第1話 別れの言葉

文字数 7,503文字

 ひとつの恋が終わった。俺はノートパソコンのタッチパッドを()でる。彼女と俺が写してきたカメラの画像のバックアップフォルダを、デスクトップ上のごみ箱に捨てる。

 ひとり(つぶや)く。グッバイ。

 彼女が俺のアパートの部屋に残していった物は、歯ブラシやトリートメント、旅先で買った何に使うか分からない月のオブジェ。あと何かあったかな。とりあえず目に映る、いらない物をごみ袋に入れていく。

 またも(つぶや)く。グッバイ。

 何度目だろうか。甲斐性がないのは、自分が一番よく知ってる。だからもう28になるのに派遣社員で食い(つな)いでるし、趣味だって、ソシャゲくらいしかやってない。ソシャゲを趣味っていうのかも分からない。誰かと付き合っても続かない。同棲しても、俺が彼女のいる生活に飽きてしまい、気付けばまたひとり暮らしになっている。

 このまま、ダラダラと生きて、歳を取って、ひとり寂しく死んでいくんじゃなかろうかと思う。ごみ袋に彼女の物を入れる度、自分の心の一欠片(ひとかけら)()がれていくような気がする。俺はどうして長続きしないんだろう。恋も、仕事も、人間関係も。

 口を縛ったごみ袋をベランダに投げ捨て、自虐的な笑みを浮かべる。外は雨。今日は土曜日だが、副業となる日雇いの仕事を入れている。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 電車で1時間、仕事でもなければ一生訪れることのない、(さび)れた街に()りる。駅には屋根も無い。改札を抜け、折り畳み傘をさして、スマホの画面で地図を見ながら現場へ向かう。

 早めの電車に乗ってきたから、集合時間の30分前に現場に到着してしまった。到着したら、リーダーとして指定されている人の電話番号に連絡する必要がある。SMSでもいいらしいが、俺のスマホの契約だとSMSは有料、通話が10分まで無料だから、電話をかけることにした。

 3コールで相手が電話に出る。

「はい、栗谷(くりたに)ほまれで……あっ、またフルネームで名乗っちゃった。えへ」

 えへって。電話に出るなりハイテンションの声に驚いて、俺が黙ってしまうと、声の(ぬし)が続けた。

「今日のメンバーの方ですよね。私、もう現場にいるんですけど、到着の連絡ですか?」
「えっ、あ、はい。俺も、もう現場にいるんですけど」

 俺は後ろから肩を軽く叩かれる。振り向くと、目の前にスマホを耳に当てた女の人の顔があって、また驚く。距離、近くね?
 少し後退(あとずさ)り、スマホの画面の終話ボタンをタップした。

 肩まで伸びる茶色がかった髪、デニムの動きやすそうなパンツに、日雇いの会社名が白字で入った黒いTシャツ。なんだか仕事ができそうな()で立ちに見える。

「リーダーの栗谷(くりたに)です。ここは初めてですか?」
「はい。……多分、ここは今日だけだと思いますけど、よろしくお願いします」
「まだ集合時間まで時間あるし、あと10人くらい来るから、その辺に座って待っててくださいね」

 そう言って、栗谷さんはにこりと笑い、少し離れたところの集団の方へ駆けて行く。
 集団は女の人ばかり5人で、今のところ男は俺だけみたいだ。日雇いの現場によっては、力仕事でない限り、女性ばかりの場合も多い。少なくとも俺の経験では、そうだ。所在なげに雨を(しの)げる場所を探し、濡れていないコンクリートブロックの上に座った。

 集合時間を過ぎる頃には、結構な大所帯になっていた。男は数人いるが、俺よりも若い、大学生くらいの子ばかりだ。そりゃそうか、日雇いに来る男なんて、訳ありか大学生くらいだろうなと勝手に納得する。女の人たちは、若い人から、わりと年配の人まで、髪の色も含めてバラエティに富んでいる。俺も含め男たちの個性の無さに少し悲しくなった。

