(一)出会い

文字数 3,547文字

 二〇二五年問題というのがあるらしい。日本は超高齢社会に突入するんだと。
 超高齢社会、なるほど。あれっ、でも『化』の字が抜けてね。超高齢化社会の間違いじゃねえの。いえいえ、これで良いんです。いつのまにか『化』が取れて、我が国は遂に高齢社会の完成形へと向かっているのであった。
 では二〇二五年、一体何が問題になるかというと、国民の三人に一人が六十五才以上になるのだという。へえ、すげえ。で高齢者っていうと切っても切れないのが、病気と介護。よって社会的に医療、介護施設の不足に陥るのではないかと危惧、不安視されているのだ。
 しかも高齢者の五人に一人という割合で、認知症の人が激増するってよ。うわあ、まじ。こりゃもう他人事じゃ済まされねえ。我が日本にはそりゃもう大変な世の中が、もう目の前に迫っているのであーる。

 (一)出会い
「あんちゃん」
 それは余りにも掠れた、か細い所謂蚊の鳴くような声で、俺の耳に聴こえて来たんだ。ビクッとして俺は、きょろきょろと辺りを見回してみたさ。しかし人の影なんか何処にもありゃしない。
 季節は夏で七月だ。蒸し暑い日が続いており、今夜も熱帯夜ってとこだな、こりゃ。ふう、まじ暑い。時計の針はって俺の腕時計は生憎液晶のやつだけど、既に夜十一時を回っていやがった。俺がいるのは、神奈川県は横須賀市の中心地、京急線は汐入駅そばにあるヴェルニー公園って公園。ヴェルニー公園っていう位だから、公園に決まってらあな。俺はそこのベンチにしっかと腰を下ろしているところだった。
 そんな夜更けに俺が一体何をしていたかと言えばさ、詰まんねえ話、残業で遅くなった仕事帰りの途中ってやつ。家に帰る前にちょこっとスマホのチェックでもしてやるかと、道草食ってたって、ただそれだけの話さね。
「あんちゃん」
 なのにその弱々しい声は、またしても俺の耳に入って来やがった。
 だから、何の用だっつうの。一体何処いんだよ、声の主、はあ。
 姿の見えないその声に、正直俺は苛々と加えて恐怖をも覚えていた。詰まり小心者なんだな、俺って野郎はさ。
 で苛々アンドビクビクしつつ良く見ると、俺の座っているベンチから二つ隣りのベンチの下に、そこはまっ暗だったんだけど、どうやら確かに人の気配がしている。ん、なんか怪しい。俺が身構えてると、そのまっ暗闇の中から、突如ひとりの男がにょきーっと姿を現しやがったの。これには流石の俺もびびるしかなかった。
 何だ、こいつ。
 思わず俺は絶句したわ。それもその筈。ベンチの下に隠れていたのか、それとも寝ていたのかは知んねえけど、公園の通りに沿って立ち並ぶ外灯の仄明かりの下で目にしたその男の姿ったら、もしかしてホームレス、と思える風貌だったからさ。
 長く伸びた髪を背中で束ね、髭は意外と少なく無精髭程度なんだけど、痩せこけていて、特に頬骨の浮き上がりが際立っててさ、ちょっと見るに堪えなかった。服装はってえと上半身が紺のTシャツ、だから汚れは目立たないけど、はいてる黒のチノパンは穴や破れはないにしても相当傷んでるふうだった。
「すまねえ、あんちゃん」
 その男はとぼとぼと俺の前に近付いて来るや、やっぱり弱々しい声で話し掛けて来やがった。年の頃は六十才前後かと思える初老の男だな。ここヴェルニーは大きな公園だし、今のご時世なんだからホームレスの一人や二人いたっておかしかない。
 俺は身長百七十八センチの長身なんだけど、男は俺よりも小柄で人相もお人好しっぽくてさ、だから悪そうなやつには見えなかった。という訳で俄かに恐怖心は消え去り、俺は落ち着きを取り戻したんだ。
 でも男からむっとするような体臭はしなかった。はて、本当にホームレスなのかよ、この人。俺は訝しがりながらも、念のため警戒は怠らなかった。一体何の用だよ。しつこくされても嫌だし、俺は取り合えずぶっきら棒に口を開いた。
「なんか、用すか」
「本当にすまねえ、あんちゃん。もし水あったら、分けてくんねえか」
「水」
 ありゃりゃ、たかってきやがったよ、この人。でも水って。何で、水。金だとか食いもん、酒、煙草なら分かるけど、水って何だよ。戸惑いつつ俺は聞き返した。
「水って、おっさん。飲む水」
「ああ、飲料水。あったらでいいんだけど。喉渇いちまってな、もう丸二日飲んでねえんだよ、何にも」
