葛藤
文字数 2,770文字
あたりはすっかり日常の色を取り戻していた。あと1時間もせずに朝のミーティングの時間になる。しかし、まだヴィクトルとフェイレンの他に人影はなかった。皆、シャーンクウからの長旅で疲れが出ているのだろうか。
しばらくヴィクトルが何も言葉を返してこないのを見て、フェイレンは彼が自らの心の整理に手を焼いていると、長年の付き合いから感じ取った。一人で考え込んで誤った答えを出すのを防ぐためにここは一つ、鎌をかけて切り込む必要があるだろうと判断した。
「お前もしかして、怖いのか?思いを伝えて断られるのが。」
ヴィクトルは少し目を見開いた。フェイレンの言葉は、“響く”を通り過ぎて、刺さるような痛みをヴィクトルに与えた。今まで聞こえていたはずの鳥の囀りや風に揺れる葉のざわめきが一瞬音を失い、フェイレンの言葉が妙にすっとヴィクトルの中に入ってきた。ヴィクトル本人も気づいていなかった気持ちを口にされた気がした。いや、気づいてなかったのではなく、気づきたくないから、見ないようにしていたかもしれない。自分の騎士という与えられた役割を意識することで作られた価値観の中で「怖い」という感覚は一番認めたくないものの一つだ。
ヴィクトルを赤ん坊の頃から知るフェイレンは、幼少期においてはヴィクトルの良き遊び相手であり、思春期に差し掛かる頃からは良き相談相手だった。面倒見がいいフェイレンをヴィクトルは頼りにしており、身内以上の存在だ。それ故に、フェイレンにはヴィクトルの心の動きがよくわかる。さらに、彼の心に揺さぶりをかける方法も心得ていた。
まるで呼吸をすることすら忘れたかのように一言も発せず、身動き一つせずに固まっているヴィクトルの様子を見て、フェイレンは目を細めて優しげに微笑んだ。
「なんだ、図星か。」
フェイレンの言葉を受けて我に帰ったヴィクトルは、指摘されたことを素直に認めたくなくて、この場を去ろうとリクライニングチェアから体を起こした。そこへ、さらに追い打ちをかけるようにフェイレンの言葉が飛んだ。
「ここでマヤを手放せば、数年もしないうちに彼女は他の男の子供を産むことになるだろう。早ければ来年ってことだってある。」
ヴィクトルは自身の心臓が、“ドクンッ“と音を立てるのをはっきりと感じた。強い力で突き落とされたような感覚だ。ヴィクトルは立ち上がれなくなって、再び背中を椅子に預けた。動揺を悟られないようにするため、冷静さを装うよう努力した。
「だとしても、彼女がそう望むなら僕に止める資格はないだろ。」
「『資格』どうこうじゃなく、お前の気持ちはどうなんだ。それで平気なのか?」
“平気なわけない!“ヴィクトルは心の中で叫んだ。しかし、ふとフェイレンの様子も気にかかった。彼の様子がいつになく感情的になっているようにヴィクトルには思えた。
「彼女の気持ちが別のところにあって、本当は望んでいなかったとしても、義務や責任感からそうならざるを得なくなるかもしれない。」
畳み掛けるように続くフェイレンの言葉に、心の中は混沌とし、整理するどころではなくなった。ヴィクトルは今まで何度か任務に参加してきたが、緊張感を伴う現場であっても、これほど心臓の拍動が煩わしく、雑音のように鳴り響くことはなかった。彼女が気持ちもなく誰かと関係を持つことなど、考えたくもない。そんな可能性を考えただけでも、今まで経験したことがないくらい頭に血が昇る感覚を覚えた。
しかし、もう一つ気になるのはフェイレン様子だった。珍しく余裕がなく本気に見える。いつもなら、興奮しているようでもどこか余裕を漂わせる態度で、会話を楽しんでいるような様子が見られ、語気を強めることはほとんどない。だが、今日は本気どころか必死とも取れる様子だ。
ここは一旦無理にでも冷静になり、彼の考えを探ってみよう。ヴィクトルは今一度大きく深呼吸をした。
「どうしてそんなことを僕に聞く?」
「お前がこの3年の間、大切に守って咲かせた花が、どこかの誰ともわからない男に摘み取られるんだ。それでもお前は大丈夫なのかが気になるんだよ。」
下世話な話が好きで、面倒見がいいを通り越してお節介だったり。いつも通りのフェイレンのようではあるのに、やはりいつになく余裕がなく、少し焦っているようにもヴィクトルには見えた。
「なんで僕と彼女をそんなにくっつけたがるんだ?」
「それは…。」
フェイレンは一度言葉を切った。大地を渡る風が一瞬強まり、草をたなびかせ、ざわざわとした音が二人の沈黙を埋めた。
