(四)ヴェルニー暮らし

文字数 6,005文字

 海の開店時間、ねえ。
 海は夜開く、ってやつかい。
 なんぞとぼやきながら、俺はおっさんを待ってヴェルニー公園の埠頭に突っ立っていた。ひんやりとした潮風が首のあたりを撫でてゆく。今夜もまた熱帯夜だ。
 もうすぐ二十三時、つまりおっさんの言う海の開店時間ってやつだ。と見るやダイエーから下る薄暗い坂道を、とぼとぼと下りて来る人影有り。
 間違いない、おっさんだ。流石定刻通りじゃねえか、海の開店時間。しかし相変わらず暑いねえ。こんなんじゃ、水分なしじゃ即干上がっちまうぜ。
 基本二日に一ぺんここに来て、おっさんにペットボトルを渡しながら、いつしか俺は聴くとはなしに、おっさんの身の上話なんぞを聴いていた。たまに話盛り上がった時なんかは、続けて翌日も来たりしてね。
 話としては、先ずはホームレスとしての暮らし振りかな。おっさんの方から積極的にべらべらと喋るような事じゃないから、俺の方から尋ねて、やっと聞き出した情報なんだけどさ。
 おっさんは、ヴェルニー公園の周辺をひた走るJR横須賀線と京急線の終電も終わっちまった真夜中まで起きていて、雨でなきゃぼんやりとベンチに座っている。雨ん時は緊急避難で屋根のある公園のトンネルとか通路、ダイエーの建物の軒下なんかに、うずくまっているそうだ。今は夏だから、ぶるぶる震える程寒いなんてことはない。耳にはイヤホン、例のスマホでビートルズを聴いているってわけだ。
 そのうち公園に人影も消えうせ、しーんとなったら、おっさんもやっと目を瞑って眠りに落ちる。何処でっていうと、今は夏だから寒さを気にせず、やっぱりベンチの下。その暗闇の中に隠れるように、存在を気付かれないように身を潜め、横になっているそうだ。モグラみたいなもんだな、あんちゃん。とおっさんは笑う。
 ヴェルニー公園は横須賀湾の海沿いにあるわけなんだが、同時に反対側は国道十六号に面している。その通りにはめ一杯樹木が植えられていて、松の木から杉、すずかけ、楠木、銀杏、桜、その他いろいろ。大木もあれば、細いのも、古いの新しいの。ベンチの下は雑草に埋もれていて、夏だとかは虫が一杯いて、そうとうに辛いらしい。眠れやしないってさ。だからそんな時は、気分を変えて木の下で寝たりもするらしい。が、そこだって地面は草ぼうぼうだから、やっぱ辛いわな。でも一度寝ちまったら、もう死んだように眠っちまうらしい。だからベンチの下の方が安全なのは安全だな。
 あと深夜で人なんかはいなくても、虫の音が結構うるさいらしい。蝉だって鳴いてるし、虫の羽根の音もうざい。でも何と言っても蚊だよ、蚊。天敵だよな、こいつら、人類の。藪蚊どもの襲撃がもうまじ堪んねえってよ、まったく。正にこの世の地獄ってやつ。何処でもここでもお構いなしに刺しやがる。うー、たまんね。
 それから暑さでもってはっと目を覚まし、がばっと起き上がっちまうのだとさ。あっちーーってな。で体中汗だらけ。うう、気持ち悪そう、不快指数百パーセント。でもまだ眠い、眠り足りない。だからまたお休みなさい、バタンキュー。その繰り返し、繰り返しで、もう朝だ。
 朝、夜明けだな。公園にまだ人影がない時間に、おっさんは公園の噴水の水で顔を洗う。髭も剃りたいところだけど、使い古しの錆びた髭剃り一本しかなくて、あんまり剃れない。ちなみに頭髪ははさみで自分でてきとうに切って海に捨てているらしい。それからついでにっていうか実はこっちがメインなんだけど、体も髪も洗っちゃうんだと。詰まり風呂代わり。おっさんにきつい体臭がないのは、この為。また洗濯もこの時やっておく。洗濯って、服と下着な。
