(十一)ヴェルニー公園に死す

文字数 4,607文字

 空は晴れていた。何事も起こりそうにない、そんな普通の朝に思えた。
 目覚めれば時計の針は、既に六時だ。俺はおっさんに言われた通り、これから地震と津波から避難する。その為に会社には既に休暇を申請済みで、だから今日はお休みなのだ。
 貴重品っても、何があんだ。銀行のカードと通帳、現金、スマホ、兎に角金目の物。それから下着とかどうすっかな。
 ええい、面倒くせえ。金目のもんだけ、いつもの通勤バッグに放り込んで、俺はマンションを出た。行き先は、おっさん御指定のダイエーだ。
 途中ヴェルニー公園に寄って、やっぱおっさんを説得しようかとも思ったが止めた。
 あの人は、あのおっさんは死にてんだ。それを唯一の希望として、今何とか生きてんだから。そう自分に言い聞かせ、俺はダイエーへと足を向けた。ってもまだ七時にもなってねえ。ダイエーの開店時間、おっさんに言わせりゃ海の閉店時間は、まだまだ先だ。
 てなわけで、ヴェルニー公園から上った坂の上、つまりダイエー入り口前の広場には、俺唯ひとり。うーん、孤独だなあ。そりゃそうだ。誰がこんな平和な朝に津波から避難せんとして、こんな開店前のダイエーの前なんかに来るかよ。
 気を取り直して俺は、ヴェルニー公園と横須賀湾の海を見下ろした。空は快晴、潮風もいつにもまして気持ち良い。ん、でも心なし雲の色がどんよりと重く暗い。海の面には相変わらず、海上自衛隊の軍艦やら潜水艦の頭やらが浮かんでいやがる。沖合いに目を向ければ、申し訳程度の水平線も見える。
 ええと、おっさんはどうしてんだ。俺はヴェルニー公園に視線を戻して、おっさんの姿をベンチの列の中に求めた。
 おっ、いるいる。例によってスマホでビートルズを聴いてやがんだろう。俺に気付かねえかな、おっさん。そしたら大きく手を振るのにさ。
 おっさんはただじっと、目の前の海を見ているようだった。

