文字数 3,280文字

 朝食を食べ終わった四郎が史奈に、じゃあアトリエに案内しよう、と言って立ち上がった。
 私も見たい、と言って瑞希もついてきた。
 少しひんやりした空気と、テレピン油の匂いに包まれる。
「絵はそこのラックに立てかけてあるので、適当に引き出して見てください。こういう森の中なので湿度が高めだし、冬の寒さも絵には良くないんだが、まあ、空調もあるし特に傷んではいないので、こんな感じで保管しているんだ。東京から持ってきたやつは、その奥の部屋に置いてある。よかったらどうぞ。そっちは温度と湿度を管理しているので、開けっ放しにはしないでね」
「わかりました。ありがとうございます」
「私はもうじき百合香と買い物に出かけるから。ごゆっくりどうぞ」
 四郎が出て行ったあと、史奈と瑞希は、ラックの前に立った。
「すごい。ここだけで百枚くらいあるのかな」
「お祖父さまは、絵は売らないので、多分、今まで描いたものが全部ここにあるんでしょう」
 絵描きになって五十年は経っている。今まで描いた作品をすべて保管していれば、相当な枚数にはなるはずだった。
 どうやら、この部屋に置いてある作品はわりと最近のもので、だいたい年代順になっているらしい。
 試しに一枚を出してみる。
 これは風景画で、この別荘の近くらしい。遠くに浅間山が見える。
「いつ見てもリアルだよね。よくこんなに細かく描けるもんだわ。私、絵は本当にへたくそだから。猫を描いたら友達に『変わった形の鳥だね』って言われたくらいだから」
「それは相当ね。でも私もよ。芸術作品は見たり聴いたりは好きだけど、自分で創作はできないわ」
 こういうリアリズム絵画の良さは、難しい絵画理論や歴史などを知らなくても、ただ見るだけで楽しめることだ。二人であれこれ言いながら、取り出しては見るのを繰り返す。美術館で額装された絵を見るのとは違った、親しみやすさのようなものを感じる。
 何枚目かで、前にも見た絵が出て来た。
「あ、これこれ」
 ピアノの蔵原先生と一緒の中学生の百合香。
「本当にゆりかさん、かわいいよね。何度見てもため息がでちゃう。おにいちゃんがずっと見てたんでしょ、この絵を」
「そうよ。私が話しかけても心ここにあらずって感じだった。うふふ」
 今もそうだが、四郎はその時々の気分で、作品をいくつかイーゼルに架けている。四郎が史奈と悠太をモデルに描いていたある日、この絵がアトリエに架かっていた。百合香さんが気になるんですか、と自分にからかわれて頬を赤らめた、まだ少年の悠太の横顔がよみがえった。もう、遠い思い出だ。
 瑞希も絵をじっと見ている。瑞希と一緒にピアノを習っていた別の少年の話は、瑞希から簡単に聞いている。彼もこの絵に見とれていたという。でも彼が見ていたのは百合香ではなかった。
 風景画が続いたあとに、再び肖像画が出て来た。
「じゃーん、出ました。……ゆりかさんには見せられないやつ」
 ソファに座ってこちらを見る悠太と自分。まるで恋人同士のように顔を寄せ合っている。
「おバカ」
 史奈は呟いたが、実は彼女がこの絵を見たのは初めてだった。何年か前、まだ仕上げに時間がかかっていて、と四郎が言い訳するのを聞いた記憶はあるが、結局見せてもらえなかった。彼女自身も忘れかけた頃、自分だけを描いた小さな絵をプレゼントされた。史奈は嫌だったのだが、涼子がせっかく先生がくださったのだし、史ちゃん、とっても可愛く描けてるから、と言って居間の目立つ場所に掛けた。今でも同じ場所にある。
「二人ともかわいい。ふみちゃんはもちろんだけど、おにいちゃんもまだ高校一年生だもんね」
「私、この絵は結局完成しなかったのかなって思ってたの。あったんだ」
 史奈のつぶやきに、瑞希が少し困ったような顔をした。
「前回ここにお邪魔したとき、この絵をおじいちゃんから見せてもらったの。で、おじいさんが、おにいちゃんに、ふみちゃんにこの絵見せるべきかどうかって、聞いてきたのよ。ふみちゃんが嫌だと思うかもしれないからっていうことで、結局史ちゃんだけのヴァージョンをつくることになって、それがふみちゃん家にある絵なんだよ」
「ふうん」
「ごめんね、ふみちゃん、黙ってて」
「ううん、いいのよ。全然。……私は別にそんなの気にしないのに。嫌だと思うのは私じゃなくて、百合香さんなんじゃない?」
 みんなが気を使ってくれたのはわかったが、その気遣いの方向性がずれているのではないだろうか。再び瑞希が困ったような表情を見せた。
「もちろん、ゆりかさんにも見せてないと思うよ」
 