 でおっさん、荷物はめっちゃ少ない。ホームレスっていうと、例えば東京の新宿だとか上野とかにいる人たちだと、すっごい大量の荷物を路上に置いてたりするけど、比べておっさんはなんとマジソンバッグひとつプラススマホのみ。そのバッグの中にすべて詰め込んでるから、もう今にもはちきれんばかり。宇宙が膨張し続けるが如く、ぱんぱんに膨らんでるんだけどさ。
 だから服装や身だしなみさえちゃんとしてりゃ、ちょっとした旅行者って感じかな。自覚のないまま、気付いたら或る日突然アパートから追い出されホームレスになってたってそんな具合。夢から醒めたら実はホームレスでした、みたいな……。
 で夜も完全に明け切れると、朝だ。ヴェルニー公園の人通りも多くなる。日射しも眩しい夏の朝。夜明けに風呂と洗濯を済ませておいて大正解だ。こんな人通りの中でそれらをやったら白い眼で見られるし、へたしたら猥褻物陳列罪かなんかでブタ箱にぶっ込まれちまうかも。
 てなわけで朝、おっさんはこれといってやることもないから、ベンチに座って早速スマホでビートルズを聴いている。
 暑い。日射しがどんどん強くなって、暑さもがんがん増してくる。そりゃそうだ、真夏だもん。でもまだまだダイエーの開店までには時間がある。仕方ないからおっさんはただぼけーっとしながら、海を見ているだけさ。ってここいら辺に限っては、めっちゃ羨ましい限りだ。その頃俺なんか毎朝ラッシュの満員電車に揺られているわけだから。
 でも暑い。やっぱり暑い。しかし辛抱の甲斐あって、待ちに待ったダイエーの扉が開く時が、遂に遂にやっとこさ訪れる。じゃーん、やったね。ダイエーの開店時間だぜい。でも、ってことはおっさん流に言うと、海の閉店時間ってわけだな。
 おっさんはヴェルニーの海にしばしの別れを告げるや、そそくさとダイエーの門をくぐるのであった。

 ダイエーに入ったら、先ず今日一日の居場所を確保すべく物色する。大抵は海沿いのベンチだな。六階建てのダイエーの建物のうち、一応お客であるおっさんが出入り出来るのはニ、三、四階の三フロアのみだ。他の階は駐車場だとか歯医者、スポーツクラブだとか事務所だとか、そんなのになっている。
 だからおっさんはニ階の海沿いのベンチから順番に覗いていく。で空いてりゃ、そこで決まり。もしもおっさんに会いたきゃ、って会いたい人がいりゃいいけど、ダイエーの三フロアの海側のベンチを捜しなよって話。
 待ちに待ってたわけだから、おっさんは大概ダイエーの開店時間と同時にフロアに御入場、突入するわけだ。だからベンチなんて必ずどっか空いてんじゃね、なんて油断してると泡食うぜ。何しろライバルが多い。そりゃ高齢化社会日本のこのご時世だ。暇を持て余した年寄りは日本中の何処にでもわんさかといる。そういう連中もおっさん同様、一日中のんびりと出来るパラダイス、ダイエーのベンチ目指して何処からともなく集まって来る。そういう連中が強力なライバルとなり、だから競争率も高くなるわけ。
 遠慮がちで慎み深いおっさんなんて、ぼけーっとしてたら弾き出されちまうぜ。だからいつもギリギリセーフで、なんとか座席をひとつキープ出来れば御の字って。参ったね、ラッシュアワーの満員電車じゃあるまいし。まさかダイエーのベンチでも、日々イス取りゲームが展開されているとは……。
 ま気を取り直して、海沿いのベンチ。ベンチっていうか、一人掛け用の安物のソファと思ってくれた方がいいかな。そんなのが海に面した窓際に沿って、二つ、三つと並んでるわけ。一人掛け用ってのがミソ。大概公共の場にあるイスってのは、三人掛けだとかで、落ち着かねえ。独りでぼけーっとしていたいなあ、なんて思っても、誰かしらが隣りに座って来るから、ちっともゆっくり出来やしねえんだよ。例えば隣りでおばさん連中のエンドレスな会話なんぞが始まってみろ。もう堪んねえ、俺なんざさっさとその場から逃げ出しちまうぜ、まったく。