 栗谷さんの号令で、全員が倉庫の中に入る。倉庫は大きなプレハブで、床のコンクリートと高い屋根のせいか、雨が降っている外よりも、幾分かひんやりとしている。何と言うか、温もりを感じられない空間だ。

 現場の責任者っぽい、(いか)つい顔の男がフォークリフトから降りる。栗谷さんに何かのリストが書かれた紙を渡して、日雇い人員を見回す。

「点呼が終わったら、経験者はこっち。初めての人はあっち。荷物はあそこ。よろしく」

 ぶっきらぼうに指差しながら大きな声で指示を出すと、さっさとフォークリフトに乗って奥へ行ってしまった。栗谷さんがひとりずつ名前を読み上げ、返事のあったタイミングで紙にチェックを付けていく。名前を呼ばれた人たちは、それぞれ荷物を指定された場所に置き、持ち場に散っていった。

 俺は最後に名前を呼ばれた。はい、と返事をして、皆と同じ場所にバックパックを置き、初めての人ゾーンに向かおうとすると、栗谷さんに声を掛けられた。彼女は周りに聴こえないよう小さな声で注意をしてきた。

「財布とかの貴重品は、持っておいた方がいいですよ」
「あ、じゃあそうします。そうか、そうですよね」

 俺はバックパックから財布とスマホを取り出し、ズボンのポケットに収める。おそらく、盗まれただの何だのと騒ぎになるのを避けるためだろう。でも、どうして俺が貴重品をバックパックに入れていたことが分かったんだろう。透視能力でも持ってるのだろうか?

 (いか)つい男は佐藤と名乗った。佐藤さんが未経験者に作業の説明をする。
 ベルトコンベアの端に冊子が積まれていて、それを1冊ずつベルトコンベアに流す人がひとり。流れて来た冊子に住所や名前の書かれた紙を置く人がひとり。さらに、何かのグラフや情報入りの分厚い紙を冊子に挟む人がひとり。最後に、冊子を上に乗った紙ごとロゴ入りの袋に詰める人がひとり。

 単純作業だが、最初に乗せる紙と、冊子に挟む紙は必ず同じ人の情報になるため、冊子が全て流れ切った時には、絶対にどちらの紙も使い切っていなければならないということだった。俺は、最初か最後の役だと、気が楽で()いなと思った。佐藤さんは、適当に配置を振り分けていく。俺は残念ながら紙を置く係に任命されてしまった。

 それぞれの人員が配置に着くと、すぐに作業開始だ。冊子がベルトコンベアに置かれ、ゆっくりと進んでいく。俺は一番上から紙を取り、住所や名前が印字された面を上にして冊子に置く。これだけの作業で、またゆっくりと流れてくる冊子を待つ。さすがに遅すぎるように感じたが、逆に早いとトチりそうなので、手をパタパタと動かしながら、我慢して次の冊子を待つ。

 見渡す限りプレハブの中に時計は無いし、作業中はスマホを見ることもできないので、どれくらい時間が経ったか分からない。そういえば、誰もトイレに行こうとはしないが、もし行きたくなったらどうすればいいのだろうか。そんなことを考えながら、冊子が流れてくるたびに紙を取って、置くという単縦作業を繰り返していく。やがて、冊子をベルトコンベアに置く役の人が手を挙げ、佐藤さんに作業完了を知らせる。

 俺は最後の紙を冊子の上に置いた、つもりだったが、紙がもう1枚残っていることに気付いた。横の、もう1枚の分厚い紙を冊子に挟む係を見ると、ちょうど最後の1枚を取り上げて挟むところだった。俺の心臓の鼓動が大きくなる。佐藤さんが通りがかり、俺の台に紙が残っているのを見つけた。

「おい! 何で1枚残ってるんだ!」

 他のレーンのメンバーたちが一斉に、ぎょっとした表情で俺の方を向き、すぐに自分たちの作業に戻る。俺は言葉が出てこず、ただ背中に冷や汗を流す。言い逃れのできない状況に(おちい)った経験は数あれど、対処方法はひとつしかない。

