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 ようやく若葉をまとった木々の間には、薄いヴェールのようにまだ霧が立ち込めている。
 五月の下旬とはいえ、高原の朝の空気は冷たく、屋外に出るのに上着は欠かせない。
 どこに隠れているのかわからないが、そこかしこで交わされる鳥のさえずりを聞きながら。史奈はベランダでカフェラテのカップを口につけた。
 昨日の夕方から、瑞希と百合香の三人で、ここ軽井沢の西山家の別荘に遊びに来ている。八時を回ったところだが、瑞希と別荘の主の四郎は、まだ寝ているようだ。
 百合香の方は既に音楽室で早朝から練習を始めている。ヴァイオリンの音が微かに聞こえてくる。コンクールも近いとなれば、寸暇を惜しんで練習に没頭せざるを得ないのだろう。
 スマホでインターネットニュースをぼんやり眺めていると、屋内に人の気配を感じた。瑞希がやっと起きて来たらしい。いつもは早起きなのだが、昨日の移動で疲れたのかもしれない。
「おはよう。はやいのね、ふみちゃん。ちょっと寒いね」
 白いシャツにスウェットパンツの瑞希は腕を組んで、寒そうに肩を竦めた。
「鳥の声で目が覚めちゃったの。さあ、寒がってないで、瑞希ちゃんも朝の空気を思いきり吸ってごらん」
 瑞希は言われたままに深呼吸をした。
「うーん、森の香りだ」
「コーヒー淹れてあるよ。パンはクロワッサンならテーブルにあるわよ。こっちで一緒に食べよう」
「ありがとう。じゃあ、ちょっと待ってて。やっぱり上に着るものを持ってくる」
 しばらくして瑞希がお盆にコーヒーとパンを持って戻って来た。
 瑞希は今年になってから、髪を伸ばしはじめた。まだ四か月ほどだから、ショートがボブになったくらいだが、印象はかなり変わった。もう少しだけ伸ばしたら、今度はパーマをかけるという。大学生になったのを機に、大人びた雰囲気にしたいらしい。
 でも、座るなり子供のようにクロワッサンをパクつく、その仕草や表情を見ると、相変わらずだなと思う。史奈は微笑ましい気持ちで瑞希を見た。

 二人とも今年の春から大学に入学した。
 瑞希は予定どおり霞ヶ丘芸術大学の音楽学部ピアノ科に、史奈は光陵大学医学部。
 史奈の場合は、国立大学の医学部も合格したのに、光陵を選んだので周りの人からびっくりされた。
 史奈にしてみれば、研究者になりたいわけではない。臨床医なら私立でも国立でもあまり大差はないと思う。また、学費は心配しなくていいと、母親の涼子から言われている。涼子はむしろ光陵に行ってほしいみたいだった。自分の出身校で現在は教授も務める霞ヶ丘芸大に近いのと、日ごろ親しくしているかかりつけの婦人科医が光陵出身で、本人もそうだが、比較的素直でおっとりした学生が多いと聞かされて、娘にはいいのではと思ったらしい。史奈も大学の世間的な評価などはそれほど重視していないので、家から近くて瑞希と一緒に通える方に魅力を感じたわけだった。
 高校のときと同じく、朝はだいたい瑞希と一緒に通っている。帰りの時刻はまちまちだが、休み時間に会うことも多い。
 授業は一年目は臨床見学や解剖学などを除きほとんどが一般教養科目のため、時間的な余裕もある。学生は女子が半分近い。開業医をはじめ、やはり裕福な家庭の子が多い。母親が聞いてきたとおり、男女ともに真面目で大人しい学生が多い印象だった。
 女子の何人かとはさっそく友達になった。国立を蹴ってこちらに来たというと、みんな最初はびっくりするが、「でも、ここってキャンパスが広くてきれいだし、大学っぽくていいよね」と、納得されてしまった。始まったばかりの大学生活に史奈はそれなりに満足していた。

