(六)絶望

文字数 5,820文字

「なんでこんな生活、始めたかって。そうさな、あんちゃん……」
 いよいよ俺は、おっさんに関するメイン・アンド・エンディングテーマ的疑問を本人にぶつけた。どうして今の状況、つまりホームレス状態に陥ってしまったのかということだな。
 しかしおっさんの口は重い。ま、当然と言や、当然だ。どんな辛いことがあったのか、思い出したくないことだって有るだろうし、聞く俺としても辛い。でも知りたい。そのジレンマの中で、遂に俺も尋ねたってわけだ。直ぐに答えが返って来るたあ思っていない。俺も辛抱して、おっさんが語り出すのをじっと待った。
 おっさんはベンチに腰掛け、例によってすっかり暗くなったヴェルニー公園の真夜中の海をじっと見つめている。おっさんの孤独を分かち合い、永いことおっさんを慰めて来たこの横須賀湾の海だ。ま、周りには海上自衛隊の戦艦やら潜水艦の頭ぽっちが浮かび、米軍基地もまた遥かに広がったりする軍港みたいな海だけんどな。それでもおっさんにとっては、立派な海だ。掛け替えのない心の友であるんだよ、実際ここは。なあ、おっさん。
「やっぱ、金かい」
 俺はそっと囁くように、沈黙を破った。
 うんにゃ、とかなんとか言って否定してくれるか、それとも、ま、そんな所だな、あんちゃん。などと、いつものように、にこにこ笑みを零しながら、軽く反応してくれるかと思いきや、然に非ず。
 おっさんの顔には、珍しいまでに悲しげな表情すら浮かんでいた。それから梅干でもしゃぶったような渋い顔をして、かぶりを振った。しかもまだ無言だ。おっさんは俺の南アルプスを口にした、丸で感情の中の梅干の酸味を和らげるかのようにな。
 うーん、なんかこっちまで滅入ってくるぜ。実にシリアス、こんなおっさん、初めてだ。こりゃ、なんか、よっぽど特別な事情があったんかも知んない。俺は身構えつつ、おっさんの言葉を待った。
 おっさんはようやく重苦しい口を開いた。
「いやあ、あんちゃん。金の問題じゃねんだよ、これが」
 金、じゃない。はて。はて、はて、はて……。俺は疑問符を頭ん中に連発しまくった。どんな事情にせよ、それまでちゃんとアパート住んでた人間が路上て言うか公園に身を置くようになったとなりゃ、先ずは経済的理由、お金なくなっちゃいましたあ、てのに、相場は決まってるもんなんだが。一体他にどんな理由があるってんだ。俺は興味と強烈な疑問を抱かずにはおれなかったぜ。しかし俺はぼそっと、一言返すにとどめた。
「そっか、金じゃねんだ」
 俺もヴェルニーの海を見つめた。
 さて、どんな理由だってんだ。このおっさん、やっぱ、どっか他の人と違う感じだわ。はたしてどんなわけで……。俺も俺なりに考えてみようとした。なんてのは嘘で、ただぼけっと潮風の涼しさに身を任せていた。
 でもさ、金の問題じゃないってなら、とりあえずアパートには住んでりゃ、よかったんじゃね。たとえなんか問題起こしたりとかでアパート追い出されたなんて話だったとしても、そんときゃ金あるんだから別のアパート探しゃいいだけじゃん。ねえ、ちげえの、おっさん。
 あれっ、もしかして。
 俺は雷みたいにピカッと閃いた。もしかして、あれかあ、ってな。ほら、例のおっさんの哲学ってやつよ。その為におりゃ、自ら進んでホームレスなったんだあ、なんて言い出さねえだろうな、この人。
 例えばさ、路上生活すんのが、おれの長年の夢だったんだ、とか。貧しい者は、幸いである……。労働、ノー。世間体、ノー。他人の目、気にしなーい。家賃だとか、家だとか面倒臭あい、ばっかみたい。そんなものに束縛されず、おれは自由に生きるんだあ。なあんてね。