「申し訳ございません!」

 怒られる前に謝る。本職で似たようなことがあった時もよく使う手口だ。こういう時、下手に言い訳をし始めたりすると、さらに炎上することがある。紙が元々1枚多かったのでは、なんて言おうものなら、大クレームになるかもしれない。佐藤さんは残った1枚に住所と名前が印字されていることを確かめて、大声を放つ。

「栗谷ィ!」
「はい!」

 栗谷さんが呼ばれ、こちらに全速力で走ってくる。茶色がかった髪が激しく揺れる。表情は硬く、何かを噛み潰したように口をへの字に曲げている。

「リーダーとこいつで、このレーンの冊子全部開けて点検しろ! すぐにやれ!」
「かしこまりました! 申し訳ございません!」

 佐藤さんは俺の顔を一瞥(いちべつ)すると、舌打ちして去って行った。栗谷さんが俺の肩をポンと叩き、何も言わずに冊子のひと山の横に(かが)む。俺もその横に屈み、ちらりと彼女の顔を見る。彼女はこちらを向いていて、目が潤んでいるように見えた。震える小さい声で(つぶや)く。

「怖かったね。やっぱり男の人に怒鳴られるの苦手かも」

 そう言って、少し微笑む。俺に文句を言わないんだなと思って、自ら謝罪の意思を示すことにした。

「すいませんでした。でも……」

 俺の唇に、彼女の人差し指が軽く触れる。

「作業しよう。言い訳は後で聞いてあげるからさ。最後のから順番に差し替えていこう」

 栗谷さんは、鼻をすすると、積まれた冊子を一番上から取り出して、冊子に挟まれた情報と、冊子の上に乗った紙の情報を照合する。残念ながら、全部1枚ずつズレている。俺は、元々乗せてあった紙を袋から取り出して、余った1枚を差し替える。栗谷さんが挟まれている方の紙に印字された名前を読み上げ、俺は、渡された冊子の上の紙の名前を確認しながら差し替えていく。

 体感で1時間くらいかかっただろうか。その作業をひたすら続け、ようやく、何も紙が乗っていない冊子が見つかった。結局、俺のミスだった。冊子に別の紙を挟む係が気付けばいいのにとも思ったが、そもそも俺がミスしなければ良かっただけだ。言い訳のしようがない。

 見つかった問題の袋に、正しい情報の紙を乗せて、修正作業は完了した。念のために、続けて何冊か確認し、問題ないことが分かると、栗谷さんは佐藤さんの元へ報告に走って行った。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 作業は昼休みの1時間を挟み、午後5時まで続いた。俺はめちゃくちゃ慎重に紙を取り上げて、冊子に置いていった。最後の1枚を処理した時、大きく息を吐いた。間抜けなチャイムが鳴り、作業の終了を告げた。

 プレハブの倉庫から出ると、午後3時ごろまで降り続いていた雨はすっかり()んでいた。
 皆、道路に出ると、それぞれの帰路につく。俺も駅へ向かい、ズボンのポケットに手を突っ込んで猫背で歩いていく。アパートの冷蔵庫の中に何があったか思い出そうとするが、記憶が曖昧(あいまい)だ。まだ、午前中の失敗を引き()っているのかも知れない。

「ちょっと待って! えっと、吉田くんだっけ?」

 後ろから栗谷さんが走り寄ってくる。明らかに二十歳(はたち)くらいに見えるので、俺を「くん」付けで呼ぶのには違和感があった。でも、まあ、もう会うこともないだろうし、別にいいか。彼女は振り返った俺の前で立ち止まる。

「なんか、クレームとかですか?」
「えっ、違うよ。佐藤さんは、ミスしてもちゃんと直せばそれ以上何も言わないから」

 じゃあ何の用ですか。いや、違うな。午前中に思いっきり迷惑かけたし、もっと丁寧に対応するべきだろう。どうやって返答しようか迷っていると、栗谷さんが続ける。

「こっちの道に行くのが君だけだったから、一緒に帰ろうと思って」
「あー、駅に行くんですけど、最短の道が分からないから、適当に歩いてます」
「そうなんだ。私はいつもこの道で駅まで戻ってたから、これが最短だと思ってたよ」

