第14話 水族館

文字数 2,290文字

 12月18日。

「グエッ!」

 明日人(あすと)のパンチが俺の鳩尾(みぞおち)に入った。

「ヨシダ! どっかいきたい!」
「だからってパンチはないだろ。雨なんだから仕方ないじゃないか」

 久しぶりに日雇いの仕事を入れていない日曜日。俺は就職の報告と、明日人(あすと)に会うために、本間(ほんま)さんのマンションにいた。あいにくの一日中の雨に、明日人がいきりたっている。

「こぉら、明日人。吉田に当たらないの。部屋でできる遊びもあるだろ」
「ない!」

 明日人は倒れたフリをした俺の腕を引っ張る。これは、どうしたものか。その光景を意に介さず、本間さんが言う。

「吉田の就職祝いに、寿司でもとるか」
「寿司……魚……」

 俺に妙案が降ってきた。俺に馬乗りになっている明日人を抱きかかえ、本間さんに提案する。

「水族館に行きましょう!」
「すい! ぞく! かん!」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 スポットライトが点々と照らす暗い通路を歩き、広い場所に出ると、色とりどりの小さな魚たちが出迎える。明日人(あすと)は目をキラキラさせて、分厚いガラスの向こう側の海の世界を眺める。

「なんで水族館?」

 明日人の喜ぶ姿を見ながら、本間さんが問う。

「……どこでも良かったかな。明日人と、本間さんと、思い出を作りたかっただけです」
「別に日雇いの仕事やらなくなっても会えるだろ。何を急いでるんだ」
「もしかすると、一緒に暮らすかもしれないんです。そうなったら、さすがに他の女性に会うのはダメかなと思って。前の彼女(ひと)の時は気にしてなかったんですけどね」
「女性か、そんな風に見られて光栄だよ。でも確かに、あの子のことは大切にしてあげて欲しいな」

 イワシのトルネードに感嘆の声を上げ、クラゲのコーナーではその不思議な動きにまた声を上げ、明日人は見るもの全てに興味を示す。きっとこの子は聡明な人間に成長するのだろう。
 (あお)の世界をゆったりと動き回るクラゲを眺めながら、本間さんが話し始めた。

「濱田くんの家に泊まった時、ほまれちゃんは布団の中で泣いてたよ」
「やっぱりあの時、泣いてたんですね」
「朝、外に出て行ったのを心配して見てみたら、お前とくっついてた。濱田くんも起きてきたから、少しお茶を飲んで(はな)した。彼は音楽、続けるかもって言ってたな」
「濱田さんが、また音楽やるって……?」
「吉田に曲を褒められたからって言ってたけど、多分嘘だ。彼はほまれちゃんに未練があったんだと思う。お前たちの姿を見て、ようやく吹っ切れて、前に進むことにしたんだろうな」
「……まあ、理由が何であれ、音楽続けてくれるなら、俺は嬉しいです」

 階を上がり、巨大なカメに明日人は夢中になる。自分とそれほど変わらないような大きさの生き物に、恐れと好奇心を刺激されているようだ。足早に歩いて行く明日人の手を取り、一緒に水槽の中の不思議な世界を眺めながら進もうとすると、本間さんが真面目な声で言う。

「吉田、お前は優し過ぎるよ」

 振り向くと、柔らかい微笑みを浮かべている。

「誰にでも優しいから、いつか重圧に耐えられなくなる。今まではそうなる前に逃げてきたんだろうけど、今度はそうはいかない。誰も裏切らずに、生きていけるわけない」

 俺はにやりと笑う。

「そしたら、()いつくばってでも進みますよ。潰れたらその形のまま、傷ついたらその傷を背負ったまま、突き進んでいきます」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 本間さんのマンションに戻り、車の中で眠ってしまった明日人をベッドに寝かせ、布団を掛ける。幸せそうな寝顔に、なんとなく髪を()でる。

「遅くなったな。送っていこうか」
「大丈夫です。いつも通り、電車で帰れます」

 リュックを取り、玄関に向かおうとすると、後ろから本間さんが抱きついてきた。柔らかい体温が伝わってくる。

「ど、どうしたんですか?」
「会えなくなるのが寂しいのは、お前だけじゃないんだぞ」

 受け入れることも、振り払うこともできず、静寂に身を(ゆだ)ねるしかない。

「じゃあ、栗谷さんと一緒に来ますよ、それならきっと……」
「そういう話をしてるんじゃない」

 本間さんの腕の力が少し強くなる。

「明日人の父親が死んで、いや、その前から、ずっと明日人とふたりきりで過ごしてた。お前が遊びに来るようになって、私たちの灰色の世界に、少しだけ色が灯ったような気がした」

 俺は立ち尽くしたまま、小さな声で言う。

「……本間さん。俺、あなたのこと好きでした」

 俺は彼女の腕を(ほど)き、向き直る。本間さんは涙を流していた。

「同棲してる彼女(ひと)がいたのにですよ。俺、ホント(ひど)い人間だったんです。だから出ていかれちゃったんですけどね」
「それは酷いな。最低だ」
「でも今は、俺にたくさんの色を与えてくれるのは栗谷さんです。一生、彼女と一緒にいる自分に憧れてるんです。憧れ続けたいんです」
「憧れ……か」
「本間さんには感謝してます。仕事のことだけじゃなくて、たくさん助けてもらったし、本間さんの微笑みは俺の心の支えでした」

 本間さんは、タオルで目を押さえる。

「やっぱり、時期を見て栗谷さんと会いに来ますよ。俺がそうしたいんです」
「ほまれちゃんが傷つかないといいけどな」
「俺たちは信じ合ってるから、大丈夫です」

 俺は、気付けば笑顔になっていた。本間さんも自然と笑顔になる。

(かな)わないな、お前たちには」

 俺は玄関の扉を開けて、外に出る。扉を閉める前に、本間さんを見る。彼女はいつもの優しい微笑みを見せてくれていた。

「また、来ます」
「ありがとうな、吉田」

 手を振り扉を閉める。マンションを出ると、降り続いていたはずの雨はすっかり()んでいて、夜空には星が(またた)いていた。俺はしばらくその光を見つめ、またゆっくりと歩き出した。
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