文字数 4,213文字

 翌日の午後二時を回った頃、別荘に約束通り門倉母子が訪れた。
「ようこそおいでくださいました」
「おじゃまします」
 母親に後れて緊張気味に入ってきた真菜は、丸顔に短い髪こそ昔のままだったが、眼鏡をかけて、高校三年にふさわしく、すっかり大人びた雰囲気になっていた。
 リビングに入るなり、志保が言った。
「わあ、すてきなお部屋。明るくて」
「紹介しましょう。こちらが昨日私と一緒にお宅に伺った佐倉史奈ちゃん、こちらが孫の百合香。二人は昔真菜さんの家に遊びに行ってたらしいですな。それとこちらが史奈ちゃんの友達の秋野瑞希ちゃん。百合香が大学四年で、こちらの二人が一年生です」
 それぞれが挨拶を交わした。
「お久しぶりね。とってもなつかしいわ。よろしく。百合香さんもすっかりおきれいになって」
「よろしくお願いします。百合香さんと史奈さん、お会いできてうれしいです。あと、瑞希さん初めまして」
 おずおずと口を開いた真菜は、しかし、落ち着いて堂々としていた。やはり子供の頃感じたように、おっとりした見た目に似合わず賢いのだと史奈は思った。彼女の通う県立高校は進学校らしいので、勉強もできるのだろう。
 ダイニングテーブルには、アフタヌーンティーセットがすでに用意されていた。ケーキとスコーンは午前中に中軽井沢のケーキ屋で買い揃えた。サンドイッチは史奈が急いでつくったものだった。そのほかクッキーなどの焼菓子などもテーブルに出してある。
「きれい。おいしそうね、真菜ちゃん」
「うん」
「どうぞお召し上がりください」
 百合香が紅茶をポットから各自に注いだ。

