(七)アパートを出る

文字数 4,938文字

「だからさ、あんちゃん。安月給のバイトして安アパートに住みながら、おりゃめっちゃ不安になっちまったわけよ」
「そりゃ、なるわな」
 早速、昨夜の続きだ。
「そうそう」
 おっさんは南アルプスのペットボトル抱えながら、海に目をやる。
「今はまだいいとしてさ。後一年、二年、三年……、生きてりゃもう人間、確実に年取ってくんだ。そしてやがて運命の、六十五歳になるってわけ」
「運命の、分かれ道だな」
「まったくよ、あんちゃん。例えればさ、ま、死刑宣告された死刑囚が毎日怯えながら、死刑の執行を今日か明日かと待ってるようなもんじゃね」
「それ、それよ、おっさん」
「そりゃ、不安で不安で堪んねえぜ、あんちゃん。だもんでおりゃ、六十五になった時のこと思ってさ、夜もろくろく眠らんなくなっちまったのよ」
「だろな」
「毎日そのことばっか頭に浮かんでくっから、気持ちも沈んじまってよ。人生すげ詰まんなくなるし、憂鬱ってか気が滅入っちまってさ」
「そうなるわな、鬱病なっちまうぜ」
「仕舞いにゃさ、とうとう自暴自棄なっちまったよ」
「自暴自棄、ねえ」
「もう生きてんのが馬鹿らしくなってさ、なあんにも、やる気が起きなくなっちまった」
「そうかあ。深刻だな、そりゃ」
 おっさん、相当追い詰められたんやな、まったく。いつものにこにこなんぞ消え去り、おっさんの顔は実に陰鬱になっている。
「それでもなんとかかんとか生きちゃいたさ。でもやっぱ駄目。もう息が詰まりそうになっちまってさ。もう完全にノイローゼ。もう嫌だ、この状態から早く逃げ出したい」
「ん、分かる分かる」
「そして遂に、今年だよ」
「今年」
「ん、あんちゃん。おれ、今年六十になっちまったんだよ。五十代じゃなくて、もう六十」
 なっちまった、って。も、如何にも嫌そうじゃん、おっさん。
「そこでおれは、改めて考えたわけだ」
 えれえ。考える力がまだあったんだ、おっさん。
「どうしておれは、こんなに毎日不安なんだろうって」
「ん」
「それは住むとこがなくなって、ホームレスになっちまうかも知れない。それが恐いからだ。絶対嫌だ、ホームレスになんかなりたくない」
「誰だって嫌だよ」
「でもさ、あんちゃん。ホームレスになるのが恐い、ホームレスになるのが恐い……。だったらさ」
「だったら」
 俺の顔をじっと見つめるおっさん。そしてにこっと、いつものおっさんスマイルに戻りやがった。
「いっそのこと、そのホームレスなっちゃえばいいじゃん。って思ったの、おれ」
「えっ」
「ホームレスになっちまえばさ、少なくともこの不安からは解放されるなって、そう考えたわけよ、あんちゃん」
 出たああ。出たよ、やっぱし。だから自分からホームレスになったってことなんだよ、このおっさんってば。
 ん、でも。でも、でもって、ちょっと違う気がすんのは、俺だけか。
「それでおっさん、ホームレスになったわけ」
 問う俺に、おっさんはやっぱりにっこり、黙って頷いたとさ。参ったね。
「あんちゃん、阿呆なじじだと思ってんだろ」
 図星。
「でも、おれとしちゃさ。もう遅かれ早かれ後数年したら、どうせホームレスなっちまうわけだしさ」
 って、百パーセントそうなるた限らねんじゃねえの。でもこの人は、それしかないと思い込んじまったわけだ、そん時は。
「だったら、まだ体が元気な今のうちに、さっさと厳しい世界に飛び込んじまった方がいいんじゃねえのって。そいでさっさと慣れておこうって。って言うか、もうヤケクソだな。勢いで、もホームレスなっちまえって。そんな感じ。分かった、あんちゃん」
「あっ、ああ」
 でも早まっちまったって面もあるんじゃねえの。ある意味、おっさん。
「ま、諦めの境地ってやつですか、あんちゃん」
 くっ。諦めの境地ねえ……。
「そいで、そいで、おっさん。それでアパート出たの」
「ああ、出たよ。春にな。思いついたのはまだ真冬だったけど、やっぱ、寒いじゃん。だから春になって、ちったあったかくなったら、アパート出よって、そう決めたんだ」