「彼女に出会ってからお前に人らしい表情が戻ったからだ。」
ヴィクトルは胸を何かでドンッと突かれたような、不意打ちを食らったような感覚を覚えた。親以上に自分のことを気にかけて見守っていた存在に気づかされ、何も返す言葉を見つけることができなかった。いや、親どころか、フェイレンはヴィクトル本人以上に彼のことをよく知っているのかもしれなかった。
「立て続けに受けた地獄のようなエクストラアップデートでボロボロになって生きる気力も目的もなく、まるで死人のように感情を失っていたお前が、彼女と生活するうちに息を吹き返したかのように表情が変わっていったんだ。俺は今のお前が好きだ。前のようには戻って欲しくないんだよ。」
ヴィクトルは不意に熱いものが頬を伝うのを感じ、それを気づかれないように首をすくめて、制服の襟元に顔を埋めた。
「それに俺は…マヤの将来も気になる…」
二人の会話が途切れた。ヴィクトルはどこから手をつけていいかわからない程、色々な感情が入り乱れ、心の中が散らかっているのを実感していた。まるで嵐が去った後の静けさの中で、自分の心の残骸を拾い集めるような気持ちだった。
目論見通り、ヴィクトルの心が大きく揺れ動いている様子を横目で確認し、フェイレンは満足げに微笑んだ。ヴィクトルが一人で誤った結論を出すことは防げたと確信していた。そして、「よしっ」と、まるで一仕事終えたように膝を押さえながら体を起こした。
「と、まぁ、こんなところだ。くれぐれも任務遂行中に考え事しないようにな。」
ヴィクトルは少し小さな声でボソボソと、しかし精一杯の悪態をついてみせた。
「これだけ色々人の気持ちかき回しといてどの口が言うんだか…死んだらあんたのせいだ。その時は後悔しろよ…」
フェイレンは穏やかな表情をして立ち上がると、ヴィクトルに近づき、制帽に優しくそっと手を置いた。普段なら子供扱いするなと突っぱねるだろうが、そんな気は起きず、子供の頃してもらった時と同じように、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。
ヴィクトルは言葉なくフェイレンが去っていく背中を横目で見送り、それからしばらく襟にうずくまったまま、潤んだ瞳が落ち着くまで、そよ風に身を委ねていた。
しばらくヴィクトルが何も言葉を返してこないのを見て、フェイレンは彼が自らの心の整理に手を焼いていると、長年の付き合いから感じ取った。一人で考え込んで誤った答えを出すのを防ぐためにここは一つ、鎌をかけて切り込む必要があるだろうと判断した。
「お前もしかして、怖いのか?思いを伝えて断られるのが。」
ヴィクトルは少し目を見開いた。フェイレンの言葉は、“響く”を通り過ぎて、刺さるような痛みをヴィクトルに与えた。今まで聞こえていたはずの鳥の囀りや風に揺れる葉のざわめきが一瞬音を失い、フェイレンの言葉が妙にすっとヴィクトルの中に入ってきた。ヴィクトル本人も気づいていなかった気持ちを口にされた気がした。いや、気づいてなかったのではなく、気づきたくないから、見ないようにしていたかもしれない。自分の騎士という与えられた役割を意識することで作られた価値観の中で「怖い」という感覚は一番認めたくないものの一つだ。
ヴィクトルを赤ん坊の頃から知るフェイレンは、幼少期においてはヴィクトルの良き遊び相手であり、思春期に差し掛かる頃からは良き相談相手だった。面倒見がいいフェイレンをヴィクトルは頼りにしており、身内以上の存在だ。それ故に、フェイレンにはヴィクトルの心の動きがよくわかる。さらに、彼の心に揺さぶりをかける方法も心得ていた。
まるで呼吸をすることすら忘れたかのように一言も発せず、身動き一つせずに固まっているヴィクトルの様子を見て、フェイレンは目を細めて優しげに微笑んだ。
「なんだ、図星か。」
フェイレンの言葉を受けて我に帰ったヴィクトルは、指摘されたことを素直に認めたくなくて、この場を去ろうとリクライニングチェアから体を起こした。そこへ、さらに追い打ちをかけるようにフェイレンの言葉が飛んだ。
「ここでマヤを手放せば、数年もしないうちに彼女は他の男の子供を産むことになるだろう。早ければ来年ってことだってある。」
ヴィクトルは自身の心臓が、“ドクンッ“と音を立てるのをはっきりと感じた。強い力で突き落とされたような感覚だ。ヴィクトルは立ち上がれなくなって、再び背中を椅子に預けた。動揺を悟られないようにするため、冷静さを装うよう努力した。
