夜明け

文字数 3,070文字

 鳥の囀りの高まりと共に、遠くに連なる山々の向こうから金色の光がさし、大地にその裾を伸ばすと、足元の草原を照らし始めた。草についた朝露が、陽の光を受けて次第に光の粒に変わっていく。ヴィクトルは足を止めた。初めて迎える地上での朝の光景は、意識せずとも脳裏に色濃く焼きついていくのを感じた。

 夜が明けたとはいえ集合するように言われた時間よりもまだだいぶ早い。司令部が置かれている野営テントの周りにはまだ誰の姿も見えなかった。この時間では眠っている隊員もいることだろう。テントの入り口は半分開けられた状態で、誰か中にいるようではあるが、ヴィクトルはテントの中には入らず、テントから少し離れた場所に置かれたリクライニングチェアに腰掛け背もたれを傾けた。

 四季のないユニオノヴァの調整された空気の中で生まれ育った人間にとって、春の早朝は少し気温が低いように感じられた。しかし、朝露によって香り立つ草原の匂いと共に全身を包み込むような、ひんやりと水分を含んだ空気の重みは妙に心地よかった。草原のあちこちに咲く花の香りだろうか、土や草の匂いに混じって、甘く煙るような香りが鼻をくすぐる。ヴィクトルは大きく息を吸い込んでみた。初めて感じる香りだがどこか懐かしく、何度でも深く吸い込みたくなるような空気だ。

"地上の空気は美味しいの!"と言っていたマヤの顔が脳裏に浮かぶ。

"…食いしん坊のマヤらしい表現だな。"

そう心の中でつぶやくと、ヴィクトルは制帽のブリムに手をかけ、目深に被っていた帽子をさらに鼻先まで引き下げて俯き、クスッと笑った。

 彼女を引き取ってからの3年間、表情豊かな彼女はさまざまな顔を見せてくれたが、幸せそうな、いい表情をしていた瞬間は圧倒的に、何かを食べている時が多かった気がする。そう気づいた途端、またくすくすと笑いが込み上げてきた。しかし、すぐにヴィクトルの口元から笑みが消えた。

"いや、食べる以外に楽しいことがあるわけでもなかったか…"

まだ地上に来て一日しか経過していないが、動植物の種類の豊富さはもちろん、大地の匂い、空の高さ、刻々と変わる空の色、風や雲の流れ、興味深い刺激の多さは人工的に作り出されたユニオノヴァの居住可能エリアよりもずっと多いと実感していた。

 そして何より、ここは生命維持のための制限がほぼない。全くと言っていいほど何も気にする必要もなく、自由に行動できる。今の状況において気を配るべきものがあるとすれば、気象の変化や野生生物ぐらいだろう。平常時の生活において命を落とすほどの危険に晒される可能性はかなり低いはずだ。

 一方、ユニオノヴァではたとえ平時であっても、人工的に整備された居住可能エリア以外では生命維持のための制限が多い。地上で生まれ育った人間にとって、あそこでの生活はどれだけ窮屈に感じていたことだろう。

“これでよかったんだろうな。“

 地上での任務が決まる少し前のこと。直近数ヶ月のマヤの行動を見ていて、ヴィクトルはこのままユニオノヴァで生活を続けるのも悪くないのではないかと考えるようになっていた。しかし、彼女の気持ちを確認するにしても、ユニオノヴァでの生活を続けることを提案するにしても、どう言葉をかけたらいいかわからなかった。言葉の選び方によっては、彼女がヴィクトルに気を使ってしまい、本心からの答えを出さないかもしれない。ユニオノヴァに住む決断を無理にさせることだけは避けたかった。

 そんな時、地上任務の話が持ち上がった。今回の任務は東経130度〜140度、北緯30度〜40度と、彼女が生まれ育った移動集落サトカシの拠点がいくつも含まれているエリアだ。この任務にマヤを帯同すれば、「いつか必ず地上に帰還させる」という彼女との約束を任務と同時に果たすことができる。突如として好機が訪れたのだ。しかし、すぐに判断することができなかった。任務を受ければ、マヤの帯同は必須となる。それは彼女との別れを意味した。ヴィクトルは自分の世界から彼女がいなくなってしまうことに不安を覚えたのだった。

 三年前ヴィクトルが惑星マルキスでマヤを救助して以来、彼女はシャンドラン家預かりとなっているが、その期限は彼女の引取先が地上に見つかるまでとなっていた。彼女がサトカシ出身であることはすでにわかっていた。しかし、その地域は僻地であり秘境とも言われ、空港がないため、直接行くことができない。任務が滅多に発生する地域でもなければ、サトカシは友好的な集落ではないため、事前の交信が難しいので有名な集落だ。ヴィクトルが住んでいる衛星リューンから地上までだけでも三日以上かかる上、サトカシに合流となると、それ以上の時間も労力もかかるのは必然だった。彼女が帰還するためだけにそこまでするのは色々な意味で現実的ではなかった。そのため、アカデミア騎士団でこの地域に任務が発生する際に、彼女を帯同して帰還させるということになっていたのだった。

 ヴィクトルは騎士候補生で、任務への参加は実習の要素が強い。そのため、辞退することはできる。教官から任務の要請を受諾するかどうか判断を迫られたが、次の日の朝まで考える時間をもらい、教官室を後にした。

 しかし、その日、幾つかの雑務を終えて家に帰ると、すでにマヤが任務の話を知っていた。シャンドラン家付きのネウロノイド、ヴェガがカイルからの伝言として伝えに来たらしい。彼女の誕生日を翌日に控えた日だったこともあり、「すごい誕生日プレゼント!」と彼女はとても嬉しそうにはしゃいでいた。そんな姿を目にしてしまったら、任務を受諾するほかなくなってしまったのだ。

 彼女が地上や故郷をどれだけ大切に思っているかも知っていたし、この機会を逃したら彼女との約束をいつ果たせるかわからない。騎士の名門家に生まれたヴィクトルは、潔く、誠実であること、そして誇り高くあれと幼少期から教えられ育った。彼女を手元に置くということは、彼女と交わした約束も果たせず、彼女の大切なものを奪ってしまうことになる。そうなってしまったら、誠実さも潔さもあったものではない。ましてやそんな自身に誇りなど持てるはずもないだろうと自分を言い聞かせた。そして、どちらに身を置きたいのかを選ぶことはマヤの自由であり、権利だ。ヴィクトルは自らの中で、そう結論づけた。

 任務を受けることにしてからも、昨日地上に降り立つその瞬間まで、この結果を避ける方法はなかったかと、任務を受けたことを少し後悔していた。しかし、地上に降り立って一日過ごしてみて、結果としてはこれでよかったのだと言える。

 ここに来てからの彼女は、ユニオノヴァで見たどの瞬間よりも生き生きとして、輝いて見えた。美しくすらあった。こんなにはしゃいでいる姿を見たことがなかったし、いろいろとヴィクトルに教えようとするその姿も、とても愛らしかった。

 一緒に連れてこられてよかったと思った。しかし、その反面、ユニオノヴァでの二人の生活の中で、このような彼女の姿を見た記憶がないことに、言い知れぬ寂しさも感じたのだった。何かに負けたかのような感覚も覚えた。

 しかしながら、地上の様子を知った今、彼女の在るべき場所はここであり、ユニオノヴァではないと断言できる。自由で生命力に溢れているマヤにはここが相応しい。

 陽の光を受けて刻一刻と表情を変え目覚めゆく地上の夜明けを目の前に、ヴィクトルは大きく息を吸い込み、ゆっくりとため息をついた。
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