第2話   ウシ篇 ふわふわチーズと牛の眸

文字数 912文字

 いまより少し昔、農村のお百姓さんの家にはたいてい牛がいました。牛は、田んぼを耕す農具を引いたり、お乳を出したり、最後には食べるためのお肉になったり、とても大事な財産だったのです。
 ベベコが幼かった頃、隣のおじさんの家には牝牛がいました。この牝牛はときどき子どもを産みました。今で言う「人工授精」で、生まれた仔牛が牝ならそのまま大切に育てられますが、牡なら、生まれてすぐ売られてしまいます。牡はお乳を出せないし、将来子どもも産めないからです。売られた仔牛はどうなるかって?…食肉業者に引き取られます。
 小さなベベコは、売られた仔牛がどうなるかなんて考えもしませんでした。べべコが胸をわくわくさせて考えていたのは、「おじちゃんちのふわふわチーズが食べられるかどうか」それだけでした。お隣のよしみでおすそわけにあずかれる、出産直後の母牛だけが出せる初乳を使って作る「初乳チーズ」を、べべコは今でもこの世でいちばん美味しい食べものだと疑いません。作り方は、わかりません。「チーズ」と呼ばれていましたが、温かいおぼろ豆腐かスフレのような食感で、ほんのり甘くて酸味があって、口の中でふわっと溶けて、乳脂の香りがぼゎーっと広がるのです。
 この初乳チーズ、作れるのは生まれた仔が牡のときだけです。生まれたのが牝なら、初乳は仔牛のもの、ヒトの口には入りません。だから、生まれたのが牝だと聞くと、べべコは少なからずがっかりしたのでした。
 そんなべべコも、少し大きくなって、生まれた牡の仔牛の運命について知ったときには、少なからずショックを受け、隣のおじちゃんがちょっとだけ嫌いになりました。だけれど、それがきっかけで「初乳チーズ」を食たくなくなった、などということはなく、やはり最高の味と香りと舌触りに、「おいしい!」と叫ぶのでした。
 それからときは流れ、お百姓さんは牛を飼わなくなり、「初乳チーズ」は幻の食べものになってしまいました。べべコはふと思いだします。湯気の立つふわふわのチーズ、おじちゃんの老木のようなゴツゴツした手、そして、引かれていく仔牛の黒くてつやつやと清んだ眸、牛小屋につながれた母牛の、やはりつやつやと濡れた静かな眸を。
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