六、冬(過去)

文字数 2,447文字

父が死んだ。全く悲しくなかったと言えば嘘になるが、私は一人お通夜も葬儀もその後も父が死んだその事実で涙を流すことはなかった。
親が死んで涙を流さない人間はこの社会において全て死刑を宣告される恐れがあるという。それは演技をしなければ常人扱いされないということだ。
母はごおごおと泣き、兄はそんな母の側にずっとついていた。周りは私に気を遣った。残念な話だがそれを迷惑だとすら思った。
 そんなことより外は大粒の雪がズンズンと降ってきていて手足は悴む程酷く寒かった。
 一軒家の玄関に黒い靴が沢山並んでいる。私の早く走れるが売りのスニーカーはひっくり返っていた。私は玄関先でスニーカーを見つめながら父のことを思い出していた。
すると頭部が急に膨張し出す感覚に襲われ、立っている状態のまま宙に浮き、それを保ちながらクルクルと回転し出すのだ。上から俯瞰で見ている私がいる。高熱を出したりするとよくなるが今日、熱は無い。
 父は愛妻家だったと思う。
 お葬式の二日後、私は十二歳になった。もちろんお祝いはしなかった。
 父は酔っ払って帰ってくると、私が一人の時に
「本当は、ハヤト誰の子なんだ」
 と冗談を何度か言ったことがある。私はさまざまな事全てひっくるめて、冗談だと思っていたが、十二歳になる前、少し前に、ほんの最近、実に最近、虐待という言葉には色々な種類があることを知り、悟った。
「誰の子かは私も知り」たくもないが
 冗談だろう、こんな青春。
 何かされている時は決まって頭の中でポケモンの歌を口ずさんだり、九九を数えた。なるべく今現在のことは考えないように、地球上の出来事では無いような、私とは無関係の出来事のような、どこか、どこか、遠い、遠い、何か、何かとして捉えた。
私は正直なところ、父が死んで安堵していた。解放された! 解放された! のだと。
父が死んで引っ越しをすることになり家が小さくなった。今まで住んでいた一軒家はなんだったのだろうか。よく分からなかったが大して気にならなかった。新しい家に私の部屋はあった。
 そんな事よりも私は落ち着いていた。穏やかな心を手に入れたのだと。
 
「はじめましてハヤトくん」
 私が十二歳の時に初めて5つ上の兄が彼女を家に連れてきた。
「彼女、エリ、仲良くしてね」
「ほんとだぁ、ハヤトくん、髪サラサラだね~カナメと違って」
 私達兄弟はどこも似ていない。
「うるさいよ、これは天パじゃなくてお洒落パーマなのっ」
「えー天パじゃん」
 私は軽く頭を下げて自分の部屋に戻った。決まってゲームをする。アクションRPG。
「ウリャァー! シャッシャッシャッシャキーン!」コンボを狙う。
「アッ、アッ、アッ、アン」
 始まった。隣の部屋からエリの喘ぎ声が聞こえてくる。刀の音と喘ぎ声。私の壁際のベッドはガンガンと揺れ、置いてある目覚まし時計は揺れ続けた。新しい家の壁は薄かった。電源は切らずにコントローラーだけクッションに投げた。
 私はその声を聞きながら想像でした。罪悪感はなかった。それから何度か来てピタリとエリは来なくなった。
 
 時間は皆平等に過ぎていく。朝食を兄さんと食べる。今日はトーストとヨーグルト。私は両方ともいちごジャム。いちごジャムの瓶の蓋にはこう書いてある。
「親子で作ろう。楽しい手作りおやつ」
 あっそう。
「ふぁぁ、おはよ、ハヤト」
「おはよう」
「ハヤト今日いちごジャム? 俺もいちごにしよっと!」
 
兄さんは私の目の前に置いてある、いちごジャムを左手で取った。
 ビクッ、私はゾッとした。自分の顔は分からないが硬直していたと思う。
「うぉっ、ハヤトどした? 何? いちご?」
「いや、ごめん、なんでもない」
 十二歳冬、朝六時半、普段は気にしない天気予報が耳に入ってくる。
「本日は全国的にお天気がぐずつくでしょう。お出かけの際は暖かい格好で行きましょう」
 私は生まれた時からあるだろうNAGANO1998と書かれたお皿に食パンを置いた。そして、三つのことに気付くことになる。
 
一つ、これ以上パンは食べられない。
二つ、傘が必要。
三つ、遺伝子の偉大さ。
 
兄の手は大きく血管が浮いていて指はごつごつしていた。手が指先が父という男に実に酷似しているということ。それだけではない。この事に気付いた私は様々な事に気付く事になる。私にしては早い時点で気付いたと思う。
俺は兄の彼女では無く、兄自身に欲情しているということに。物凄い吐き気が襲ってきた。気というか、実際に吐いた。それから私は目に見えない様々なものと戦った。兄はとてもモテたので、直ぐに新しい彼女がやってくる。家の壁は薄い。大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。何度も繰り返し呪文を唱えた。
どうしたら前向きになるのだろうか希望などという意味の分からぬ言葉。時は皆平等で一向に解決してくれない。それどころか日に日に兄は父にどんどん似ていったのだ。
 何度も消えることを考えたが、しかし至らなかった。思い止まる理由が幾つかあるとすれば、こうだ。
 
周りの人間が悲しむ、迷惑がかかるなど。
単純に消える瞬間が直感的に怖いから。
 
 私は怖かった、怖かったのだ。生きながらにして死ぬことを決めたのだった。希望を捨てたら楽になった。全てを自分のせいにした。私は卑怯ものだ。中学になった私は沢山友達も出来たし、勉強も努力したし、部活動も活発なイメージでサッカー部を選んで、レギュラーになったりして、女子にもまあまあ人気になった。「一生懸命」だった。
しかし、私の動機はいつだって不純だった。
純粋な気持ちで何かに取り組んでいたことは無い。
「縄のない空中ブランコ ロートレック」頭の中でループしていた。
思考を止めてはならない! 常に動いていなければ! 以前のような方向へ行くことを恐れていた。しかし、兄は太陽みたいだった。私の息の詰まるような不安は兄の優しさに比例した。兄はいつでも優しかった。
 
十二歳、冬、孤独を知った。こんなにも沢山の人間がいるのに。こんなにも沢山の人間がいるから。
 
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