文字数 4,123文字

 雨上がりの土曜の午後、百合香と近所の図書館に行った帰り道。木々の緑もすっかり濃くなった五月中旬か下旬の頃だったろう。
 図書館はバスのロータリーの近くにある。百合香と史奈の家はそれぞれ反対の方角になるので、普段はそこで「ごきげんよう」と別れるのだが、少し寄り道して散歩しましょうと、史奈が誘った。
 寄り道といっても、図書館からほんのひと区画、史奈の家の方へ入ったところの道を、崖で行き止まりになるところまで歩いただけなのだったが、たとえ近所であっても独りで知らない道を歩いてはいけませんと、大伯母の美佐に言われていた百合香にとっては、それでも十分に冒険だったかもしれない。
 ゆったりした敷地に低層の住宅が建ち並ぶ、ほかと大して違わない道だが、それでも百合香は珍しいのか、建物や庭の樹などを一軒一軒確認するかのように見ていた。
「ここですよ」
 史奈がとある家の庭に咲いているバラの花を指さした。
「わあ、きれい」
 割と小振りな、欧米風のオシャレなデザインの家で、柵と建物の間に植えられた色とりどりのバラが満開だった。百合香を誘ったのは、先日下校途中で偶然見つけたこのバラが見事で、彼女にも見せたかったからだ。百合香の家には四郎が育てた白百合の花壇はあるが、バラは栽培に手がかかるから、という理由で植えられていない。小学校の中庭のピンクのつるバラをじっと眺めていたり、通学路途中の公園のバラの株の前で必ず立ち止まって開花を確かめたり、百合香がバラ好きなのは知っていた。
「花びらの形もいろいろあるのね。あちらのは一重咲きっていうのかしら」
「きれいですね」
 二人でしばらく花を眺めていると、女の人が出て来て二人に声をかけてきた。
「こんにちは」
 玄関の扉がさっと開いて、ショートカットの女性が現れた。こちらが見物しているのを見ていたらしい。
「こんにちは」二人そろって挨拶を返す。
「今ちょうど満開なの。きれいでしょ」
 この家の主婦と思われる女性は、にこやかな笑顔で二人に語りかけた。
「はい。とっても」
「このピンクとオレンジのは四季咲きだから秋にも咲くけど、この黄色のつるバラは今しか咲かないの。……近所の子かしら。ごきょうだい?」
 女性は百合香に訊ねた。
「友達です。学年は違いますけど」
「ああ、そう、こちらの小さいお嬢ちゃんは、そういえば何度か見かけたわ。聖花の制服着てたわよね」
 史奈はにっこりとうなづいた。自分の笑顔が大人を惹きつけることは自覚している。女性も、すっかり柔和な表情になって、二人に尋ねた。
「お花は好きなの?」
「はい。見るのは好きです」
 女性は何を思ったのか、
「もしよかったら、お家に上がらない?ちょうど紅茶をいれたところなの。お菓子もあるから、ぜひ、どうぞ」
 突然の申し出に、二人は顔を見合わせた。
 知らないひとの家に上がってはいけません、と二人とも言われてはいたが、ご近所だし、悪いひとではなさそうなので、史奈は尻込みしている百合香に、「少しだけお邪魔しましょう」と促した。

「おじゃまします」
 縞と花模様の壁紙がオシャレな部屋の中は、アンティークな趣味で、ラベンダーのハーブの香りが漂い、落ち着いた雰囲気があった。
「真菜ちゃん、今日は可愛いお客さんが来てくれたわよ」
 現れたのは、丸顔の、ころころした印象の可愛い少女。史奈と同じか、少し年下のようだった。
「こんにちは」
「こんにちは。はじめまして」
「娘の真菜です。小学校二年生なの。そこの三小に通ってるのよ」
 三小は、ここ学園町が通学区域に指定されている小学校だった。
「それで、そちらは……」
「わたしは、西山百合香と申します。はじめして。こちらは佐倉史奈さん。二人とも聖花学園小学校で、わたしは六年生、史奈さんは三年生です。お招きいただいてありがとうございます」
「まあ、しっかり挨拶できて、すてき。あ、そうそう、私の自己紹介してなかったわね。門倉志保と言います。いつもは友だちを呼んでお茶するんだけど、今日はみんな出かけていて、この子と二人でお茶しようとしたら、たまたまこちらのおねえさんたちがうちのバラを見ていたので、呼んだの」
 娘の真菜は、にこにこと興味深そうに二人を見ている。
「じゃあ、座ってください。いま用意しますからね」
 出て来たのは、紅茶と、アフタヌーンティーに出てくる三段になった陶器皿のスタンドで、おいしそうなケーキ、スコーン、サンドイッチが盛り付けられていた。
「わあ、すごーい」
 百合香の家でも、時々出されるので初めてではないが、花模様に縁どられたお皿が可愛いのと、小ぶりなケーキも美しかったので、史奈は心が躍った。
「お好きなのを召し上がれ」
 サンドイッチと、スコーンとケーキを一個ずつ食べた。
「このケーキおいしいでしょ。かすみケ丘の駅の近くのケーキ屋さんなの。リュリっていう」
「そうなんですか。知りませんでした」
 いただきながら、二人の話になった。
「佐倉さんって、ヴァイオリニストの方ですよね。知ってるわ。何度かお見掛けしたことあります。娘さんだったのね。じゃあ、あなたもヴァイオリンを弾くの?」
「いえ、私はピアノを少しだけ。こちらの百合香さんが母に習っているんです。とっても上手なんですよ。母もいつも褒めています」
 あまり自分の音楽の話題は避けたい。
「そうなの。ぜひ聴いてみたいわ……ふたりとも、言葉遣いがしっかりしてて、真菜ちゃんも見習わなくちゃね」
「うん」
 相変わらず真菜は口数少なく、にこにこしている。喋るのはあまり得意ではないのかもしれない。でも、二人のおねえさんが来てうれしいという気持ちは伝わってきた。
「ヴァイオリンってむずかしいんですか」
 真菜に訊かれた百合香は、
「最初はちょっとね。でもそんなでもないわよ。真菜ちゃんはヴァイオリンの曲とか聴くの?」
「ううん。でもママが聴いてる」
「そうなんだ」
「クラシックは私もたまに聴くくらいかしら。どちらかというと外国のポップスが多いから。この子も七歳だから、もうヴァイオリンを習わせるのは遅いでしょうね」
「わたしも始めたのは五歳からなので、そんなに違わないと思います。ヴァイオリンの前にピアノを弾いていたので、遅くなってしまったんですけど」
「まあ、ピアノもね」
 百合香の亡くなった母親はピアニストだったことを史奈が言うと、
「御田村莉々って、聞いたことある。じゃあ、二人とも音楽家のご家庭なんだ。すてき」
 雑談が続いた。
 志保は、家で英語の翻訳の仕事をしているのだと言った。夫は都内のICT関係の会社に勤めていて、忙しくて土曜日も出勤なのだということだった。
 まだ三十分ほど経ったくらいだったが、あまり遅くなると叱られるので、お暇することにした。
「またよかったら遊びに来てくださいね。真菜ちゃん、さようならして」
「おねえちゃんたち、さようなら」
「さようなら。ごきげんよう」