 それからどれ程時間が経ったろうか。あんまり退屈なんで、俺は地べたにしゃがみ込んでスマホを見ていた。で、ちょっとうつらうつらもしていた。そしたらさ、ぐらっと来やがったんだよ。地震だよ。
 やべっ。
 おっ、それもかなりでかそう……。
 俺は大地が揺れる中立ち上がり、咄嗟に何に目を向けたかというと、それはおっさん。
 俺は急いでおっさんの姿を、さっきのベンチに捜した。
 おっさんはまだ、そこにいた。ベンチに座ったまんま、慌てている様子もなく、やっぱりじっと海を見つめていた。いや、睨み付けてるって位の気迫すら感じられた。
 おっさん、待ってんのかな、津波が来んのを。ただ、今か今かと待ってやがんだろうか、こん畜生。俺は大声でおっさんに向かって叫び出したい衝動に駆られたが、やっぱり止めた。何て言や、いいんだよ。やっぱ、こっち来なよってか。あんなに死ぬのを望んでる人に、今更何が言えるってんだよ、馬鹿野郎。
 取り合えずおっさんのことは置いといて、地震だ。揺れはまだ続いている。長い。それにでかい。俺は広場の手すりにつかまって、揺れに耐えた。大きい揺れとは言っても、建物とか地面が揺れるだけで、アスファルトが亀裂したり、建造物が倒壊するなんてとこまではいかない。
 ダイエーのビルの中からも人がどどどっと外に出て来た。従業員、店員さんたちなのだろう。制服やらエプロン姿やらの連中だ。皆動揺している。そりゃそうだ。こんなでかい地震なんざ、人生でそうそう体験するもんじゃねえ。もし今この状況で動揺してねえ人間がいるとしたら、それはあのおっさんだけじゃねえか。
 そんなことを想ってるうちに、ホテルやら高層マンションやらが揺れた後、やっと揺れが止まった。しかしいつまた余震が来るか分からねえ、そんな不気味さが街を覆っていやがった。
 幸いネットにつながったんで、俺はスマホで焦りながら地震に関する情報を掻き集めた。それで分かったのは、静岡県の御前崎沖つまり駿河湾が震源地で、地震の規模はマグニチュード9だと。
 でけえ。これは間違いなく南海トラフ地震だ。しかし現在進行形であるが故に、まだ被害状況など全容は分かっていない。そりゃ、そうだろ。
 何だかんだで俺も興奮していた。俺のマンション大丈夫だったかなあ。そして会社とかさ。って俺は自分関係のことばっか心配して、すっかりおっさんのことを忘れていた。
 揺れも収まったし、一旦マンション戻ってみっか。なんて考えていると、市民たちがどんどん、ここショッパーズプラザに集まって来るではないか。聴こえ来る群集の中のキーワードは、他でもない津波。揺れが収まったタイミングでみんな、津波から避難しようとして、ここにやって来るんだな。
 勿論高い場所なら他にもある。ホテル、劇場、マンション等々。それでもみんながここ目指してやって来るのは、生の情報交換がしたいというのも有るだろうが、連帯出来る顔見知りなりご近所の人に会いたい、そして実際に会えるからなのだろうなどと、そんなことを咄嗟に俺は思った。やっぱりみんな不安で仕方がないのだ。天災地変の前に人間は無力で、だからこんな時は励まし合い、助け合う仲間が欲しいのだ。幾等都会の人たちとはいえ、みんな元はただの人間なのだから。
 実際俺なんかも、周りにおんなじように不安がってる大勢の人がいて、平常なら声なんぞ掛けて来ない人なんかから、大変ですねえ、とか、どうなっちゃうんですかねえ、なんて話し掛けられると、なんか、ほっとするものを覚えてしまう。
 てなわけで、いつのまにか俺の周りは黒山の人だかり。俺もここにいた方が、安全だし安心出来んじゃね、と留まることにした。
 気付いたら、ダイエーも既に開店していた。午前十時過ぎだ。開店したというか、営業というより、建物の中を避難場所として解放してくれた感じだな。だってもう広場とか通路、歩道橋とか人、人、人で一杯だからさ。
 でそんな市民たちの生の情報として、どうやら津波は、昼前にここに到達するらしい。ここ、横須賀湾とヴェルニー公園へと、そして襲い掛かって来るってわけだ。しかし、いやもっと速い、なんて意見もあって、ちょっと現場は混乱状態にあります、はい。
 ま兎に角、まだちっとは時間が有りそう、ってとこだ。俺は、ふっとため息吐いて、やっとおっさんのことを思い出した。
 おっさん、おっさんはどうなった……。
 俺は急いでヴェルニー公園のおっさんのベンチに目を向けた。するとおっさんはやっぱし、そこに座っていた。どっしりと、微動だにせず、ってやつだよ。すげな、おっさん、まじで。ほんと、死ぬことなんか、恐くねんだな、あんたって人はさ。
 勿論今やヴェルニー公園に、おっさん以外の人影は全くない。
 でも、おっさんのこと、本当に助けなくていいんかな。
 俺の中に、またしても迷いが生じた。
 振り返るとダイエーの広場も、建物の中も、今や避難して来た横須賀市民で溢れ返っている。比して広場から下は津波が押し寄せて来る前の、正に嵐の前の静けさってやつに支配されていた。ヴェルニー公園は勿論、道路、歩道橋、商店、住宅地……。行き交う車も人の影もない。汐入駅前のロータリーもからっぽ。バス、タクシー、みんな何処に消えちまったんだ。首都圏の電車は既にもう、完全にストップしているしよ。唯一、あのおっさんだけが、あそこにいる。海を目の前にしたベンチに。
 誰かおっさんに気付いて、助けに行かねえかなあ。なあんて他力本願なことばかり、考えている俺。てか、自分で行けよ。んーっ、どうしよう。そんなことを考えながら、ふと海を見ると……。あれっ。
 俺は絶句。
 どどどどどーっ。って、あれ、津波じゃん。と同時に誰かの叫び声が周囲に響き渡った。
「あっ、津波だあーーっ」
 他の人間たちもみんな一斉に海に目を向けた。緊張が走る。
「ほんとだ」
「すっげーーっ。やっべーーっ」
 どどどど、どーーっ。やっぱ津波だあ。
 ついに遂にあいつが来やがったんだよ、おっさん。
「落ち着いて下さい、落ち着いて下さい、ここなら大丈夫ですから」
 パニック寸前の群集の中に、上ずった警備員の声が弱々しく響く。きっと慣れてねんだろうな、こんな緊急事態にゃ、みんな。そりゃそうだ、平和な日本。見た目は豊かな国日本だもんな、ってそんなこた、どうでもいいけど、おっさん……。
「あと十分で津波がヴェルニー公園に到達します。みなさん、落ち着いて、公園には絶対下りないで下さい」
 そんな館内放送が俺の耳に何度も何度も聴こえている。
 あと十分かあ。俺は腕時計の針を、じゃねえ、デジタルだから数字を見つめた。何時何分かなんて、どうでもいい。兎に角あと十分が経過すんのを待つだけだ。おっさん……。
 兎に角俺はここで、おっさんを見守るしかねえ。おっさんを知る者として、おっさんの、おっさんの何を見守るってんだ。おっさんの最期ってやつをかよ。それともおっさんの人生、おっさんが生きていた証、おっさんという人間がこの世に存在していたっていうことの、確かにおっさんがいたことの、おっさんというあなたが、いてくれたことの……。ばかやろうーーっ、わかんねえよう。
 なぜか珍しく俺の目が、うるうるしてきやがった。かと思ったら、