 そう決めたって。なんかある意味、潔過ぎじゃね、おっさん。
「あんちゃん。いきなり偉そうなこと言うようだけど、あんちゃんはおれみたいになんねえように、今からちゃんとしといた方がいいよ」
「ちゃんとって」
「だから、結婚して、子ども作って」
「はあ」
 いきなし、それかよ。
「子どもは最低でも二人はいた方がいい。だってさ、あんちゃん。大きくなって、親の面倒みるなんてなったら、一人じゃ大変だし、兄弟とかいてくれたらどんだけ心強いか」
 って、余計なお世話だよ、おっさん。なんて言いたい所だが、おっさんとしちゃ、俺への精一杯の助言なのかも知れない。それもおっさん直々の苦い実体験に基づく教訓としてさ。
「ん、分かった。あんがと、おっさん」
 俺は小さく頷いてみせた。
「で、実際、いつ頃出たの、アパートは」
「ん、四月だな。忘れもしねえ、四月三十日だよ、あんちゃん」
 おっさんは胸を張って答える。丸で誕生日かなんかみたいにな。まったく、変わったお人だよ、このおっさんは。
 だからホームレスなって、まだ三ヶ月なのか。俺はゆっくりと指で数えた。今七月だから、五、六、七。ん、確かにまだ三ヶ月目だわ、おっさん。だから確かに、ホームレスぽくない面もあるわな、どこか間違ってホームレスになっちまったみたいな。
「まだ、ここの桜が咲いてて、ちょうど散っていく時期だったよ」
 おっさんはしみじみと続けた。今はもうすっかり葉桜となった、ヴェルニー公園の木々を見渡しながら。
「春になって、で、おっさん。そのまんま一気にアパート出ちゃったわけ。春に誘われて、みたいな、かーりい乗りで」
「ちゃうわい、あんちゃん。ちゃんと準備はしてました」
「準備、流石じゃん、おっさん。でどんな」
「ん」
 おっさんは当時、っても三ヶ月前かそこらのことだけど、それらを順々に回想した。
「先ず一ヶ月前に辞表を出して、バイトを辞めた」
「あっ、そっか。いきなり来なくなられても、先方としちゃ困るもんな。心配してアパート訪ねて来たり、すっかも知んないし」
「そう。社会人の常識ってやつだな、あんちゃん」
 社会人。おっさんはにこにこ笑うけど、今となっては虚しい響きだぜ、社会人……。
「人に迷惑、掛けたくねえ。それもあって、アパート出よって身なんだからさ。人様に余計な迷惑掛けらんねえわな、あんちゃん」
 ご尤もです。
 俺は頷くしかなかった。
 へえ、でもちゃんと考えてんじゃん、おっさんてば。なんか、まじで偉い。突発的とか衝動的ってんじゃなかったのね。
「次に、アパートの解約な。これやったら、貧乏人のおれとしちゃ、もう後戻りは出来ねえ」
 もう後戻り出来ない。
 ごくん、と俺は自分のことみたいに生唾を呑み込んだ。でも、そうだ。
「もう覚悟決めてさ、で、不動産屋に電話した。電話アプリの画面と睨めっこさ、何度躊躇ったか、あんちゃん」
「分かる、分かる」
「スマホ持つ手が震えてたよ、不動産屋のおねえちゃんと話してる間。ああ、情けね」
「何て、話したの。アパート出ます、次の住所はヴェルニー公園です、とか」
「んなわけ、ねえだろ、あんちゃん」
 おっさんは大笑い。シリアスな話題を、茶化して御免。
「確か、田舎帰るとか、適当に言ったんじゃね」
「そっか」
「でもこれでおりゃ、腹が据わったよ。いろんなことが、吹っ切れた感じだった」
「そっか、諦めの境地ってやつだ」
「そだな。それから公共料金の解約だ」
「へ、そんなことまで」
「当ったり前よ、あんちゃん。誰にも迷惑掛けたくねえもん」
「偉い」
「で、こいつの解約もな。寂しさが込み上げて来ちまったけんども、仕方ねえわな」
 おっさんは手元の、今はただビートルズ再生マシンと化した、愛着深いスマホを見つめ、そしてにこっと笑った。丸でキスでもしようかって雰囲気だ。
 でも切な過ぎて、俺は笑えなかった。契約が切れてもう本来の役目を成さないiPhoneが、今ホームレスのおっさんを支えていやがる。
「あとどっか連絡すっとこ、あっかなあって考えたけど、妹位しか浮かばんかった。どうすっかなって迷ったけど、結局あいつにも連絡せんかったよ」