 あほか。
 でもこのおっさんだったら、有りえるかもです、はい。哲学、夢、自由、汝の敵を愛せ……。ああ、だからこのおっさん、いつもにこにこしてたんか。なーるほど、そりゃそうだ。自分から求めてこんな生活に身を投じたってんなら、そりゃ嬉しいだろよ。でも、まじかよ。
 俺はそんなことを夢想しつつも、おっさんが自ら話し出すのを待ち侘びた。
「ま、つまんねえ、ことなんだけどよ、あんちゃん」
 ほーらほら、来たぜ来たぜ。そのつまんねえことってのが、哲学なんしょ。分かってますよ、おっさん。
 ようやく語り出したおっさんのその顔からさっきのシリアスは雲散霧消し、いつものにこにこおやじに逆戻りしていた。
「うん」
 にやけんのを噛み殺しながら、俺はクールに頷いた。
「まだ、六十になる何年か前のことだったんだけどさ」
「ん」
 おっさんが六十になる前か。
「その頃、賃貸に住む高齢者の問題がさ」
「んん」
 俺はちょっと戸惑った。なんだい、その、賃貸に住む高齢者のどうのこうのってな。あんた、哲学なんじゃねえの、理由。でも俺は黙って、おっさんの言に耳を傾けた。
「ま、世間でもいろいろとクローズアップされて来てさ。それ関連の、いろんなニュースなんかも、おれの耳に飛び込んで来るわけよ」
「ああ」
 おっさんが何を言いたいのか全然ピンと来なくて、俺はただぼけえっと聞くのみ状態だった。しかし次の言葉にちょっと、はっとなった。
「孤独死だとかよ、あんちゃん」
 孤独死。めちゃ、シリアスな話題じゃん、それ。なあんか急に、悪い予感しかしなくなってきた俺なんだけど……。
「それから年取ると、アパート借りんのも難しくなっちまう、なんてのがさ」
「ああ、そういう話かい」
 って、どういう話かまだ分かんないけど、適当に俺は相槌を打っといた。だって俺まだ若けえし、どうしてもまだ他人事にしか思えねえ。でもま、おっさんにしてみりゃ、確かに切実な問題なのかも知んない。
「ああ、そういう話よ、あんちゃん。そんなの正直、おれにゃまだ関係ねえ、先の話だって、ずっと思ってたんだけんどもよ」
「ああ」
 なあんだ、俺とおんなじじゃん。
「流石に、もう六十近いってなったらさ。ちょっとそろそろ、もうやべえかなあって。まじ、なんか考えなきゃなんねえんじゃねえのってさ。危機感、覚えちまったわけよ」
「危機感。そんなもんかね」
「そんなもんさ。こればっかは年取ってみないと、分かんねえと思うよ、あんちゃん」
「成る程ね」
 そっか。おっさん、天涯孤独なんだもんな。そしたらおっさん死んだ時、どうなんだ、まじで。もしアパートで死んだら、即孤独死ってわけじゃん。確かに他人事じゃねえか、おっさんにとっちゃ。
 でも危機感持ったからって、なんとかなんのかよ、実際。
「万が一、孤独死なんぞしちまったら大変だし。そうじゃなくてさ、死ななきゃ死なないで今度は住むとこ、なくなっちまうかもしんないわけよ。そりゃもうまじで焦ったわ」
「そうだな、おっさん」
「でいろいろネットで調べまくったわ、あんちゃん。そしたらさあ……」
 ううっ。おっさん、まじ悲しげな顔でかぶりを振りやがった。
「悲観的な情報しか、ねえんだよね。これがまったくさあ、あんちゃん」
「悲観的」
「ああ、もう生きる希望なんざ、なくなっちまう位よ。一言で言や、絶望。絶望よ、あんちゃん」
「絶望かあ」
 っても、まだやっぱ、俺にゃピンとこねえ。他人事にしか思えねんだな、わりいけんど。
