十、春(三月二十七日)

文字数 1,297文字

そのことは突然やってきた。
「ただいま。あれ、日曜の夕方にいるなんて珍しいね、兄さん」
「ハヤト! おかえり。話があるんだけどちょっと良い?」
「あー、うん? うん。どしたの?」
 照れくさそうな兄。
「俺、ミキと結婚しようと思って」
 言葉が無かった。
「・・・・」
「・・・?」
「あ、え」
 変な声を出してしまった。
「あれ?」
覚悟はしていたが、まだまだ先だと勝手に思っていたのだ。
「泣くほど嬉しいのか、どした、どした」
私は自然と涙が出ていたよう。
「おめ、おめでとう、おめでとうございます」
「ありがとう」
「おめでとう・・」
「ありがとう」
「おめでとう・・」
「わかった」
「おめでとう・・・」
「わかったから」
「嬉しいよ、とても、うれしい、うれ、幸せになってください」
「当たり前だ。とりあえず籍だけ入れて家見付けたら出て行こうと思って」
「うん」
私は兄の足元を見ていた。兄がどんな表情で話しているかはだいたい想像がついた。
「まあ、これでミキが少しでも落ち着いてくれたら良いなぁって、別に子供が出来たとかじゃないぞ」
「うん、うん」
「まあ、別に話ってこれだけなんだけど」
照れくさそうな兄がまぶしい。
 
私は決意した。
「あっ」
「どした?」
「煙草無いんだった。忘れてた。ちょっと買ってくるわ。兄さん何かいる?」
「うーん、いいかな、別に」
「ちょっと、行ってきます」
私は兄の肩をポンと叩いた。
「おー」
玄関を出るときに「ありがとう」と兄に感謝した。ずっと偽って生きてきた。
私は愛されたかった。兄に、父に。
道路標識の「止まれ」に逆らって歩く。進め進め進めすすめ!
いつもの道をゆっくり進んだ。いつもの線路沿い、大好きな跨線橋一歩一歩大切に歩いていた。
子供達とすれ違う。私にもあった時期。通学路を自作の歌を唄いながら帰ったなぁ。駅前までもう直ぐです。
あの雑居ビルにはあれから行っていなかった。鍵、開いてるかな、何階建てだったかな?
一階の扉を入るとポケットから煙草を取り出し、火を付けた。今時流行らない煙草。おいしいね。ゆっくりと一段一段、上った。教えて貰ったお気に入りの屋上。
そこは飛び降りれば十分に死ねる高さだった。
長い階段を上っていたら、だんだんとクラクラしてきた。
今なら死ねる。今なら死ねる。
 
重たい扉を開いて、急にまぶしい世界が広がっていた。
 
 
「明日と~明後日が一度にくるといい~僕はもどかしい~」
 
ガタッ。私はドアの所で膝から崩れ落ちた。
顔を上げることが出来ない。
「地球線のかなたへと歩き続けたい~そのくせこの草の上でじっとしていたい~」
山田の歌声を初めて聞いた。
私に気付き急いで山田が走ってきた。清々しい満面の笑顔。
 
「ハァハァ、どうした、の?」
「・・・・」
「煙草、危ないよ、消すよ」
「・・・・」
手を取られ、屋上に出たら、ぶわっと、暖かい風が吹いた。
「『春に』一緒に歌う? 見て、見て、川の所の桜!」
「・・・・」
「もー! どしたの? 何か言いなよ! 何で泣いているの? 本当に岡崎先生は淋しがり屋ですね」
 
生きると、生きると決めたからには希望をもって春を待つ。
「声にならない さけびとなって こみあげる この気もちはなんだろう」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み