 どどどどどーーーっ。

 とうとう大津波が、ここ横須賀湾、ヴェルニー公園へとやって来やがりましたぜ、おっさん。あなたの待ち望んでいた希望が、とうとうあなたの目の前に……。
「あっ、あんなとこに人が……」
 誰かが俺の背中で叫ぶ。後は野次馬たちの声が木霊しながら、俺の周りに集まって来る。丸で、そうさ、俺を責め立てるが如くに。
「どこ、どこ」
「ほら、公園のベンチに男の人が一人」
「ほんとだ。何やってんだろ、あいつ、こんな時に」
「もう間に合わねえよ」
「ばかなやつだなあ、あんな所で」
 ノイズに揉まれながら俺は、何ひとつ言葉を発することもなく、ただじっとおっさんを見ていた。おっさんはまったくいつもとおんなじように、いつも通り、津波なんぞしかとして、おっさんはいつものおっさんでありました。
 ベンチに腰掛け、海を見つめ、そしてビートルズを聴いていた。あんなに愛したヴェルニー公園の海が、そんなおっさんへと今凶器となって襲い掛かり、おっさんを飲み込んだ。
 それはもうほんの一瞬のことだった。後には次から次へと押し寄せる津波また津波で、ヴェルニー公園も国道十六号線も、汐入駅も横須賀駅も、コンビニもトンネルも、公衆電話ボックスも、みんなみんな海と化していた。
 俺らはそれをただ無言の中で見ているしかなかった。騒然とした人々のノイズ、津波の轟音……。それら音という音の中で俺の耳に、ふとおっさんの声が聴こえた気がした。潮風に混じって、おっさんは俺にこう囁き掛けていた。
「やっと死ねたよ、あんちゃん」
 そしていつものようににこにこ笑っているおっさんの顔が、脳裏に浮かんだ。
「そりゃ、良かったじゃねえか、おっさん」
 俺は、俺も笑いながらおっさんにそう答えていた。
 そんな独り言を呟いたところで、周りの人々が気にするような状況では今はない。一瞬にして海と化した我らが横須賀の街を見下ろし、皆ショックの中で呆然とし、ため息を吐き、ぶつくさと悲嘆に暮れているのだから。
 改めて俺は、心の中でおっさんに告げた。
 あんがとよ、おっさん。短い間だったけど、楽しかったぜ。じゃな……。
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