三、冬(十一月二十一日から)

文字数 2,441文字

山田サトシは思う、恋とはなんだ。僕はまだ知らない。同じクラスの小野寺ライムが最近騒がしい。
「宮元先生は好きな人いる?」
「はいぃ?」
階段の踊り場、二人きり、ライムは唐突に宮元に問う。生物の宮元先生は初老と言ってもいい歳でいつも白衣を着ている。
「いませんが」
「よかったぁ!」
「じゃあ、好きな人がいないと言う事ですので! ライムのこと好きになって! ね!」
宮元先生はクラスを持つ事もなく、部活の顧問をするでもなく、生物だけを教えている。
「はい? ええと、ですね、貴女は4組の小野寺ライムさんですよね?」
大変目立つ彼女のことを覚えてない訳がないのにわざとらしく言う。
「あ! 宮元先生! 私のこと知ってる! 嬉しい! じゃあ、好きになる約束しよう!」
「はい? そんな事より、貴女は生物の成績があまり良いとは言えませんね、勉強して下さい。それでは」
「ちょっと待って! そうそう奥さんは?」
「家内はいますが・・・」
「そうだよね~! なんで出て行っちゃったんだろう? 家出かなあ?」
「え、何故貴女がそれを知っているのですか・・・?」
とても驚いたが表情筋がついていかない。
「ま~ね! 宮元先生って鈍感? きっとだから奥さん出て行ったんだね。理由解っちゃったね。あ、あと貴女じゃなくて名前!ライムね! 彼女は私、ライムね! 良いよね!約束!」
かなり強引に小指を触れられた。宮元の小指は小さな心臓が宿ったかのようにトクトクした。小野寺ライムは機嫌よく教室に戻って行った。
「約束ね、するものじゃ無いんですよ」
 
昼休みライムは紙パックの紅茶にストローを挿し机に任せ手を使わずに山田の方を見て飲んでいる。ストローを噛む癖があるらしい。山田はライムのストローを見て
「飲みにくくない?」
ライムは話を聞いていない。山田は細長いパンを食べながらストローを見て塾の岡崎先生の事を思い出していた。ライムの視線に気付き
「どうかしたの?」
「それ、美味しい?」
「え、パン? まあ。ちょっと甘いけど」
「それ、好き?」
「え、う、うん。好きかな」
「うーん。好きなんだよねえ」
「え? 食べる?」
 ライムは上を見上げているので山田も視線を釣られ上を見上げる。特に何もない空間を見ている。下を向きまた紅茶を飲み出した。
「決めた!」
 ライムが突然正面を向き言った。
「ビックリした、どうした!」
 何を決めたのだろう、山田は思った。
「決めたよ!」
 そう言って走って教室から出て行った。ライムは宮元先生のことで頭がいっぱいだ。
 
山田は思う、恋とはなんだ。岡崎先生のことを考えていた。
「宮元先生! 会いにきた!」
 宮元先生は実習室の隣の小さな部屋を私物化していたので誰でも会いに行けるが、滅多に他の教員、ましてや生徒などは来なかった。
「好きだから会いに来た! 学校以外でも会いたい!」
「お断りします、私は会いたくないです」
「お出かけしようよ! ね、箱根! 箱根とか行こうよ! ロマンスカーに乗ってさ、超素敵。行こう! 次の週末どう!」
「・・・・・・・行かないよ。行けないよ」
「どうして?」
ライムの表情が急に暗くなっているのを気付いているが続けた。
「はぁ、構わないでくれないか」
「どうして? ライムにそんなこと言うの?」
「私は貴女だけに限らず、自分から誰かに会いたいと思うことはない」
「どうして?」
「わからないよ、ずっとこうだ。貴女のどうしてにはうんざりなんだよ。ずっとこれで良いと思って何十年も生きてきた。私が生きる上で情事は不必要だ。人を好きになってそんなものを守ろうとしてそこに付け込まれ弱くなるんだ。必要性を感じないし私は自分自身で手一杯だよ。今までもそうだし、これからもそうだよ。揶揄うのはよしなさい。解ったら出て行って下さい」
瞬きすらしないライム、後ろにはレンズの入った扉に「無闇に開けない」と書かれている。
「そんなもの? そういうのが強さなの?」
「先生は大人だから」
「そういうのが大人なの?」
涙を流している顔は見たくないので目を逸らす。埒があかない。しばらく無言で立ち尽くしていたがライムは納得したのか部屋を出て行った。
それからの数日間、宮元はライムのことを考える日々が続いて校内では見掛けるとつい目で追ってしまっていた。とても明るく快活な姿を見ると、宮元は本当に揶揄われていたのだと深く自覚した。
ある朝、窓際から外を眺めているとライムと目が合った。気がしただけかもしれない。目を覚まそう、コーヒーでも入れよう、ケトルに水を入れ沸騰するのを待った。ずずずず、ずずずず、部屋いっぱいの音、ケトルのお湯が沸いてパチンと鳴った。何かがはじけた。漸くライムに執着している事に宮元は気付き、その瞬間、コンコンコンとノックの音が聞こえた。動揺していたけれど表現方法が分からない。
「どうぞ」
 いい歳して(この気もちはなんだろう)か。触れた小指がトクトクしてきていた。
「宮元先生、会いにきた」
「コーヒー飲みますか?」
 ライムは黙って首を横に振る。
「さっき見てたでしょ」
「何のことですか」
「宮元先生、私決めたの。いつかね、先生の方からライムに会いたくなってくれるように、先生のことをずっと、ずぅーっと、好きでい続けるの。本当にずっと、ずうっとだよ」
「どうしてです?」
「どうして? って、ふふふ理由はいるの?」
「理由ですか、案外、世の中はこういうものかな」
「世の中って何? なんの事? 世の中っていうのは先生の事?」
「あははは。世の中っていうのは個人の事かもね」
「う~~ん? わかんない、宮元先生そういう風に笑うんだ! あっ、次移動教室なんだった! 山田探して行かなきゃ!」
「君は私と違って強いね」
「ん? なに? なんか言った? じゃそろそろ行くね! あ! 先生沢山笑った方が良いよ!」
「んは!」
「その調子!」
 ライムは元気に去って行った。
「登山鉄道、大分乗ってないなぁ~」

 山田は思う、恋とはなんだ。僕はまだ知らない。
 岡崎先生。(この気もちはなんだろう)
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