 特に了承するでもなく、栗谷さんは勝手に横並びで歩き始める。助けてもらったし、拒否するのも悪いかと思い、そのまま歩き続ける。特に話すことはなくて、俺は無言を貫こうとする。しばらくして、彼女が俺の顔を(のぞ)いて話し始める。顔が近いんだよなぁ。

「もしかして、まだミスの事、引き()ってる?」
「そうスね。本職では最近、あんな分かりやすいミスはしないんで。結構、へこんだかも知れないです」
「失敗しない人なんていないよ。ここじゃないけど、私も前にもっと(ひど)いミスして、一時期、日雇いの仕事を紹介してもらえなかったんだから」
「そうなんですか。じゃあ、あんまり深刻に考えないようにします」
「それでいいと思うよ。うん」

 懸命な励ましにあいながら駅に到着し、帰りの電車を待つ。栗谷さんと話していると、どうしてもさっきの仕事の事を思い出して、心が(えぐ)られる気がする。なんならひとりで帰った方が良かったなとも思った。

「吉田くんは、どこまで?」
「志木で降ります。栗谷さんもそっち方面ですか」
「うん。私はもうちょっと先まで行くけど、同じ方向だね」

 相変わらず、顔が近い。パーソナルスペースが狭い人間は、他にも知っている。だけど、こういう態度は基本的に苦手だ。親しくなった後ならいいと思うけど、きっと彼女は誰にでもこんな感じなのだろう。こういうのを八方美人って言うんだろうか。

 俺と栗谷さんは、普通電車に乗る。夕方の電車はそこそこ混んでいて、座れる場所は無さそうだ。吊り革につかまり揺られていると、彼女がまた顔を近付けて言う。

「ねぇ、ご飯食べて帰ろうか」
「うーんと、まあいいですよ。ミスのお詫びに(おご)りますよ」

 栗谷さんはぷくっと頬を膨らませて、俺の言葉に反応する。

「別に(おご)ってもらいたくて誘ったんじゃないよ。明日は日曜日だから、ちょっと遅くなってもいいかなと思っただけ」
「じゃあ、割り勘で」

 彼女は少し考え、にこりと笑顔になって言う。

「ごめん、やっぱり(おご)ってもらおうかな。今月あんまりお金ないから」

 どっちだよ。俺の文句言われ損じゃないか。俺が頬を膨らましたいよ。
 ともあれ、1時間ほど電車に揺られていると、いつもの駅が姿を現す。

「俺はここで降りるんですけど、どうしますか」
「もちろん、私も降りるよ。どこでご飯食べようか」

 電車を降りて、改札を通り、東口から出る。さっきまで寂れた所にいたせいか、ビル街の明かりをやたらと(まぶ)しく感じる。たまに独りで行くラーメン屋か、チェーンの焼鳥屋か迷って、好きなものを注文できる焼鳥屋に向かうことにした。
 少し歩いて行くと、見慣れた看板が見えてきた。

「栗谷さん、鶏肉食べれないとかないですよね」
「ふっふっふ。私は嫌いなものが無いのが一番の取り柄なのですよ。お腹空いたから、ちょっと多めに頼んじゃうかもだけど、いいかなぁ」
「別に問題ないですよ。ちょっとくらい多めに頼んでも、ここならリーズナブルですし」

 自動ドアは俺たちを歓迎した。店に入ると、すぐに店員の大学生風の男が、大股で歩いてくる。

「2名様ですね。こちらへどうぞ」

 通されたのは、4人用のテーブルだった。はっきりとした木目の入った分厚い木のテーブルの上に、注文用のタブレットが置かれている。ベンチシートに座り、手拭きでしっかりと手を(ぬぐ)った後、タブレットの画面に触れ、品書きを眺める。

