八、秋(十月三十日)

文字数 2,368文字

塾の仕事を早めに切り上げて外へ出ると山田がいた。あの日から何度か私のことを待っている時がある。ちょろりと可哀想だが二度、本当に無視し帰宅した。
「ちょ、ちょっと! だから視界に入っているのにスルーすんなってば!」
「山田君~君ぃ、しつこいね、何? 今日は何処に連れてってくれるの? もっと高いところ? それともパラダイス的な?」
「先生は」
「山田、ゲイ?あのね、私ね、今日とっても忙しいのよ。時間あんまりないんだけど」
カオリさんに会いに行く日だ。
「先生は、どうしてそうなんですか」
「そうって? 何が? あんまり女みたいなこと言うなよな。ワタシ、ジカンナイ、イクヨ」
「あ、え?」
「ああ、今日電車移動だから忙しいんだってば。時間無いんだって。ヒマツブシ? 私もう、潰す元気も潰される気力も無いんだけど」
「あのっ」
「しつこいなぁ、だから何よ」
昼間はお日様が出ていたのに暮れるにつれて雲が多くなってきている。空を見上げる私、つられて山田も空を見る。
雨の匂いがしてきている。急がないと。
「あー、雨降るかなぁ、これ、山田さあ、消化試合ならしない方がいいよ。それともなんだ? あ、分かった、面倒くさいのが好きなんだ」
駅へ向かって歩き出す。
「・・・・」
「山田、その目つきやめろ」
「生まれつきです」
やたらと押しボタン式信号の赤が長く感じる。
「先生は自分で気付いているんじゃないですか?」
何を今更言っているんだ。気付くも何も無い。
「私、行くよ」
信号が青になる。
「淋しいんじゃないですか、ちゃんと愛されたいんじゃないんですか?」
私の目は死んでいた。深呼吸をして。
「で?」
だからなんだと返したら、頭にポツンと大きめの雨粒が当たった。傘は持っていない。天気予報を見ればよかったのかな。雨粒が眼鏡につくので眼鏡を外した。カオリさんに会う前にかければいい。山田は無表情だった。
「あと、バレてますよ、伊達眼鏡」
そんなことは気にしない。カオリさんとの約束がある。私は山田を無視して駅まで急いだ。
 
 
「カオリさん」
カオリさんはベッドで横になっている。私はパンツ一枚、窓から土砂降りの外を眺めていた。
「カオリさん」
「何?」
「封筒ですけど」
カオリさんは目を瞑ったまま返事をしている。
「何か欲しいもの?」
「いや、そうじゃなくって、もう、」
「雨弱まったかしら?」
「もう、要らないです」
「いいじゃない、大した額じゃないんだし」
「大した額です」
そういう問題では無いのは分かっていたのにオウム返ししてしまった。
「新しい洋服でも買ったら?」
私のことに本当は興味が無いのかも知れない。私はいつか、この大好きな人に捨てられてしまうという恐怖でいっぱいだった。
「もう、大丈夫ですから」
「どうしたの? いいのよ、好きでやっているのだから。それに初めの約束よ。それとも」
ガバッと急に起き上がり
「好きな子でも出来たの?」
 少し本気なトーンで聞いてきた。時間は皆平等だ。私の代わりなんていくらでもいた。若さは永遠では無い、そんなことは分かりきっていた。私はザアザアの外を見つめながら不安で仕方がなかった。捨てられる。
「好きな子が出来たなら出来たでいいのよ、それならそれで」
ああ、この人はやっぱり、私のことを本当に見ている訳ではないのだ。
「ハヤト」
「・・・・」
「ハヤト、深く考えないことよ。おいで、ハヤト。おいで、ハヤト」
ほら、だんだん、カオリさんの顔が分からなくなって。
「ハヤト」
近付けば近付くほど顔はぼんやりしてきた。
「変よ、どうしたの。ハヤト。何かあった? そんな顔しないで。愛してるわ。ハヤト。ね、愛してるわ」
優しく頭を撫でて口付けをしてくれた。カオリさんは優しい。美しくて嘘吐きだ。私はそれに気付いている。その事にもカオリさんは気付いている。そして、初めてこの関係は成り立っている。私は拒む事が出来ないし、拒む理由も無い。口に出して言えば言うほどに真実味が低下していく。それでいいのだ。わかっている、わかっている、私は。「愛してる」という言葉に安堵しあの日の泡風呂のぬるま湯から抜け出せず溺れ、そろそろ窒息死をするのだろう。
「ハヤト、言って、愛してるって言って」
ハグをして求めてくる。
「愛してる、愛してるよ」
包み込むあたたかく、あたたかく。それでいて何処かヒンヤリとした。
「愛してるよ」
《それは偽物》
そう、初めから矛盾していた。
横に並んでベッドに寝っ転がるとカオリさんの体温が伝わってきた。
「カオリさんは暖かいです。私と違って」
「あら? ハヤトはあったかいわよ、でも似たもの同士は良くないわ。傷のなめ合いになるわ」
・どうしたらいいかわからない
・諦める
・どうしたらいいかわからない
・我慢=耐える(現状維持は後退)
・どうしたらいいかわからない
・継続(継続は破滅)
・どうしたらいいかわからない
・呼吸や脈を止めてみる
・どうしたらいいかわからない
 
「そろそろ帰らなくちゃ、ハヤト少し寝てく?」
「あー、はい雨の様子見て帰ります」
こんな雨の日でも淡い色の服を着ている。いい女は雨の日に新しい白い靴をおろすと聞いたことがある。本当か?
「カギ、そこ置いとく」
そう言って偽物のキスをした。カオリさんは何処に帰ったのか知らないけれど、部屋中に金木犀の香りが残っていた。この香りはコントラディクションと言うらしい。私は一人で大きなベッドに横になり考えていた。
どうしたらいいかわからない。傷のなめ合いになっているのか? 雨は止むどころか強くなっていった。重たい腰を上げ、帰ることにした。
帰り道、土砂降りの中コンビニでビニール傘を買うのをやめた。天気予報は気にした事がないからいつもこうなる。
家に着き玄関を開けると兄の声が聞こえてきた。
「いや、だからごめんて!」
何だか、彼女と修羅場っぽいが、私には聞く体力が残されていなかった。
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