エピローグ1 ほまれ

文字数 1,688文字

 ほまれの目の前には湖があった。波が動くたび、きらきらと陽光を反射している。その眩しさから目を逸らすように、横を見る。吉田が、明日人(あすと)を肩車して湖を眺めている。

「でっかいうみ! 魚、いるかな?!」
「海じゃなくて、み・ず・う・み。この先はおんなじ日本だよ」

 笑いながら吉田が訂正しようとする。いつか彼は自分の子供にも、こんな風に物事を教えるのだろうかと思い、ほまれは微笑む。

 ログハウスの方から、千登世(ちとせ)が駆けて来る。

「吉田さん、ほまれさん。お昼ご飯の準備ができましたよ。戻りましょ」
「うん。栗谷さん、行こうか」
「はーい」

 明日人を肩に乗せた吉田の後ろについて行きながら、ほまれは考える。出会ってから彼は、一貫して名字読みをしてくる。そういえばなぜか、大人を下の名前で呼ばないみたいだ。何か(こだわ)りがあるのだろうか。

 道なりに歩き、ログハウスに着くと、別荘の所有者の息子である大西が、玄関のポーチに座って本を読んでいた。

「西山さんと竹内さん、あと本間さんが張り切ってるんで、僕は、やることがないんですよね」
「私、本当に手伝わなくて良かったのかな」

 ほまれの問いかけに、吉田と明日人がそれぞれ答える。

「栗谷さんのお疲れさま会でもあるんだから、いいんだよ」
「おねえちゃん、おつかれ、さま!」

 大きなログハウスの中に入ると、豪華な料理が用意されていた。シチューにアヒージョ、パン、ポテトサラダ、骨付きチキンにローストビーフなど、バイキング形式で好きなように小皿に取って食べられる。

 大西の別荘の中には他にも、吉田が勤める大学の学生や、竹内の結婚予定の相手である古賀が遊びに来ていた。一大パーティーである。

 クリスマス・イブのライブの(あと)に吉田から誘われて、3日後の今日、ほまれは大西の別荘にいた。
 何人かは知った顔がいるものの、さすがに情報量の多さに気疲れしてきていた。お腹がある程度満たされたところで外に出て、玄関脇のポーチにある木の椅子に腰掛け、緑の多い周囲の景色を見回す。

 年末の冷たい空気を吸って大きく伸びをしていると、吉田が玄関のドアを開けて出てきた。

「あ、いたいた。栗谷さん、ちょっと話があるんだけど」
「何? 改まって」
「うーん。ここだと話がしにくいから、少し歩かない?」
「いいよ。じゃあ、あっちの高台に行こうよ」

 吉田と手を繋いで歩いて行く。大西の車の中でも、ここに来てからも周りにずっと誰かがいたから、今日初めてのふたりきりの時間。それがすごく嬉しくて、ついつい握る手に力が入ってしまう。ほまれは照れ隠しに腕をブンブン振ってごまかしたりしてみる。

「ライブが終わって、元気が有り余ってるの?」
「違うの。一緒にいるのが嬉しくて……」

 その言葉に、吉田が真面目な表情を見せる。景色がよく見える高台で、少し強めの風にふたりの髪がなびく。

「あのさ、俺……」

 吉田は、言葉を切ってしばらく(うつむ)く。ほまれは、彼が何を言い出すのか全く想像できず、鼓動が早くなる。

 彼は顔を上げ、決心に満ちた表情で言う。

「ほまれ、一緒に暮らさないか」

 彼女は唖然とする。意外なことが一気にふたつも起きて、しばらくの間、何も考えられなくなる。

 そして次に、彼との暮らしのイメージが頭の中に生まれる。それは、きっと温かな、優しい世界。

 ほまれの目から一粒の涙が生まれ、頬を伝っていく。

「……ずるいよ。こんな時だけ名前で呼ぶなんて」
「俺、人を名前で呼ぶの苦手なんだ。いつも少し距離を置いて、逃げられるようにしてたから。でも、君からは絶対に逃げない」

 泣き顔を見られたくなくて、吉田に抱きついて顔を(うず)める。

「もう一回名前で呼んでくれたら、望みを叶えてあげる」
「……ほまれ。ふたりで暮らそう。幸せにするよ」
「うん。……うん」

 ほまれの涙が止まるまで、吉田はずっと抱きしめていてくれた。

 ふたりはもう一度、手を繋いで歩く。

「じゃあ、私も下の名前で呼んでいい?」
「えっ、俺の名前、キラキラネームだからなぁ」
「なら、しーくんって呼ぼうかな」

 柔らかい風が吹き抜けていく。雲間から差し込む陽光が、ふたりの姿を明るく温かく包んでいた。
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