「そっかい」
「これからホームレスなんだし、そしたらさして迷惑も掛けねえだろ。もしおれがここで死んで、万一身元が分かったとしてさ。そいであいつんとこ連絡行ったとしてもさ、ま、そだな」
 おっさんは一瞬だが苦悶の表情を浮かべつつ、唇を噛み締めた。それから吹っ切れたように続けた。
「少なくともさ、あんちゃん。金銭的な迷惑はさ、アパート居るよっかは、遥かに少ねえだろ」
 同意を求めるようにおっさんは、シリアスな目で俺を見つめた。そりゃ、そうだよ。って頷いてやりゃ良かったんだけど、生憎俺は無情にもかぶりを振った。
「どうかな。そこら辺は分かんねえな、俺にゃ」
「大丈夫だよ、あんちゃん。大丈夫、大丈夫、あいつのことだ。おれがホームレスになろうが、野垂れ死にしようが、悲しむようなやつじゃねから」
 っておっさんは、自分に言い聞かせるように零した。苦笑いを浮かべながらね。
「で、部屋見回してさ、後は荷物の処分だよ、あんちゃん」
「ああ、そだな」
「これがまた、大変だったよ、まったく。金かかったしさ。お陰で虎の子の貯金も殆どなくなっちまった」
「まじ」
「でもさ、あんちゃん。一人の人間が生きるってのは、そりゃ凄いことなんだなって改めて思ったよ。だってね、おれみてえな、ちんけなやつだってさ、やれタンスだ、やれ布団だっつて、そりゃもういろんな荷物抱えてたんだから。ほんと人間一人生きてくってな、大変なことなんだわ」
「ま、そだな」
「で、ま兎に角何とか荷物も処分してさ、最後に空っぽになった部屋見渡した時、あんちゃん。おれ、思わず泣けちまったよ。ああ情けねえ。でも堪え切れんかった。六十年生きて来た、これがおれの不様な人生なんだなって」
「そうかい、そうかい」
 安アパートの一室のそりゃ殺風景な様子が、俺の目にも浮かんで来るようだった。
 でもおっさん、まじでえれえな。何もかもけりつけてさ。自分の人生の痕跡残さず、正に立つ鳥跡を濁さずだ。流石、潔さ過ぎだねえ、まったく。
「でもお陰で、すっきりしたよ。何もかも」
「何もかも」
「ああ、そうだよ、あんちゃん。何もかもさ。もう何も思い残すこたねえ。これでいよいよ、自由の身だぞおって」
「自由の身ねえ」
「そんなふうに思わねえと、やってらんねえだろ、あんちゃん」
 おっさんは苦笑いを浮かべながら、海に目を向けた。確かに自由は自由かも知んねえけど、苛酷で危険と隣り合わせだもんなあ。実際辛いぜ、おっさん。俺はため息を零しながら、おっさんの痩せ細った弱々しい背中を見つめた。
 そんで後はおっさん、必要な、ほんとまじで最低限の物だけを、例のマジソンバッグにぶっ詰め込んで、だからバッグはぱんぱんに腫れたさ。それとスマホを握り締め、とうとうアパートを出たんだと。
 ま、事情など知る由もない他人様からしたら、あーら引っ越しでもすんのかしら、あのじいさん、程度にしか見えなかったんだろうな。まさかこれからホームレスになります、なあんて、夢にも思わなかったろうよ。
 でも現実は厳しいっす。おっさんに新しい引っ越し先なんぞなくて、行く宛てのないおっさんの向かった場所は、いつも散歩なんぞしていた、ここヴェルニー公園。文字通り、着の身着のまんまだよ。昨日までだったら日が暮れたら、ぼちぼち帰るか、なんて、ダイエーで買った晩飯の食材なんぞ抱えながらアパートに向かうんだけど、おっさんにもう帰る場所はない。ただぼけーっとそのまんま公園に居座って、ただぼけーっと時を過ごすだけ。ああ、まじで、ああ無情。ヴェルニー公園の夜風が身に沁みるぜ。
 それが今年の四月三十日ってわけだ。日本晴れの午後だったそうだよ、俺なんざ、気にもしなかった。きっとゴロゴロ部屋で寝てたんじゃねえの、俺のことだから。ま俺のことなんぞ、どうでもええわな。そんなおっさんを、唯一ヴェルニー公園だけが暖かく迎え入れた。豪勢な桜吹雪かなんかでさ。そしてヴェルニーの桜は散った。
 桜が散った。丸でおっさんの人生の如し、だな。
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