「もうね、今すぐにでも死んだ方がいいんじゃねえのって。その方がずっと楽なんじゃねえのって、思っちまったよ、おれなんか。その位へこんじまったんだな、あんちゃん」
 んな、大袈裟な。でもおっさんはまじシリアスです、はい。
「そんなにかよ、まじで。でもどう悲観的だったわけ」
 それ、聞かねえとな。さっぱり話見えねえし。
「ん、先ず、孤独死」
 先ず、かあ。
「そんなのした日にゃ、これが大変なんだってよ、あんちゃん」
 ん、それはなんか、分かる気がする。
「ま、直ぐに見つかりゃいいんだけどよ。それが見つからなくて、何週間も何ヶ月もほったらかしだった場合、死体が腐敗して体液とか出てさ、部屋汚しちまうわけよ、あんちゃん」
「ああ」
 そんなの、そうなるに決まってらあな。
「臭いも凄くてさ。夏なんざ、その臭いのお陰で死んでんじゃねえのって、隣り近所が気付くらしいよ」
「らしいなあ」
「そいでさ、部屋の現状回復だとかさ、事故物件扱いになった場合の、家主への損害賠償だとかさ、あんちゃん。そりゃ、えれえ金掛かるってよ」
「ん、そりゃ掛かるだろうな、金は」
「それに遺体の処理と残された荷物の処分だって、誰かがやんないといけねえわけだしさ、あんちゃん」
「そりゃ、そうだろ」
 さっきから至極当然のことばっかなんだけど、おっさんさ。
「でも当の本人はもう、死んじゃってるわけよ。じゃ、誰がやんのって」
「そりゃあ」
「そりゃもう、親族だとか親戚知人、そういう人たちにやってもらうしかないわけよ。で、そういう人もいなかったらさ、結局、大家さんが全部被っちまうんだよね、あんちゃん」
「あっ、大家さんかあ」
 そうなんのか。ん、でもそうなるしかねえんだな。こりゃ、えれえ迷惑だわな、大家としちゃ。でも、おっさんの場合……。
「大変だよ、まじで。あんちゃん」
 おっさんは腕を組み、しみじみと頷いてみせる。
「だから、おれなんかの場合、ほら、例の妹しか、いないじゃん」
「そうだよ、おっさん」
 思わず、どうすんのって、俺は突っ込みたくなった。
「あいつなんかに迷惑掛けらんねえよ、絶対。おれなんかの為にさ」
 そりゃ、そうだ。至極真っ当なご意見です、はい。妹さんだって御迷惑さね。っていうか何もやりたかねえだろ、今更。
「で、孤独死の問題はここまでな、あんちゃん」
 ほう、まだなんか、あんのかよ。
 語り続けるおっさんはいつのまにか独りでエキサイトしていて、その口調はどんどんヒートアップし、さっきまでの悲しげな顔は何処かへ吹っ飛んでいたのであったとさ。
「確かに孤独死も大変だし辛い。でもな、あんちゃん。死んじまったらもう、言い方は悪いけど、死んだもん勝ちさ」
「死んだもん勝ち。確かにそりゃ酷い言い方だな、おっさん」
「ああ。でも実際そうなんよね。死んじまった人間にとっちゃ、自分が死んだ後のことなんざ、もう知ったことかよ、だろ。どんだけ人に迷惑掛けようが、本人はもうこの世にいないわけだからさ。後はなるようにしかなんねえ」
「ま、そう言われりゃ、そうだけどな」
「むしろ、むしろだよ、あんちゃん。おひとりさまの場合はよ、逆に死なずに、いや死ねずにだな、長生きした方が、実はもっと悲惨な現実ってやつが待ち受けてんのよ」
「悲惨な現実」
「ああ。人間生きてりゃ、おひとりさまだろが何だろうが、どんどん年取っていくわな」
「そりゃ当たり前だろ」
「あんちゃん、その当たり前ってやつが、実にくせもんなんよ」
「くせもん、くまモンじゃなくて」
 しかしおっさんは相手にせず、話を続けた。
「いいかい、賃貸に住むおひとりさまの高齢者ってのはさ、六十五才を過ぎちまうと部屋を借りること自体が、もう滅茶苦茶難しくなっちまうんだと」