「とりあえず、ももと、かわ、つくね、かなぁ。あと、ドリンクは角ハイボールにしようかな」
「一応聞いときますけど、栗谷さんは二十歳(はたち)以上なんですよね」
「当たり前でしょ。私はもう23だよ。まだ大学生なんだけどね。あっ、もしかして10代に見えるって? もー、照れるわー」

 別にそこまで言ってないが、そうかそうか。うーん。この話は踏み込まない方が良さそうだ。これ以上、彼女の個人情報は必要ないだろう。俺は彼女と同じものにプラスしてもう何本か串を選んで、キャベツ盛と唐揚げも注文した。ついでに俺もハイボールにした。

 注文した料理が続々と運ばれてきた。ハイボールのジョッキを持ち、何の乾杯か分からないが、乾杯する。
 栗谷さんは喉が渇いていたのか、食べ物より先にハイボールで喉を(うるお)し、幸せそうな笑顔に変わる。コロコロと変わる表情に全部、意味があるように見える。俺とは違う世界にいる人のような気がした。

「それで、吉田くんは普段は何やってる人なの?」

 栗谷さんはどこぞの司令官のごとく、組んだ両手の上に(あご)を乗せて、俺の個人情報の領域に踏み込んでくる。まあ、俺の情報の値打ちなんてどうでもいいか。

「俺は……平日は大学で事務やってます」
「へぇー、あの、窓口の向こう側にいる人ってこと?」
「そうですよ。派遣なんで大した仕事じゃないですけど」
「なんか面白そう。どこの大学?」
「……都内のどっかです」

 大学名までは聞いてくれるな、という暗黙の意思を示す。これはちゃんと届いたようで、追い討ちで聞いてくることはなかった。彼女の在籍する大学も聞かないし、俺の働く大学も教えない。これでいいと思う。

 最初に注文した串では少し足らず、お互いにもう何本か注文して、全部を食べ終わる頃には腹は一杯になっていた。栗谷さんは、顔が少し赤らんだが、酔っ払うほどでもなく、推しのバンドの新曲がどんな風にミックスされているかについて、熱弁をふるっていた。俺は多分少し酔っていたのだろう。それを前のめりで聞いて、言葉のひとつひとつに大げさなリアクションをしていた。

「はー。やっぱりたくさん食べちゃった。ごめんね、本当に(おご)ってもらって大丈夫だった?」
「こういう時のために日雇いもやってるって感じなんで、大丈夫ですよ。結構、遅い時間になったけど、送らなくてもいいんですか」
「あら、紳士なこと言うじゃない。でも結構です。もう大人なんで、ひとりで帰れますよーだ」

 栗谷さんは相変わらずの笑顔で返してくる。駅の東口まで一緒に歩く。心なしか、それほど顔を近付けてこなくなった。これくらいの距離感が俺には心地良く思えた。駅に着くと、彼女は小さく手を振って離れていく。

「じゃあ、今日は楽しかったよ。さよなら」
「俺も、色々ありがとうございました」
「こちらこそありがとう。久しぶりにお腹一杯まで食べちゃった」

 もう一度小さく、じゃあ、と言って彼女は改札に向かう。俺がそのまま彼女の背中を見ていると、彼女は立ち止まり、こちらへ振り向いた。何かを思い出したような表情をしている。

「ねえ」

 そう短く(つぶや)き、口を閉じてにこりとする。

「はい」

 俺もなぜか短く返してしまう。

「……またね」

 そう言った(あと)の彼女の表情は、なんだか影のある微笑みに見えた。俺がぼうっとして黙っていると、彼女は続ける。

「またね、って言ったら、またね、って言って欲しいな」

 なんだそんなことか、と思ったけど、なぜかその言葉が口から上手く出てこない。照れくさいのか、それとも、もう会う気なんて無いからだろうか。

「言って」
「……ま、またね」

 俺が言葉を振り絞ると、彼女は(きら)めくような笑顔に変わった。

「ありがと」

 最後にそう言って、今度こそ本当に改札の向こう側へ消えていった。

 俺は呆然として、しばらくその場に立ち尽くしていた。
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