「だとしても、彼女がそう望むなら僕に止める資格はないだろ。」
「『資格』どうこうじゃなく、お前の気持ちはどうなんだ。それで平気なのか?」
“平気なわけない!“ヴィクトルは心の中で叫んだ。しかし、ふとフェイレンの様子も気にかかった。彼の様子がいつになく感情的になっているようにヴィクトルには思えた。
「彼女の気持ちが別のところにあって、本当は望んでいなかったとしても、義務や責任感からそうならざるを得なくなるかもしれない。」
畳み掛けるように続くフェイレンの言葉に、心の中は混沌とし、整理するどころではなくなった。ヴィクトルは今まで何度か任務に参加してきたが、緊張感を伴う現場であっても、これほど心臓の拍動が煩わしく、雑音のように鳴り響くことはなかった。彼女が気持ちもなく誰かと関係を持つことなど、考えたくもない。そんな可能性を考えただけでも、今まで経験したことがないくらい頭に血が昇る感覚を覚えた。
しかし、もう一つ気になるのはフェイレン様子だった。珍しく余裕がなく本気に見える。いつもなら、興奮しているようでもどこか余裕を漂わせる態度で、会話を楽しんでいるような様子が見られ、語気を強めることはほとんどない。だが、今日は本気どころか必死とも取れる様子だ。
ここは一旦無理にでも冷静になり、彼の考えを探ってみよう。ヴィクトルは今一度大きく深呼吸をした。
「どうしてそんなことを僕に聞く?」
「お前がこの3年の間、大切に守って咲かせた花が、どこかの誰ともわからない男に摘み取られるんだ。それでもお前は大丈夫なのかが気になるんだよ。」
下世話な話が好きで、面倒見がいいを通り越してお節介だったり。いつも通りのフェイレンのようではあるのに、やはりいつになく余裕がなく、少し焦っているようにもヴィクトルには見えた。
「なんで僕と彼女をそんなにくっつけたがるんだ?」
「それは…。」
フェイレンは一度言葉を切った。大地を渡る風が一瞬強まり、草をたなびかせ、ざわざわとした音が二人の沈黙を埋めた。
「彼女に出会ってからお前に人らしい表情が戻ったからだ。」
ヴィクトルは胸を何かでドンッと突かれたような、不意打ちを食らったような感覚を覚えた。親以上に自分のことを気にかけて見守っていた存在に気づかされ、何も返す言葉を見つけることができなかった。いや、親どころか、フェイレンはヴィクトル本人以上に彼のことをよく知っているのかもしれなかった。
「立て続けに受けた地獄のようなエクストラアップデートでボロボロになって生きる気力も目的もなく、まるで死人のように感情を失っていたお前が、彼女と生活するうちに息を吹き返したかのように表情が変わっていったんだ。俺は今のお前が好きだ。前のようには戻って欲しくないんだよ。」
ヴィクトルは不意に熱いものが頬を伝うのを感じ、それを気づかれないように首をすくめて、制服の襟元に顔を埋めた。
「それに俺は…マヤの将来も気になる…」
二人の会話が途切れた。ヴィクトルはどこから手をつけていいかわからない程、色々な感情が入り乱れ、心の中が散らかっているのを実感していた。まるで嵐が去った後の静けさの中で、自分の心の残骸を拾い集めるような気持ちだった。
目論見通り、ヴィクトルの心が大きく揺れ動いている様子を横目で確認し、フェイレンは満足げに微笑んだ。ヴィクトルが一人で誤った結論を出すことは防げたと確信していた。そして、「よしっ」と、まるで一仕事終えたように膝を押さえながら体を起こした。
「と、まぁ、こんなところだ。くれぐれも任務遂行中に考え事しないようにな。」
ヴィクトルは少し小さな声でボソボソと、しかし精一杯の悪態をついてみせた。
「これだけ色々人の気持ちかき回しといてどの口が言うんだか…死んだらあんたのせいだ。その時は後悔しろよ…」
フェイレンは穏やかな表情をして立ち上がると、ヴィクトルに近づき、制帽に優しくそっと手を置いた。普段なら子供扱いするなと突っぱねるだろうが、そんな気は起きず、子供の頃してもらった時と同じように、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。
ヴィクトルは言葉なくフェイレンが去っていく背中を横目で見送り、それからしばらく襟にうずくまったまま、潤んだ瞳が落ち着くまで、そよ風に身を委ねていた。