「何、部屋が借りられないってことか」
「そだよ」
「そだよって。でもまだ六十五だろ。はええな、それ。絶対早すぎる」
「だろ、あんちゃんもそう思うだろ」
「ああ」
「でもこれが現実。日本の賃貸業界を取り巻く厳しい現実ってやつなんだと。だから言ったろ、長生きした方がもっと悲惨な現実が待ってんだっって」
「ああ。だって持ち家がないから、部屋借りんのに。その借りる部屋がない、貸してくれないってなったら、じゃ、何処住みゃいいの。住むとこなんか、ないじゃん。つもりホームレスじゃん」
 俺は口をとんがらかして言った。
「そう、あんちゃんの仰る通りですだ」
「ふへえ、まっじかよお、それ。きっびしい」
 俺は咄嗟に六十五から自分の歳を引いた。ん、後まあ四十年近くはある。四十年、余裕っちゃ余裕なんだけど、でもこのままだったら、いつかその時は確実にやって来る……。
 と、まあ俺のことは置いといて、おっさんの場合はもっと切羽詰ってんじゃん。だって今もう六十前後位なんだろ。だったら後もう数年てとこじゃん。っていうか、おっさんの場合はもうそれ以前に既に今、ホームレスなんだけどな……。
「具体的にどうなっかと言うとさ、あんちゃん。高齢でも今まだアパート借りてっとしたら心配ないんじゃねえのって思うかもしんねえけど、そうじゃねんだな、これが」
「と言うと」
「例えば、今でもおれがアパート借りてるとすんじゃん」
「ああ」
「で二年毎に更新だよな」
「そだよ、俺も一緒」
「でいつか六十五過ぎた辺りでの更新になるわな。問題はそん時だよ」
「どうなんのよ」
「ん、ま一概に全部とは言えないが、物件によっちゃ、更新を拒否されんだとさ。つまり立ち退き、出てってくれってやつ」
「はあ、まじでかよ。そんなのいきなり言われても困るわな」
「勿論だともさ。もしそうなっちまったとしてさ、あんちゃんみたくまだ若けりゃいいよ。だって簡単に次見つかるじゃん」
「ああ、引っ越し代とか痛いけどな」
「それに比べて、おれらなんか全然駄目よ。だってもう歳六十五、過ぎてんだからさ。その歳で新しいとこ探そうったって、さっき言った通り、誰も部屋貸してくんないわけじゃん」
「そうだよな」
「そうなったらさ、更新拒絶の立ち退きイコール住むとこ見つかんない。つまり、ホームレス一直線よ」
「きっびしいなあ、まったく」
「だろ」
「でもさ、なんでそんなに高齢者嫌がんの」
「おひとりさまのな。だってそりゃ、リスクたけえじゃん。孤独死されんじゃねえかとかさ、家賃滞納されんじゃねえのとかさ、緊急時に頼れる人誰もいねんじゃねえのとか、いろんな意味でな。だから大家とか、それ以前に管理する不動産会社が嫌がんだとよ」
「ふうん」
 俺はつい腕組みして、おっさんと見つめ合った。
「な、厳しいだろ、娑婆ってのはさ。もうこれじゃ賃貸住んでるおひとりさんは年取んなって、それかとっとと死んじまえよって言われてるようなもんじゃん。或いは、さっさとアパート出てホームレスなれよって」
「あん。まあな」
 俺は一瞬ドキッとした。もしかして、だからおっさん、だから自分からホームレスになった、とか……。でもそれには触れず俺はしばらくおっさんと共に、愛すべきヴェルニーの暗い海を見つめた。穏やかな潮風が頬を撫ぜ、時と夜とがゆっくりと流れてゆくだけ。
「あんちゃん、もうおせえよ、今夜は。そろそろ帰んな」
「ああ、そだな」
 てわけで、話の続きは明日の晩だ。
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