スポットが次々に現れるのだろうが、今はすでに薄暗く、景色もよくわからなかった。
 彼はただ次の目的地まで幼子のようにしがみ付くタンデムシートの恵子を安全に運ぶことだけに集中していた。おそらく彼女も自分同様、体の芯まで冷え切っているはずだ。
 午後六時を回り、もうすでに辺りは暗闇にすっかり包まれた頃、国道二百四十一号線沿いにオンネトーの標識が見えた。分岐から道道六六四号に入る。道はきれいな舗装道路から、エゾマツやトドマツの針葉樹の深い森の中、一転してバラスだらけの未舗装路に変わった。
 前方を照らす白いハロゲンライトだけが頼りだった。ただでさえ重い大排気量車にダート走行は辛い。冷え切った体で真っ暗な細い道なら尚更だ。
 下りの目無しカーブを抜けたその時、ライトの光の中に動く影を見つけた。エゾシカだ。彼は慌ててブレーキを掛ける。エゾシカは一瞬で視界から闇に消えたが、ザザっと言う音と共に前輪が砂利でロックしてバランスを崩してしまった。幸いほとんどスピードは出ていなかったので二人を乗せたバイクはまるで象が崩れ落ちるように左側にゆっくり倒れた。
 悲鳴を上げる暇もなくバイクから投げ出される恵子。彼は慌てて起き上がり、彼女の傍に駆け寄った。
「大丈夫か!」
「うん。ああびっくりした。エゾジカ?」
「ああ」
 彼女はゆっくり起き上がり、ヘルメットを脱ぐ。どうやら怪我はしていないようだ。
 キャブレターに燃料が流れ込み、エンジンはゆっくりと止まった。再び静寂が辺りを包み込んだ。湿った森の匂いに混じってガソリンの臭いが鼻を突いた。彼はすぐにCBを起こそうとするが、積荷が重過ぎて起こせない。総重量は二百五十キロ以上あるはずだ。
 すぐに荷物を降ろし、恵子も加勢してなんとか起こすことはできたが、よく見ると左のミラーは割れ、チェンジペダルはぐにゃりと曲がり、もっと最悪なことにクラッチレバーが根本からポッキリと折れていた。大した転倒でもないのに大排気量車はその重さで大きなダメージを受ける。困ったものだ。
 転倒寸前にセカンドギヤで走っていたため、ひん曲がったチェンジペダルを一つ下げただけで緑のニュートラルランプが点灯した。セルを暫く回すと、あっさりエンジンは息を吹き返した。しかし、クラッチ操作ができない。つまりエンジンは掛かってもギアを入れることができない。 
 彼一人ならば、車体を押してそのまま飛び乗り、うまくセカンドに入れることができれば、次に止まるまでゆっくりならば何とか走れるだろう。たぶん本日の宿である野中温泉までは五キロもないはずだ。しかし……。
「ごめんな、恵子ちゃん。怪我はない?」
「いいんよ。仕方ないよ。尻餅ついたけどわたしは大丈夫。鹿にぶつからなくてよかったね。それより石田さんは?」
「ああ、俺は大丈夫だけど、バイクが」
「エンジンは掛かっているみたいだけど」
「うん、クラッチレバーが根本から折れた。だから、」
「ダメなの?」
「君を乗せて走れない」
「あなた一人なら行けるの?」
「ああ。たぶん」
「じゃあ、行って」
「無理だ。こんなところに君一人置いては行けない」
「ここから宿はどれぐらい?」
「たぶん五キロもないと思う」
「わかった。じゃあいっしょに押す?」
「重いよ?」
「二人で押せば何とかなるよ」
 真っ暗な森の中、CBのハロゲンライトだけが唯一の頼りだった。バッテリーが消耗するのでエンジンは切らない。並列四気筒の重厚な排気音だけが辺りに響き渡っていた。これならクマに襲われることもないだろう。
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