 この絵は、孫娘の交際相手候補となった少年が、ふさわしい相手か観察してやろうという意図で、悠太を家に呼ぶための口実をつくるために描いたのだった。悠太一人だけを相手にするのは少々やりにくいと言うので、それなら私が一緒でもいいですよと、史奈が提案して段取りを決めた。
 なので、モデルを呼ぶのは最初の一二回で、あとは写真をもとに描くのが四郎の普段のやり方だったが、この絵の場合は何度も悠太を通わせて描いていた。
 そんな思惑のある絵だから、目的を達した以上、完成しなくてもよかったのだろうと、史奈は勝手に考えていた。自分だけが描かれた肖像をくれたのは、モデルにつきあったお礼だと解釈していたので、完成作品があったのは意外でもあった。

                    ***

「じゃあ、ふみちゃん、悪いけど私、練習してくるね。午後出かけるから、今のうちに少しだけしておきたいの。いい?」
「もちろん。私はここで見てるから。行ってらっしゃい」
 瑞希が部屋を出て行き、史奈ひとりになった。
 続いて取り出した絵は、人物画ではなく、風景画だった。
 風景といっても広々とした景観ではなく、一軒の家を描いた作品で、場所は東京郊外か、もしかしたらここ軽井沢かもしれない。背景があまり描かれていないので、それ以上はわからない。
 しかし、史奈はその画面にくぎ付けになった。
 何かが彼女の記憶の引き出しを開けようとしている。
 木造の、薄いグリーンの下見板張りの外壁に、白い窓枠の小さな家。アーリーアメリカン風のデザインは、そんなに珍しくはない。かすみケ丘でも、北米の輸入住宅はちらほら見かける。でも、楕円形の縦長の窓が開いた玄関ドアと、その上の葉が広がったような複雑な形のランプが、彼女の記憶を刺激し、懐かしさと切なさが入り混じった感情を呼び起こすのだった。
 そうだ、確かに自分はこの家を知っている。中に入ったことがある。
 いつ頃だったろうか。記憶が定かでないほどだから、幼い頃、おそらく小学生になったばかりの頃だろう。場所は……と考えて来て、固く閉じていたドアが突然開け放たれ、映像の数々が一気になだれこんできた。
 細い木枠で小さく区切られた窓越しに咲いているピンクや薄いオレンジの色とりどりの薔薇たち。小さな果実の模様に彩られた壁紙とレースのカーテン、木目調のデザインのアップライトピアノ。木の小さな丸テーブルに置かれた紅茶のカップとお菓子。
 史奈の部屋でも、百合香の部屋でもない。
 史奈は百合香と一緒に椅子に座り、お茶を飲みながらおしゃべりをしていた。ダイニングテーブルが史奈にはまだ高くて、椅子に正座して何とか届いた。
 相手の顔も浮かんできた。自分と同じおかっぱ髪にヘアリボンをした少女。ピンク色のオシャレなワンピース。学校が休みの日にお呼ばれしたのだったろうか。話していたのはもっぱら史奈で、百合香と相手の少女は口数少なく笑みを浮かべていた。
 確かにそんなお家に行ったことがある。
 記憶力抜群で、幼い頃のことでも、周囲の大人に驚かれるほど細部まで憶えている史奈だが、どうして忘れていたのだろう。
 と考えながらも、薄々その理由は察せられた。それらの映像には同時に、何か後悔にも似た苦い感情が混じっていたからだった。
 自分がこの家を見たのは、かすみケ丘の自分の家の近所だ。季節はちょうど今時分。そして百合香さんも一緒だった。……結び目はいったん解けだすと、止まらない。

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