存在

文字数 3,318文字

 ヴィクトルはテントから数歩離れると、両方のポケットに手を入れ、空を仰いで佇んだ。青い空にゆっくりと雲が流れていた。そよ風が運んできた春の香りも、風が奏でる草原の音も、小鳥たちの囀りも今のヴィクトルには届かなかった。ヴィクトルのガラス玉のような瞳には、ただ空と雲が映るだけだった。

 突然、背後から「ドンッ」という少し強い衝撃がヴィクトルの背中に伝わり、その直後、右手の甲にサトカシの民の証である柊の葉の紋様が彫られた、見慣れた華奢な腕が彼の腰にしっかりと回され、強く抱きしめられた。照れ臭かったり、罰が悪かったりする時、あるいは顔を見て言いづらいことを告白する時によく彼女が取るやり方だ。

「マヤ?」
「私はヴィクトルのことバケモノだなんて思ってないからね。」

 彼女は背中に顔を埋めたまま小さな声でそう言うと、しっかりと両腕に力を込めてヴィクトルを抱きしめなおした。

「…」

 ヴィクトルは片手をそっとマヤの手に重ねると優しく握り返した。頭の中に冷え固まっていた何かが、暖かな日差しに包まれてじんわりと溶け出していくような、そんな感覚を覚え、それが瞳からこぼれ落ちないように静かに目を閉じて天を仰いだ。何度もこんなふうに後ろから抱きつかれたことがあるが、今日はいつもと違って彼女のぬくもりが体に染み込み、背中から伝わる彼女の鼓動が妙に心地よく感じられた。自分ですら肯定できない曖昧な自らの存在を、彼女がしっかりと受け止め、繋ぎ止めてくれている。彼女の存在の大きさは、ヴィクトルが考えていたよりもはるかに大きな存在だったのだということに今更ながら気付かされた瞬間だった。すぐにでも後ろを振り向いて、彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。いや、彼女に縋りつきたい気持ちと言うのが正しい表現かもしれなかった。しかし、それをしてしまったら、もう完全に彼女を手放せなくなってしまうだろう。
 彼女に気持ちを悟られないためにヴィクトルは振り返ることなく、少しいたずらっ子を嗜めるような口調で「立ち聞きしてたな?」と言うと、マヤの手に添えていた手に少し強めに力を入れて握った。

「あっ、いたたた、ごめんなさい。」
「まったく、君って人は…本当に…いつも…」

 そう言いながら手の力を緩め、優しく包むように握り直し、「…ありがとう…」と振り向くことなく一言そう口にした。
 ヴィクトルの澄んだ少し低めの声に共鳴するように、彼に触れている部分が熱を帯び、それが全身に広がっていくのをマヤは感じた。今まで何度も礼を言われたことはあるが、こんな風に、もっと何かを伝えたくなるような、いや、もっと強い感覚、何かを伝えなくてはならないような、そして彼の腰に回している腕に力を込めたくなるような気持ちになるのは初めてだった。
 うまく言葉で説明できない溢れ出す気持ちに戸惑いながら、マヤは両腕にもう一度しっかりと力を入れ、ヴィクトルの背中に額をこすりつけた。
 伝えたいのに言葉が見つからないこの気持ちが、これ以上溢れ出すのを止めなければ、手に負えなくなりそうだ。マヤは気持ちを切り替えるために、わざとクスッと笑い声を上げた。

「なーんだ、また小言言われるのかと思ったら、お礼か。安心した。」
「“また“って、いつも小言なんて言ってないだろ。」
「ふふっ。」
「なに?」
「何でもない…ふふっ。」

 マヤの態度は、ヴィクトルの気持ちを切り替える助け舟になった。そして二人の間には、いつものやり取りが戻った。
 ヴィクトルはマヤの腕に手をかけ、優しく腰から外して振り返った。

「これから暇だな。」
「そんなことない。なんで決めつけるの?色々やることあるもん。」
「じゃ、何すんの?」
「…。」
「ほら、やっぱりないだろ。」
「たくさんありすぎて決められないだけ。」
「じゃ決まるまででいいから手伝ってもらおう。一緒に来て。」

