二人

文字数 2,752文字

 ピパ湖畔。砂利の浜から少し上がったところにある広々と開けた草地にトレーラーハウスが10台、衛星リューンの光を受けて、鈍い色を放ち静かに佇んでいた。衛星要塞都市ユニオノヴァから騎士団が派遣された際に駐屯するため設置されたものだ。駐屯施設とはいえ、全くといっていいほど任務が発生しない地域ということもあり、騎士が活動するのに必要な最低限の備えと設備があるだけの簡易なものだ。

 そこから約100メートルほど離れた向かいに高台があり、その高台を少し奥に入ったところに大きな樫の木が立っていた。その根元に男が一人、ワインの瓶を片手に湖を見ながら座っていた。用意していたマグカップにワインを注ぐと、それを木の根元にそっと置いた。そして、そのカップに向かって乾杯をするように手に持ったボトルを掲げてから一口飲んだ。

「あと五日でリューンが満ちる。五日後はまだここに駐留しているだろうから、天気が良ければ一緒に見られる…。ここから満ちたリューンを見るのは久しぶりだな…」

 そう言うと男は根元に置かれた小さな花束を手に取った。そこにまとめられた花を男は愛おしそうに一輪一輪見てから再び元の場所にそっと置いた。そして、リューンを映している大きな鏡のように静かな湖面を優しい眼差しで見渡し、もう一口ワインを口に含んだ。

「俺たちを見守っててくれ…」

 男は樫の木に寄りかかり、頭上を見上げた。天に向かって枝をのびのびと広げている姿を瞳に写してから、静かに目を閉じた。そうして、しばらくの間地上の夜風に身を委ねていた。


 マヤは不意に目を覚ました。カーテンが閉じられていない大きな窓から、数日で満ちる衛星リューンの白銀の光が差し込み、室内の輪郭を浮かび上がらせていた。目の前では、呼吸と共にゆったりとヴィクトルの背中が揺れている。衛星要塞都市ユニオノヴァでの生活では、彼がカーテンを開け放して眠ることはなかった。初めての地上だから、目に映る景色が全て新鮮で、カーテンを閉めるのが惜しかったのかもしれない。窓から見えるリューンやその光によって浮かび上がる遠くに連なる山々の姿、リューンの光を受けて白く煌めくピパ湖の湖面を眺めながら眠りについたのだろうか。

 眠りから覚めたばかりとは思えないほど、マヤの意識ははっきりしていた。変に頭が冴えてしまっていて、深く眠ることができなかったせいだ。待ちに待った故郷に帰れる日であるはずなのに、気持ちが浮かれているという状態からは程遠いことははっきりと自覚できていた。

“不思議なものね“

 そう心の中で呟いて、マヤは寝返りを打つと、自らの背中をそっとヴィクトルの背に添えた。温もりが背中を伝ってマヤの中に流れ込んでくる。彼の体温はいつも、マヤのよりも少し高い。マヤは大きく息を吸うと、ヴィクトルの呼吸に合わせてゆっくりと数回呼吸した。一緒に寝ていた半年程前まで、夜中に目が覚めてしまった時にやっていた暇つぶしみたいなものだ。今となっては彼との些細な思い出も大きく感じた。終わりが近づいているせいだろうか。

 3年前にシャーンクウで攫われ、ユニオノヴァに訳もわからず連れて行かれた時には、地上に1日でも早く戻り、生まれ育った集落サトカシに帰りたいと強く願っていたものだ。しかし今は、そんな気持ちを抱いていたことが幻のようだった。
 
 故郷のサトカシは、移動集落だから、合流するまでには少し時間がかかるかもしれない。しかし、逆に明日すんなり合流できてしまうかもしれない。懐かしく、大好きな人たちのところに帰ることができるのは当然のことながら嬉しい。しかし、今の彼女は夜が開けなければいいのにとも思っていた。原因は恐らく、この背中に広がる温もりの持ち主の存在だ。
 
“ユニオノヴァにずっと住みたいとは思わない。でも、ヴィクトルとは別れたくないなんて…私はわがままね。“

 マヤは静かに目を閉じた。ヴィクトルの広い背中はゆっくりと、心地よい寝息の音とともに揺れている。彼が纏う匂いがマヤを優しく包み込んでいた。彼の匂いは何か強いものに守られているような安心感をもたらしマヤの心をいつも優しい気持ちにさせてくれる。

 しかしこの穏やかな時間がこの日は逆にマヤの気持ちを掻き乱しているようだった。この心地よい温もりもそして匂いも、明日からは周りからなくなるかもしれないのだ。どんなに多く見積もっても、任務完了時には確実になくなることはわかっている。そんなことが頭をよぎるたび、マヤは何かに心臓をギュッと握られたような感覚を覚え全身にゾクゾクとしたものが走り抜けていくのを感じていた。

 この感覚に似たものを遠い記憶の中に経験したことがあった。3年前だ。“地上から離れてしまった。もう帰れないかもしれない“そう感じていた時ととてもよく似ている。

 マヤは閉じた瞼に力を込めて、背中に広がる感覚に意識を集中した。"ずっと覚えていることができるように、しっかり心に刻んでおこう…"


 どのくらいか時間が経った頃、マヤは頭に優しく何かが押し当てられるのを感じてうっすらと目を開いた。いつの間にか眠っていたようだ。頭の上に置かれたものが何なのかはよく知っている。ヴィクトルの手だ。

 マヤは静かに目を閉じた。ほのかに温かい。大きいけれど肉厚ではなく、少し骨ばって指が長く、どちらかと言えば見た目が繊細なつくりなのに不器用な優しい触れ方をする手。泣いている時、体調がすぐれない時、落ち込んでいる時、何度もこの手に励まされた。"よくやった"とか"ありがとう"とか言葉以上の気持ちを伝えてくれたことも数えきれない。

 “これも多分最後ね。“

 マヤは目の奥が熱くなるのを感じながら、ヴィクトルの手の感触を自ら手放したくなくて、目が覚めていることを知られないように寝ているふりを続けた。



“人の気も知らずにぐっすり眠っているようだな。“

 口元に優しい笑みを浮かべ、ヴィクトルはマヤに触れていた手を静かに離した。そして、彼女を起こさないようにゆっくりと体をベッドの端まで滑らせて移動すると、ブランケットから抜け出すように静かに起き上がり、彼女に背を向けてベッドに座った。

 窓からは陽の光に縁取られた山々の姿が見える。今まで経験したことがないほど、何度も目が覚めてよく眠れなかった夜が開けようとしていた。ヴィクトルはため息をつくと、少し肩を窄めてブーツを履いた。身支度をする音だけが室内の静寂を揺らす。最後に手櫛で簡単に艶やかな銀髪をさらりと掻き上げると、寝不足で冴えない顔を隠すように制帽を深めに被った。
 乾いた靴音が数回鳴ってからドアを閉める音が小さく響くと、室内は再び静寂に包まれた。
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