 ま、兎に角その日の安住の地を得たおっさんは、後はただひたすらそこに座し、一日を過ごす。一日中、午前中から夜二十三時までずっと、正に一日中だな。でもおっさんは決して飽きたりしない。眠くて欠伸することはあっても、退屈でのそれはない。
「そこに、海があるからだな、あんちゃん」
 笑いながらおっさんは、そう答えを返す。
 何、キザなこと言ってんだよ、おっさん。
 俺は苦笑い。でもおっさんはまじでただぼけーっと、一日中海を見ているだけ。例によってビートルズ聴きながらね。そうそ、でスマホのバッテリーが危なくなってきたら、ソファの近くのコンセントでバッチリ充電と来る。ほんと図々しい客だなあ、おっさん。
 ま、晴れた日はそうでもないけど、雨、風の日なんかは特に有難いんだよね、ダイエーみたいな施設はさ。あれっ、でもトイレん時はどうすんだよって、皆さん疑問が湧くかと思うんだけど。そん時はおっさん、例のマジソンバッグをソファの上に置いて、席をキープ。とっととトイレに駆け込み、用事を済ませたら、また速攻でソファに戻って来るそうだ。瞬間芸だな。でも今まで一度として盗まれたことはないし、席を横取りされたこともなかったそうだよ。凄いね。大袈裟に言えば暗黙の了解っていうか紳士協定みたいなのが、有んのかもね。
 そうこうしている、ってか、ぼけーっとしているうちに、気付いたらもう日暮れ時。夕焼けが空を焦がし、徐々に夕闇が空も横須賀の街もそしてヴェルニー公園の海さえも包み込んで、いつしか夜の帳がおっさんの視界を覆っているんだな。夏の夕暮れ、くーっ、ついつい感傷的になっちまいそうだね、あんた。暗いダイエーの窓辺、窓ガラスの中にはおっさんの姿を始め店内の風景が映っている。目を凝らして外を見ても、海はもうまっ暗っていうか、ヴェルニー公園の外灯によってほんのり仄かに見えるばかりなんだよ。
 ここまで来たら、海の開店時間まではあともうちょっとってわけだ。何処のスーパーも似たようなもんだと思うけど、土日は一日中客、特に家族連れなんかで賑わうダイエーも平日の昼間は穏やか。で、夕方から夜になると、今度は勤め帰りの連中が晩飯の食材やなんかを買いにやって来る。
 そういう連中はおっさんの存在なんか眼中にない。ていうか存在にすら気付かない。俺だってそうだったさ。俺だってあの夜おっさんに声を掛けられなきゃな。で、おっさんはそんな連中の姿を、ただぼんやりと眺めている。みんな大変だね、お疲れさん、なんて調子でね。
 でも中には孤独な老人たちもいて、日が暮れたってのに例えばケンタッキーや弁当屋で食いものを買い、或いはラーメンやお好み焼きなんかを注文して、イートインコーナーの片隅で背中丸め独りぼっちで食ってたりするんだな。そして食い終わったら、誰彼と言葉交わすこともなく、ただ誰もいない家やアパートやら、いやもしかしたらネカフェかおっさんと同じ路上へと帰っていく。
 ふう、たまんねえ世の中だなあ、あんた……。夜のヴェルニー公園のベンチでビートルズ聴きながら、のんきに欠伸するおっさんの横で、俺はため息。
 で話戻して、ダイエーの店内は時と共にお客の数も少しずつ減少し、食品売り場では売れ残った惣菜の割引なんかも始まる。いよいよ閉店時間間近だぜ、おっさん。もうそろそろ帰る支度した方がいいんじゃね。館内を警備員が忙しなく巡回し、蛍の光がBGMで流れ出す。
