七、夏 (八月十日)

文字数 2,382文字

もう通い始めて何年になるだろうか。私は心療内科の待合室にいた。鼓膜にこびり付いてはなれないオルゴールの音。三階の待合室の冷房は効き過ぎていて寒い。夏はいつもそうだった。来るときには忘れてしまっていて、今日もシャツ一枚で来てしまった。
ここの病院は正直言って良いところが余りないが変えるのが面倒なので薬だけを貰いに来ていた。
「岡崎さーん、岡崎ハヤトさんどうぞー」
「岡崎さん、最近はどうですか? 死にたくなったりしませんか? 寝つきはどうですか? 食欲はありますか?」
 ここまでがテンプレート。
「この間のテストなんだけどね、結構『鬱』が数値としては高い方なんだけれどね、もしアレだったらカウンセリングもしているから、視野に入れて考えて、どうですかね?」
「いえ、結構です」
 アレってなんだ?
「まあ、ちょっと考えてみてくださいね」
「はぁ」
「まぁ、後ねこの間の血液検査の結果の方はね問題ないでしょう、多少貧血気味かな、これくらいなら平気です。お薬はね二週間分ね、出しますから、えーと」
「二十四日ですね、分かりました」
「ちゃんと来てくださいね、今回も結構、間があいていますから、毎日薬飲んでくださいね、お大事に」
「はい」
 主治医はいつも一方的だった、二週に一回の一方通行三分診察が終わった。今日もいつものネクタイだった。そのペイズリー柄のネクタイはイエローストーン国立公園って感じだった。私は勝手にそう名前を付けていた。ワイシャツとの相性の問題ではなくネクタイそのものが単体で不気味だった。
診察中はイエローストーンか椅子の横の棚にある水族館のお土産の様な物をみている。水族館のお土産の様なものはイルカが前後に揺れるやつ。揺れないでほしい。
私は病気じゃない。こんなにも普通なのに「そもそも普通とはなんだよ」そんな事を考えている私は超絶! まともだと思っていた。カウンセリングってなんだ? 過半数、多数決、民主主義、普通でありたいと、より普通を追求していくと普通からかけ離れ、ああ、もうやめよう。
 
病院をあとにして、駅の方へ向かう途中に山田サトシが目に入ったが、もう塾以外で関わりたくない。山田は誰かを待っているようだったけど、それが私だとは声をかけられるまで気付かなかった。
「ちょっと、待って! 何も無かったかのようにスルーするな!」
「え? 私? 私のこと待っていたの? というか、私に構う暇あるなら勉強してちょうだいよ。それとも何? 何か大切な、あー、告白とか?」
「違え」
「なら、何よ」
「わかんない」
「まあ、そういうのも嫌いじゃないよ」
 そう言うとちょっと迷って決意した表情になり、
「行こう!」
「何処に」
「俺のお気に入りの場所!」
 スタスタと歩き出した。駅の方へ向かっているよう。といってもここも駅前の商店街なのだが。
「はぁあ、何処行くんだか」
 主体性が無い、というポリシーで生きている私は身体が勝手について行く。
「もう駅つくんですけどぉ?」
 山田は駅の手前の雑居ビルに入っていった。毎日のように目の前を通っていたが私は入ったことは無かった。二階までが怪しげなテナント、三階以降は誰かが住んでいる住宅のようだった。
エレベーターはあるけれど、階段で上っている。何階まで上ったか分からない。
「もう、階段無いじゃない」
「こっち」
脇を見ると細いコンクリートの階段がまだあった。言われたとおりに上り、ついて行く。鍵もかかっていない重たい扉を開けると、屋上になっていた。
 なんにもない。コンクリートうちっぱなしの屋上。
「やっぱり、ここ気持ちいいな~」
山田が清々しい表情をして駅を上から見ている。
いつも歩いている、過ごしている、生活している、町が見渡せるこの場所に驚き私の中で時が止まった。こんな所があったなんて。私は自分自身をとても小さく感じたと同時に可能性という言葉が思い浮かんでいた。単純に写真が撮りたいと思った。
そうだ、カオリさんが教えてくれた、愉しいこと。あの日一緒に行った個展で見た写真、感動したこと、すっかり忘れていたのかもしれない。
「ここにはね、何かモヤモヤしているときに来るんだ。来るとスーッとして気持ちが晴れるというか、スッキリするんだよ」
私は山田の方をチラりと見て空を見上げる。
「朝でも夕方でもいい。朝陽も夕陽も見えるから。いつもの町が違うんだよ。本当は同じなんだけどね」
私は空を見上げ続けていた。
「つまらなそうな、つまらなそうな顔をしているから、いつも。何があったのかは知らないけれど、少しは変わるかなぁと思って」
私はここから数分間強がった。
「この顔は生まれつきだ。何も無いよ。別に。何も無い」
「じゃあ、なん」
被せて強がった。
「山田君さ、何か勘違いしてない? ここからは推測というか憶測に過ぎないんだけど、山田がどれだけ不安なのか不幸? なのか、なんなのか知らないけれど、それを私に投影しないでくれない? 私は不幸じゃないし、山田とは違うのだよ」
「じゃあ何で? どうして? どうして」
無駄口が止まらない図星な私は視界がぼやけてきた。
「私は産まれてから今まで! 生きてきて、分かったのは誰とも分かり合えないってこと、それでも! 私は全然、幸せだし、だから! もうこれ以上私に踏み込まないでほしい、乱されたくないんだ」
 視界がぼやけているのは涙のせいかな。
「それは幸せを訴える人の顔ですか」
 やっぱり涙のせいだった。
「これ以上被害者ぶりたくないのだよ」
「・・・」
 山田は返す言葉が見付からなかった。
「どうせ離れていくんだよ、優しくしないでほしい」
「・・・・」
 
「隣の駅の電車を待つのと、春を待つのは違うんだよ。山田はいつまで春が待てる? 私は絶対なら死んでも待てるよ」
 止まらぬ涙、私は春が来ないことを確信していた。私は駄目な人間だろう、だからあなたの事も忘れてしまった。
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