 ええっ、丸二日だと。ふざけんなよ、まじ、やべんじゃね、それって。夜更けだとか、深夜の公園でホームレス相手に喋ってるだとか、そんな状況も忘れて俺は、急にまじでこのおっさんのことが心配になった。
 あれっ、でも待てよ。でも俺は直ぐにまた冷静を取り戻した。だって水ったら、あんた、公園の水道やら、トイレの水道、ここにゃ大きな噴水だってあんだから。水ならわんさか出てるし、直ぐ近くにショッパーズプラザ横須賀即ちダイエーだってあるっしょ。詰まり水くらい探せばどっかあんだろ、って話さ。流石に海の水、飲めたあ言わねえけどよ。
「水だったら、水道の水飲みゃいいじゃん。あれだったらただだし、俺ら一般市民みんなのもんなんだから、遠慮せずにガブガブ飲みなよ、おっさん」
 ところがおっさんは、こんな返事をよこしやがった。
「ペットボトルのミネラルウォーターが、いいんだな」
 はあ、ペットボトルのミネラルウォーターだと。ふざけんなよ、このじじい。何て贅沢な野郎なんだ、こいつは。呆れている俺に、おっさんは続けた。
「地方は分かんないけど、都会の水道水みたいなのってさ、いろいろと有害物質が含まれてんじゃねえの。だからおりゃ、飲んだことねえな、水道水」
 けっ、偉そうに。そうかよ、そうかよ、だったら喉渇いて、死んじまえってえの……みたいなこと考えていたら、おっさんはぽつりと零しやがったよ。
「ま、このまま死んじまっても、いいんだけど、おれなんか」
 はあ、ちょっと待てよ、おっさん。あんた、分かってんじゃん、自分で。
「水分取らなきゃ、さっさと死ねんでしょ、あんちゃん」
 知らねえよ、そんなこた。でも死ねんでしょって、おいおい、もしかしておっさん、まじで死にてえの、あんた。でももし、このおっさんが本当にホームレスだったら、そう思いたくなるのも無理ねえかあ。俺は俄かにおっさんのことが、不憫に思えて来たんだな。
「分かった、分かった。ミネラルウォーターでいいんだな、ペットボトルの」
「あっ、うん」
 おっさんは半信半疑で俺の顔を覗き込みながら頷いた。
「じゃ、買って来てやっから、待ってな」
 俺は勢い良くベンチから立ち上がると、近くの自販機目掛け、ダッシュで駆け出した。おっさんの呟く声を、背中に感じながらね。
「あんちゃん。あんた、なんていい人なんだ」
 お、有る有る。南アルプスのやつがあったわ。これでいいんだろ。実際南アルプスが何県にあるのかすら、俺は知らないんだけど。気にしない、気にしない。て、ちょっと待てよ。あのおっさん、まさかミネラルウォーターのブランドにも拘りがあったりして。ってねえねえ。そんなこと知ったことかよ。
 独りで苦笑いしながら、ペットボトル片手に俺はおっさんのとこに戻ったさ。
「ほら、飲みなよ」
 買ったやつ差し出すとさ、おっさんは丸でダイヤモンドでも見つけたかのように眩しげにそれを拝みながら、けっ、唾をごくんと呑み込んでやがる。
「ありがとう、あんちゃん。本当にいいのかい」
「いいから。俺はこんなの、飲まねえし」
「なんてあんた、まじでいい人なんだ。地獄に仏たあ、このこった。有難い、有難い。あんたは命の恩人さ。じゃ、有難く」
 うだうだそう言って南アルプスを受け取ると、おっさんはゴクリゴクリとそれは美味そうに飲みやがった。丸で酔っ払いが酒を飲み干すみたいに。ってただの水なのによ。
「ああ、うめえ。あんちゃん。おりゃ生き返ったわ」
「そうか、なら良かった」
 水如きで大喜びとは、安上がりなおっさんだぜ、まったく。
「でもあんた、金、まじでねえの」
 うん。
 おっさんは無言で、大きく頷いた。
「盗られちまってな、二日前に」
 情けなさそうに、おっさんは苦笑いを浮かべた。でも、あんまりいつまでも関わり合いになるのもなんだと思って、ここいらで俺は退散することにした。だってもう遅いし、さっさと家帰んなきゃ。
「そうか、そりゃ災難だったな。じゃ、俺もう行くから」
「ああ、ありがとう、あんちゃん。この恩は一生忘れねえから」
「忘れていいよ。そんな大袈裟な」
「いやあ、そんなこたない。これは、大事に飲むから」
 大事にって。だから、ただのペットボトルの水だってえの。
 でもおっさんは大きく手を振りながら、いつまでもいつまでも俺を見送っていやがった。だから俺はつい切なくなって、切なくて仕方なかったよ。
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