 おっと、もうそんな時間かよ、まったく毎日ほんと早いもんだね。とか何とかそんなことを思いながら、おっさんも遂にその重い腰をベンチから上げる。ベンチ、一人用の安っぽいソファさ。一日中お世話になったそのイスに別れの挨拶、例えば「お世話になったねえ、有難う」なあんて告げたかどうか知んねえけど、兎に角おっさんはそして黙々とダイエーの出口へと向かう。
 大きなガラスの自動ドアが開くと、もうそこには夜の海の景色、潮騒、潮のにおいなんかが一面に広がっているんだな。懐かしく思っているのか、それともまた厳しい公園生活に戻んのかよ、なんて愚痴りながらなのか、おっさんはとぼとぼとダイエーからヴェルニー公園へと続く坂道を下る。潮風に吹かれながら、今度は公園のベンチ目指してね。こっちは正真正銘のベンチだぜ。一人掛けなんてとんでもない。ソファだと、とんでもねえぜよ。おっさんは、あのソファのお尻にやさしい感触をついつい懐かしく思い出さずにはいられない。でも気を取り直し、前を向くおっさん、ってやつだ。
 よう、またここに帰ってきちまったよ。
 なあんて言葉を海に投げ掛けているのか、おっさんはしばし突っ立って、ヴェルニーの海と向き合う。後は時と人がいなくなるのを待って、眠りに就くばかりだ。そしてまた夜明けが訪れ、おっさんの長い一日が始まる……。

「大変だな、おっさんはおっさんで」
「まあな」
 ペットボトルの南アルプスを口にしながら、おっさんは笑って答える。
「でも、あんちゃんたちの苦労も知ってる。みんな人それぞれだよ」
「そりゃ、そうだけど」
「でもまあ、こんな毎日でも、何とかおれがやってけるのは」
「ん」
「やっぱ、この海が、あるからだな」
 おっさんは夜の海に目を向けながら、俺に語った。
「海か」
「海だよ」
 おっさんの目は海から離れない。なんていうか、いとしい恋人でも見つめるような、そんな眼差しなわけよ。
「でもさ、おっさん」
「何、あんちゃん」
 おっさんはやっと海から目を離した。
「今はまだ夏だから、暑い暑いってふうふう言いながらも、なんとかここにいられっかもしんないけどさ」
「ああ」
「これが冬なんかだと、大変なんじゃねえの、寒くてさ。まじな話」
 そう尋ねる俺に、しかしおっさんは予想外の、なんて言うか他人事みたいな答えを返してきやがったの。
「ま、そうかもな、あんちゃん」
「そうかもなって、だから、実際どうなのよ。やっぱ、大変なんしょ、冬の寒さ」
 しかしおっさんはやっぱ他人事みたいに、しれーっとかぶりを振ったのだった。
「だから分かんねえの、おれにゃ。だってまだ、冬のことなんざ知らねんだもん」
 あっそう、て俺はなった。
 へえ、そうなんだ。ってことは、おっさん、もしかしてまだ、ホームレスになって日が浅いってことか。なんか今更ながら興味が湧いて来て、俺は間髪入れずに質問したさ。
「おっさん、いつからなの、この生活」
「ん、春からだよ、今年の。あんちゃん」
「今年の春から」
「そ。だからまだ、三ヶ月も経ってねんじゃね」
 おっさんは指で数えながら、答えた。
 まだ、三ヶ月経ってねえ。へえ、そうだったのかい。俺は改めておっさんを見つめ直した。
「へえ。俺はまた、ずっとかって思ってたよ」
 それが実はまだ、三ヶ月だったとはねえ。こりゃ、驚いた。
 俺は海に目を向け、しばし沈黙した。海は穏やかで、風がやさしく頬を撫でてゆくぜ。
 ってことは、じゃ三ヶ月前って、こうなる前おっさん、それまで何してたん。
 俄かに俺は、興味が湧いて来た。
 そいで、どうしてこんな生活、ホームレスになんか、なっちまったんだろう……。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み