 それからしばらくした頃だった。史奈も百合香も学校の制服は夏のワンピースに替わっていた記憶があるので、何週間か経っていたのだろう。
「史ちゃん、お客さまよ」
 二階の自分の部屋で勉強していると、母親に呼ばれた。
 志保と真菜の母子が立っていた。
「ごめんなさいね。突然お邪魔しちゃって。実は、今度の土曜日がこの子の誕生日なんです。この前のおねえちゃんたちに来てほしいというので、できればおいでいただけたらうれしいなって」
 門倉家にお邪魔した件は、母の涼子には話していたと思う。ああ、あのバラのきれいなお家ね、と言っただけで、特に寄り道を咎められなかった。百合香の方はどうしたかわからない。でも、彼女も真菜の誕生会に来ていたので、話をして許可は受けたのだろう。
 涼子は、ぜひ行ってらっしゃい、誕生日プレゼントを用意しなくちゃね。と言った。
 
 約束の土曜日に行くと、アフタヌーンティーのセットと誕生日のケーキ。そのほかにもお菓子がいくつもあった。
 誕生日プレゼントは、史奈はかわいい文房具のセット、百合香はたしか、ハンカチだったか。
 よろこんでくれたのは憶えている。他に真菜の同級生の女の子が三人来ていた。比較的ささやかなパーティだったが、おしゃべりしたり、ゲームをしたりして、楽しかった記憶がある。
 誕生日の後も、一度か二度、真菜のところを訪ねたはずだった。だが、記憶はだんだん、はっきりしなくなる。
 そして。
 夏休み直前か、もしかしたらもう休みに入っていたかもしれない。真菜が史奈の家に遊びに来たのだった。
 最初のうちは仲良く遊んでいたと思う。でも、どういうきっかけか、その日はいない百合香の話になった。
 ――私、百合香お姉ちゃんの妹だったらよかったのに。
 いつもなら、史奈も、そうねえ、私もよ、とか適当に相槌を打つのだが、その日はどういうわけか気分が苛立っていた。宿題をさっそく片付けてしまおうとしていたときに真菜が突然遊びに来て邪魔されたということもあったかもしれない。
 よくは思い出せないのだが、史奈は冷たく言った。
 ――でも、百合香さんの方は迷惑なんじゃないかしら。
 真菜が不安そうな表情を向けたが、史奈は止まらなかった。
 ――百合香さん、勉強やお稽古で忙しいのよ。真菜ちゃんと遊ぶのも、本当は嫌なんじゃないかなあ。
 そんなことはない、百合香はこの子が気に入っているのだと自分でも思っていたにもかかわらず、史奈は意地悪な気持ちがおさまらなかった。
 真菜の目にみるみる涙が溢れて来た。そして、もう帰る、といって立ち上がって出て行ってしまった。史奈も追いかけようとしたが、間に合わなかった。
 真菜の家に行って謝らなくては、と思ったが、躊躇っているうちに、時間が過ぎてしまった。そして、確かなのは、夏休み中には、真菜はいなくなったということだ。
 いつものように、西山家の軽井沢の別荘に百合香と滞在した。戻ってきたときに、涼子から、真菜が引っ越したと教えられた。
「お母さんが挨拶に来られたのよ。せっかく仲良しになれたのに残念でしたって」
 父親の会社の都合で、転勤したらしい。イギリスのロンドンだという。
 それ以来、真菜にも母親の志保にも会ったことはない。
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