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文字数 1,911文字

「百合香さんが無茶ぶりするので焦りました。ラ・カンパネラは最近さらってないので、暗譜自信がなかったんですよ」
 リビングのソファに座った瑞希が向かいの百合香に少し不服そうに言った。
「ごめんなさいね。でも、完璧だったわよ」
 百合香は微笑んだ。
「そうですか」
 瑞希は小さく溜息をついた。

 母子はつい先ほど帰っていった。
「受験がんばってね」
「はい」
 笑顔で帰っていく真菜を見て、心の中で、合格するように祈った。受験の結果次第では、来年もしかしたら一緒に同じ大学のキャンパスで会うかもしれない。それも楽しみだ。
 四郎は庭の手入れで外へ出、リビングは女子三人だけだった。
「ねえ、ところで瑞希ちゃん、さっき着てたドレスって、持ってきてたの?」
 瑞希は首を大きく振った。
「ううん、違うよ。ゆりかさんに借りたの。お母さんの莉々さんのドレスがここの音楽室の隣のクローゼットにたくさん保管されているんだよ。その中から似合いそうなのを借りたの。ゆりかさんの服じゃきつくて入らないし、丈も長いから私には無理」
「そうだったんだ」
「でも、莉々さんのドレスを着られるなんて、感激だわ。気のせいかもしれないけど、上手になったような気がする。リストもちゃんと弾けたし」
 百合香の亡き母でピアニストの莉々は、リストを得意にしていた。
「ああ、でもそれって気のせいじゃなく本当かもしれないわ」
 百合香が微笑んだ。
「もし必要だったら、これからもママの衣装をお貸しするわよ。あんなに瑞希ちゃんにサイズがぴったりだとは思わなかった」
「いいんですか。……ほかにも何着かステキなのがあったんです」
「じゃあ、あとでゆっくり見て行って」
 ティーパーティーが済んだばかりで、晩御飯の支度はまだいいだろう。
 
                    ***

「おじゃましました。おじいちゃん、また来ます」
「いつでも遊びにおいで。悠太君によろしくな。史奈ちゃんも瑞希ちゃんも元気でな」
「はい。私たちも、また遊びに来ていいですか」
「もちろん。いつでもおいで」
 翌日曜は、ここに来てから一番の天気だった。このまま帰るのがもったいない気さえする。
 軽井沢前まで、四郎が車で送ってくれた。
 駅前にはすでに観光客がちらほら見える。
「また来れたらいいね」
「夏休みは混むから、その前か後ね」
「十月ごろがいいわよ」
 百合香が四郎と同じことを言った。
「カラマツの黄葉が始まって。でも今年は行けないかな」
 ヴァイオリンのコンクールはその十月から始まる。
「いよいよですね。応援に行きますから。山本先生から、ぜひ行ってらっしゃいって言われました」
「ありがとう。うれしいわ」
「私も、予選終わった頃なら行けるかな」
「史奈も来てくれれば、とっても助かるわ。でも授業をあんまり休めないなら、無理しなくてもいいのよ」
「大丈夫ですよ……どうしたんですか?百合香さん」
 百合香は口に手を当てて、しまったという顔をしている。
「悠太さんのお土産買うの忘れちゃった。どうしよう」
「お土産ですか」
「旧軽井沢にある美術館の目録が欲しいって言ってたけど、でもまだ五月中はやっていなかったのね。だから別のものにしようと思ってたんだけど、うっかりしてた」
「別にお土産なんかなくてもいいんじゃないですか」
 瑞希が言う。
「でも、わたしたち、自分のを買ったでしょう?なのに……」
 百合香は泣きそうな顔になっていた。
「まだ時間、少しありますから、お店でも探しますか?」
 そんな、べそをかくようなことじゃないでしょうに、と史奈はちょっとあきれたが、でもそういう感情の起伏が大きくて純粋なところが百合香さんらしいのだとも思った。
「そうね。でも何がいいかしら……」
 これは時間がかかりそうだと思ったらしい瑞希が史奈に目配せして、
「ゆりかさん、おにいちゃんなら、食べ物が一番ですよ」
「お菓子とか?」
「お菓子屋さんはここにはないか。……ああ、そうだ、釜めしは?彼、意外と鉄道オタクだから、喜ぶと思いますよ」
「そういえば、『峠の釜めしか高崎のだるま弁当を食べたい』って言ってたわ」
 ちょうど釜めし屋の売店があった。百合香は急いで二個買った。
「こんなのでいいかなあ……結構重たいのね」
「器が素焼きの鉢じゃなかったでしたっけ。だから重いんです。これで十分ですよ」
 ホームに立って東京行きの列車を待つ。
 確かに今日が一番天気がいいかもしれない。惜しい気持ちはあるが、それ以上に、史奈は晴れ晴れとした気分だった。みんな私を好きでいてくれる。だから私もみんなをもっと好きになろう。
 さようなら、また来るから、と史奈は心の中で呟き、最後の高原の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

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