 そういうと、ヴィクトルはマヤに背中を向け、サンプル採取用のボトルを取るために資材用倉庫の方向に向かって歩き始めた。

「ねぇ、まだ私、一緒に行くかどうか返事してないんですけど。」
「マヤは来る。」

 ヴィクトルは振り返ることも、歩みを止めることもなく、肩越しにそう言った。表情は良く見えなかったが、こういう時の彼がどんな顔をしているかマヤはよく知っている。口元には笑みを浮かべながら、眉を少し引き上げて、ちょっと悪っぽい表情を浮かべているに違いない。

「んもぉ、なんで?行かないかもしれないよ。」
「来る。」
「なんでよぉ。」
「だって、マヤだから。」
「もー、意味わかんない。」

 そう言いながらも、すでにヴィクトルの後について歩き始めている自分に気づき、マヤは「仕方ない」といった表情で自嘲し、小さくため息をついた。「ほんっと、強引なんだから。」と言ってヴィクトルの横まで小走りで近寄ると、歩調を合わせて並んで歩き始めた。


 二人の話し声が聞こえないぐらいに遠ざかると、司令テントの裏手に積み上げられた、メンテナンス資材、機材、弾薬などが格納されているコンテナの陰から、騎士候補生の四名が姿を現した。皆、言葉なく、驚きや不安、不可解と言った表情をそれぞれの顔に浮かべて遠ざかる二人の背を見送った

 彼らはマヤがテントの出入り口付近に置かれた燃料用のタンク陰に身を潜めていたことに気づいていなかった。ほんの三メートルほどの距離に潜んでいたにもかかわらずだ。

 ダリルは顎に手を当て、自分がコンテナの後ろに身を潜めてからの周囲の気配を必死に思い出そうとしていた。いつから彼女がいたかもわからず、彼女が自分たちが潜んでいたことに気づいていたのかもわからなかった。

「おい、あのサトカシの女がいたのに気づいたか?」
「いや、全然気配を感じなかった。」

 フィーは腕を組んで上を向いて、自分がテントを出てから今までの間、彼女の存在を感じさせる異変がなかったか、必死に記憶を手繰り寄せていた。彼はどちらかと言うと臆病な性格で、比較的どんな気配にもよく気づく方だったが、自分たち以外の人の気配が近くにあったことに全く気づいていなかった。
 シェラも異変を敏感に察知する方だが、二人に同感で、全くマヤの存在に気づけなかった。

「あたしもぜんぜん…あの子本当にただの民間人なの?」
「いやでもあの平和ボケした感じは、アカデミアにはいないタイプじゃねぇか?」
「あ、あの、ぼく、ほ、本で読んだことあーって…」

 マリクは大自然の中で独自の文化を確立し移動しながら生活する移動集落に以前から興味があり、サトカシについても本で読んだことがあった。サトカシについての記述は極めて少なかったが、その中で、子供が一番最初に学習することが、自分の気配を消すことだと書いてあったのを思い出した。野生動物に襲われるリスクを減らすためには必要なことらしい。

「いずれにせよ、俺たちのことに気づいていたら厄介だな。」
「話も聞かれているかもな…」
「後つけてあの女が俺たちに気づいていたか確かめるか…。」
「そうね、状況確認が必要だわ。二手に別れましょう。あまり時間がないから、一時間ほど様子を確認してから…」

 四人は頭を突き合わせて話し合い、今後の動きについてすり合わせをした。予定通りなら、決行するのはランチの前。マヤがどんな人物かを確認し、それによって彼女をどうするかいくつかのパターンを想定した。最終的な判断は、情報収集後となった。

 シェラとフィーはヴィクトルとマヤの後をつけ、ダリルとマリクは引き続きカイルたちの動向をうかがうことにして、二手に分かれたのだった。


 テント脇に横付けする形で停車している水陸両用大型運搬車両デュカシスの屋根の上。ユニヴェルスーツを起動して景色に溶け込み、組んだ手を頭の下に置いて仰向けに寝そった状態のディノが、彼らの話を聞いていた。

“…かくれんぼ好きのガキばっかで…手が焼ける…カイルも大変だな…“

 そして、少し先の岩陰に潜み、騎士候補生達の様子を、気配を消しながらずっと観察している人影に体を動かすことなく視線だけを向けた。

「オレは、あいつ担当かな…」

 その人影が動きを見せるまでディノはそのままの姿勢で待機することにして、偵察を続けた。
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