「ごちそうさま。コーヒーおいしかった。なんだか幸せ。ぷふう」
 食べ終わった瑞希が満足そうに微笑んだ。
 やっぱりこの子は笑顔が一番ステキだと思う。無邪気で澄んだ心のうちを感じられて、自分まで幸せな気分になる。
 去年、彼女に対する自分の思いを告白して以来、関係に特に変化はない。いつまでも一緒にいたい、という気持ちも変わらない。瑞希も同じだと言ってくれている。
 三月まではお互い受験の準備が優先だったし、四月は新生活への対応でいろいろ忙しかった。
 やっと、落ち着いて自分たちのことを考えられるようにはなったのだが、この先どういう方向へ進むのか、うまく自分がコントロールしていけるのか、不安でもあった。

「ここに来るのも何年ぶりかなあ」
 瑞希が辺りを見回しながらつぶやいた。そして指折り数えて、
「最後に来たのは高校二年のときかな。ふみちゃんがまだ北海道にいた頃。ちょうど今時分だった。私とお母さんが新幹線で、おにいちゃんとゆりかさんが車で来たっけ」
「私も行きたかった。北海道にいた最後の年で、百合香さんや悠太さんともほとんど会えなかったし」
「ふみちゃんはお正月に来ただけだったよね」
「そうよ」
 自分がここに最後に来たのは、さらに前年の夏休みだった。
 中学校の頃までは、毎年夏になると百合香と一緒にここで何週間か一緒に過ごしたものだ。その頃の楽しい思い出はたくさんある。その記憶が甦ろうとする前に、瑞希の言葉に遮られた。
「おにいちゃんも来たがってたけど、今回は一人でお留守番ね。ちゃんと勉強してるのかなあ」
「してるでしょ、もちろん」
 史奈は少しそっけなく言った。
 こういうときはいつも百合香に同行する悠太だったが、今回は再来月の司法試験予備試験に向けて、さすがに遊んでいる暇はないということで、キャンセルした。
「七月にマークシート試験だっけ、それに合格すると秋にまた論文試験なのよね。そのあと面接もあって大変そう」
 しかもこれは予備試験であって、合格しても、さらに来年司法試験を受けなければならない。大学受験と違って、短期間で結果が出ないのは精神的に大変だろうな、と思う。
「自分で選んだ道なんだからいいんじゃない?それに彼は私たちと違って大学受験してないんだから。その分勉強すればいいんだよ」
「勉強ならこちらでもできるのにね」
「気が散るんでしょ?だって、百合香さんがいつもそばにいて相手しなくちゃいけないから」
 瑞希は少し揶揄するように呟いた。
「それはそうだけど」
 悠太はこの春から両親のもとを離れて、西山家に居候している。
 四郎がこちらに移住してしまったため、かすみケ丘の家には、日中、家政婦の佳山さんが来るだけで、夜は百合香一人になってしまう。悠太が用心棒の代わりというわけだった。
 悠太には居てもらっているだけで、わたしたちの間にはまだ何も特別な関係はないのだと、百合香は何度も間接的な表現で史奈に言ってくる。
 別にこちらから訊いてもいないのに。
 悠太が実際に用心棒の役に立つとも思えない。百合香の意図は誰でもわかる。いつもそばに置いて悠太を独り占めしたいのだ。自分に取られるかもしれないとまだ心配しているのだろうか。
 確かに、悠太を好ましく思う気持ちが今でもないわけではない。医学部に一緒に入学した男子学生をみると、悠太のやさしい人柄とか、思いやりの深さとかを改めて感じる。
 でも、悠太はもともと百合香のものだし、自分なら、男性には、優しいだけでなく刺激的な部分がほしいと思う。言い換えれば、自分にとって悠太は、百合香から奪いとりたいほどの存在ではなかったということだ。そして今、自分には瑞希がいる。
 もう大人なんだから、二人で好きなようにすればいい。正直なところ、ほんの少しだけイラっとしてしまう。
 ひょっとして、何も起きないことが不満なのかしら。
 瑞希がそんな史奈を忖度することもなく、続けた。
「おにいちゃん、ゆりかさんの相手で、どうしても一時間か二時間くらい時間が取られちゃうみたいだよ」
「でも悠太さんは別に気にしてないんでしょう」
「まあね。でもたまには一人でいたいって思うんじゃないかなあ」
「ふうん」
 史奈があまり気のなさそうな返事をしたので、瑞希は黙った。
 こちらを少しだけ気づかわし気に見る瑞希の表情に気がついた。
「私、ふみちゃんにいらぬことを言っちゃったかな」
「え、そんなことないよ。全然。どうして?」
「ううん、なら、いい」
 自分は今、瑞希といるときが一番楽しいし、幸せなのだ。瑞希にも同じ気持ちになってほしい。声の調子をつとめて明るくする。
「今日は一日練習するの?」
「お昼前と午後に少しやるだけだよ。百合香さんと決めたの」
 瑞希は指を軽くストレッチしながら答えた。
 かすみケ丘の西山邸には音楽室と、四郎のアトリエを音楽室に改造した部屋と、二つあって、瑞希も百合香もそれぞれを使うのだが、こちらではそうはいかない。今秋のコンクールに出る百合香が優先なのはしかたがない。
 
