二、秋(十月三十日)

文字数 2,699文字

 傘が無い。
 夜分もう帰るだけだし要らないだろう。コンビニでビニール傘を買うのをやめた。天気予報は気にした事がないからいつもこうなる。出掛ける間際に母や兄が居ると傘が必要かどうか教えてくれた。
 雨はきらい。夜もきらい。天気予報をチェックする気にはなれなかった。秋の雨は別格に冷たく元々出不精なのに加速してしまう。私は最寄り駅から自宅までの道程を歩いている。もう取り返しのつかないくらいびっしょりだから私の中では雨をないものとしている。時折こっちを見る人がいる様な気もするが暗いしよく見えないだろう、何も感じない素振りをする。

「本当にもうだめだ」

 あの人の事をずっと考えている。「深く考えない事よ」あの人から習った言葉。それも同時にループする。
私はここの曲がり角で必ずと言って良いほど意識せず振り返ってしまう。金木犀が植わってある。雨なのに鼻につく。好きでも嫌いでも無い香りだったのに、あの人の香りで大好きになった。だけれど今日は嫌いになりそう。
 五感のうち嗅覚だけは止めることが出来ない。これもあの人が言っていた言葉。前へ進め! 立ち止まるな。私! 進め! 進め! 一度止まったら動けなくなる、そうザアザアの雨が衣服に纏わり重たくして伝えてきた。家に着き玄関を開けると兄の声が聞こえてきた。

「いや、だからごめんて!」
 恐らく電話をしている、多分彼女だ。びっしょりの私は玄関先でつぶやく。
「ただいま・・・」
 兄はこちらを見ると目を見開き、驚き、電話を続けながら急いでバスタオルを持ってきてくれた。キラキラ眩しいほどの優しさ。「お湯張りをします、栓の閉め忘れにご注意ください」とお風呂場の方から聞こえた。誰の声なのだろう。酔っ払っているのかな、私。
「だから、仕事が~、うん、それは分かったって、ただね、俺にもね・・・」
 わしゃわしゃと髪を拭きつつ兄の電話を聞いていた。私にも聞こえる程、電話越しのミキさん、兄の彼女の声は大きかった。
「もういい!」と聞こえ電話が切れた。はぁーーっと大きな溜息と共に兄はスマートフォンを見つめフリーズしていた。
「大丈夫? 修羅場?」
兄の性格でもこういう事が起こるのか。
「あ、ごめん、おかえり。あーピンチかなー、終わっちゃうかなあ。あ、母さん、ユウジさんの所行ったから当分帰って来ないと思うよ」
「うん、分かった、それは良い、だけれどさ、今の・・・」
「ミキが大激怒中。今世紀最大! 全く俺には意味がわからないんだよ!」
 何故か私は結構大きめに笑ってしまった。疲れていたし、他人の事などわかる筈がない。分かりきっていた。
「いや、笑い事じゃないでしょう! なに? 何なの? 女って何なの? 意味が分かんない!何であんなにキレているんだ?」
「兄さん、男とか女とか関係ないんじゃないかな?」
「いや~でも俺は女はマジで意味分からん! 論点ずれてく、終着点の無い会話! 違う生物に違いないね! 何で怒っているんだ? まずそこが解らない! でも謝罪するのさ、仕事で間に合わなくて勿論連絡も入れたさ、今日じゃなきゃ今でなきゃだめだと言うんだ。それでこれから急いで会いに行くと言ったら、もういいって、もういいって、もういいって、ってなんだよ、もういいって!」
 私はまだあの人の事を考えていて、苛々していた。私には無いものをたくさん兄は持っている。私は他人と向き合うこと自体ができないので会話をすること、とても素敵だと思っていた。
「兄さんは優しいね」
 眼鏡が湿気で曇っていて丁度よかった。
「えっ?」
「ミキさんが大切なんだね」
「そりゃ、そうに決まっている」
 兄は即答した。
 そうに決まっている、とは何か。ズボンのポケットに手を入れると今時流行らない煙草がしゅんとして駄目になっていてそれを強く握った。なんて言えばいい、兄に。私がアドバイス出来ることなど無かった。あれば知りたい。
「ミキは恋愛するために生きているんだよ。きっと」
「そうかも知れないね、会いに行ったらきっと仲直りできるよ」
 私と明らかに違う頭の作り、嫌だな、苛々している、早く一人にならないと。
「でもミキ電源切りやがって! どうしようかな。それに似ている所が一つも無いんだ、驚くほどに。それでもここまでやってきたんだよ」
 いつものメロディが鳴り「~お風呂が沸きました~」誰の声なのだろうね。酔っ払っているね、私。
「真逆だから良いんじゃ無いのかな。ミキさんの所行くなら雨が結構強いから気をつけてね」
 グッと堪えて出た言葉だった。寒いよ、早く兄の入れてくれたお風呂に入ろう。42度、熱い。私は二十年以上生きてきてどうだ? 何を生きがいに生きてきた、何だ、優しい心が眩しすぎる。どうしてここまで兄弟で違うのか、考えれば考える程理解に苦しむ。自分自身の心の醜さ、狭さが浮き彫りになり、一緒にいることが耐えられない、耐えられないんだ。湯舟に浸かる、頭のてっぺんまで。
 このまま溺死したい気分だ。そういう気分には多々なるが気分だけなので許してほしい。
 あの人は今何をしているだろうか? 私はあの人にとってどんな存在なのか、深く考える癖がついていた。
お風呂から上がると家の中は静かだった。
「まあそうだよね・・・」
 兄の靴は無かった。ミキさんの所へ行ったのだろう。私は冷蔵庫を開け、缶の濃いめのハイボールを取り出し冷蔵庫の前にしゃがみ込み体育座りで一口飲む。冷蔵庫の前は好きだ。ハイボールが飲みたいわけじゃない、酔っぱらいたいんだ。
私は私なりに努力してきた、つもりだった。一生懸命考えた。
第一この言葉が変だ「一生懸命」考えれば考える程深みに嵌まっていく。  
   
 手の甲には蟻が見える。皮膚をぷちっと破って一匹、二匹、と出てくるのだ。十二歳の頃初めてみえた時は大変恐怖を感じたが今はもう時々楽しんでいたりもする。実在はしていないとはっきりしたからである。幻覚だった。
 私は随分前から心療内科に通っていた。「深く考えないことよ」あの人の言葉を信じている。
今日は早めに寝てしまおう。4種類の薬が処方されているがどれも効き目は睡眠導入剤以外わからない。ハイボールは飲み切らなかった。初めからそんな気はしていたけれど、500ミリのロング缶を開けてしまっていた。勿体無いが流して捨てることにした。
 ここにある全ての薬をいっぺんに飲んでみたい気分だ。そう言う気分には多々なるが気分だけなので許してほしい。
 おやすみ私。
『似たもの同士って傷のなめ合いになるわ』
 よくわかっている。(つもりだった)あの人は私と同じ淋しい人だと思った。
俺の蟻は夢の中までやってくる。
 
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