 朝食が済んで中に入ろうとしたとき、百合香が現れた。まだノーメイクのせいか、顔色が青白いが、表情は明るかった。
「おはよう。瑞希ちゃん、今日はずっとピアノ弾いていいわよ。あとはわたし、自分の部屋で練習するから」
「いいんですか」
「ええ。それと、おじいちゃんが起きたので、もう少ししたら一緒に近所のスーパーに買い物に行くの。史奈は何か買ってきてほしいものある?」
「特にはありません」
「わかった。じゃあ出かける支度してくるわ」
 百合香はそう言って引っ込んだ。まだスーパーが開くのまでは時間があるが、メイクにはかなり時間をかける百合香のことだから、今から準備しないと間に合わないのだろう。
 
 史奈と瑞希の二人も中に入った。百合香の言うとおり、四郎が起きて、クロワッサンをちぎって口に運んでいた。
「やあ、おはよう」
 四郎はまだ重たげな瞼をこすって、史奈たちに声をかけた。朝が苦手なのは昔かららしい。
「おはようございます」
「今日はいい天気だな。お嬢さん方は出かけないのかい?」
 そう言えば、特にどこへ行こうと決めていない。二人で顔を見合わせた。
「瑞希ちゃん、練習するんでしょ」
 瑞希は、首を振った。
「でも午後は別に練習しなくてもいいわよ。せっかく来たんだから、お出かけしよう」
「そうだ。ずっと家に居ないで少しは散歩でもした方がいい。この時期はまだやっていない店も多いけど、よかったら、旧軽井沢の方でも行ってみるかい?お昼食べたら車で連れてってあげるよ」
「わあ、いいんですか。私行ったことないんだ」
「観光地みたいなところだけどね、一度見てみるのもいいかもな」
 しばらく、四郎と三人で雑談になった。
「スケッチとかに行かなくていいんですか」
「行くのは週に二日か三日くらいだね。毎日行くわけじゃない。でもこの時期は新緑を見に散歩は毎日行くよ」
「そうなんですね」
「人も少ないしね。みんな軽井沢の一番いい季節を知らないみたいだから」
 話題は、そのあと史奈と瑞希の学生生活のことに移り、瑞希が、学校の授業が楽しくてたまらないと言うので、四郎が、じゃあ、彼氏なんかもできればなお楽しくなるなどと言うと、瑞希は首をブンブンと振って、
「音大の男の子は少ないし、あんまりこれっていうのもいないし」
「じゃあ、光陵なら多いんじゃないか。お兄ちゃんや史奈ちゃんに紹介してもらえば」
 瑞希は困ったように史奈を見たので、史奈は話題をかえた。
「あの、もしできればでいいんですけど、アトリエの絵を見てもいいでしょうか。最近拝見していないので」
 四郎は、一瞬意外そうな顔をしたが、笑顔になって、
「もちろん、いいですよ。絵はすべてこちらのアトリエに持ってきたんでね、自由に見てもらってかまわない。……じゃあ、出かける前に案内しておこうか。アトリエが散らかってるので少し片づけてからでいいかな。あと二十分くらい」
「もちろんです」
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