「じゃあ、三人とも聖花のご出身なんですか。どおりで、みなさん、ステキなお嬢さんだわ。ね真菜ちゃん」
 真菜は黙って頷いた。
 通っている大学の様子などを百合香が話したあと、
「真菜さんは大学とかは決めているんですか」
「はい。国立の外国語学部が第一志望で、あとはお二人が通っている光陵も受けようかなって思ってます」
 話はお互いのその後の暮らしのことで、話が弾んだ。
「光陵は女子の学生寮が新しくなってきれいみたいですよ。同級生の女の子が言ってました」
 と、史奈。
「東京で一人暮らしは、親としてはやっぱり心配ですよね。特にこの子はのんびりしてるから」
「大丈夫だってば」
「そうかしら」
 真菜は明るく屈託がなさそうだった。史奈と百合香にもいろいろ思い出を話しかけてきた。
「そういえば、百合香さんって、ヴァイオリニストをめざしているってお聞きしたんですけど」
「はい。一応そのつもりです」
「中学生の頃に国内のコンクールで入賞したとか。私も娘も、クラシックはあまり聴かないので、存じ上げなくて失礼しました。音大は行かなかったんですね」
「ええ、まあ。一時期別の進路を考えていたので。でも結局は戻ったんです」
 志保が、
「瑞希さんはピアノなんですね」
「はい」
「音大生なんてお会いしたことなかったので。感激です。ぜひそのうち演奏をお聴きしたいです」
 すると四郎が、
「じゃあ、百合香、演奏をお聴かせしてあげれば」
「わあ、いいんですか」
 真菜も、百合香に、ぜひ聴きたいです、とせがんだので、百合香が瑞希に、目でたずねると瑞希もうなづいた。
「じゃあ、今から準備しますから、十五分くらいしたら、奥のお部屋にお越しください」
 二人が席を外すと、四郎と志保も立ち上がって、ベランダに出て行った。庭を案内するらしい。史奈と真菜が残された。
 ちょっとした沈黙があって、真菜が史奈に尋ねた。
「史奈さんは学部はどちらなんですか」
「医学部です」
「わあ、すごい。医学科ですよね」
「ええ……」
 医学部と言うと返ってくる「すごい」といったリアクションに、いつもどう受け答えしていいか迷う。一番さりげなく嫌味にならないのは、どうするのがいいのだろう。
「私、理数系は全然だめだから。医学部なんて尊敬しちゃう。うらやましいです」
 史奈は理数系でも文系でもどちらもできるが、運動や芸術などの実技科目は苦手だ。
「ところで、百合香さんって本当にすてき。モデルさんみたいで、つい、みとれちゃう」
「私もよ。ああいう美しい女性をずっと見ていたいって思います」
「ですよね。百合香さんは彼氏とかいるんですか」
「ええ。瑞希ちゃんのお兄さまの悠太さんっていうひと」
「ああ、そうなんだ。いて当然ですよね……でもなんだか、みなさん、結びつきが強いんですね」
「そうかなあ」
 そういう視点で見られたのは初めてだった。言われてみれば、瑞希は自分と同じ家に住んでいるし、悠太と百合香も、付き合っているうえにこの四月から同じ家に同居している。同居のことは誤解を招くと思われるので、真菜には言っていない。
 その後少し会話が続いたあと、史奈は思い切って、口に出した。
「真菜さん、ひとつだけいい?」
「はい?」
「私、実を言うと、真菜さんに謝らなければって思ってたことがあるの」
「え、何ですか?」
 真菜は面食らったような表情をした。
 彼女が自分に悪感情を抱いてはいないらしいことはわかった。もしかしたらもう忘れているのかもしれない。百合香の言うように自己満足にすぎないのかもしれない。でも、これを機に、真菜と今後も付き合いがあるのだとすれば、わだかまりが生じないようにしなければならないと思った。
「昔、あなたと最後に会ったとき、私、あなたに、百合香さんと会わないでって言った記憶があるの。百合香さんがあなたのことを好きでないとか。あなたは泣いてたわ。百合香さんは真菜さんのことが大好きだって知っていたのに。そんな嘘をつくなんて自分で嫌になっちゃう。それであなたと遊んだこととか、思い出さないようにしていた。ごめんなさい」
 真菜は史奈を見て、
「そうですね、そんな風に史奈さんに言われたことは憶えています。その翌日に偶然会った百合香さんが声をかけてくれなかったら、私ずっと百合香さんに嫌われてたと信じたと思います」
「ごめんなさい……」
 やはり、言われた方は忘れないものだ。
「でも、史奈さんのことを嫌だと思ったわけじゃないんです。夏休みが終わったら史奈さんに勉強を教えてもらおうと思ってたくらい。そんなに意地悪な感じで言われなかったと思うし、私、わりと鈍いっていうか、人間関係に疎くて、友だちに依存しすぎて、友だちが離れていったりとか、そんなことが何度かあって。だから、後から思うと、百合香さんに甘えすぎてるって注意されたのかなって思っていました。……でも、そんなこといいんです。私も、夏休み中に急に引っ越しが決まって、百合香さんと史奈さんにさようならもできなかったのをずっと後悔してたんです。またいつか二人に会いたいって思ってました。だから、今日はお会いできてとってもうれしいんです」
「……」
「大学に合格して東京に出てきたら、また会ってくれますか」
「もちろん。連絡して」
 真菜は自分に不足している包容力のようなものを持っていると、史奈は彼女の笑顔を見て感じた。
「私、今日真菜ちゃんに会えて神様に感謝しているの。別に神様を信じてるわけじゃないけどね……だって普通は、昔の自分の言動を後悔しても、そのまま胸に秘めていなければならないでしょ。謝る機会ができただけでも幸運だと思う。許してくれようとくれまいとね……そろそろ準備ができたみたい。音楽室に行きましょう」

                   ***

 四郎と志保を呼んで、音楽室に行く。
 瑞希と百合香は、演奏会用の服に着替えていた。百合香はともかく、瑞希もドレスを持っていたのは意外だった。少しサイズが合っていない感じもあるが、まさか百合香のを借りたわけではないだろう。
「わあ、広い」
 真菜が声を漏らした。
 かすみケ丘の自宅の音楽室の半分くらいの大きさだが、確かにそれでも広い。壁がすべて木で、暖かみがある。
 軽くお辞儀をして百合香が言った。
「来ていただいてありがとうございます。今練習している小品を演奏したいと思います。一曲目がフォーレの『夢のあとに』、二曲目がエルガーの『愛の挨拶』、最後が『カッチーニのアヴェ・マリア』です。クラシックにあまりなじみがなくても、おそらくどこかで耳にしたことがあるのではと思います。では続けて演奏しますね」
 一曲目は、ピアノの和音の静かな連打に乗って、ヴァイオリンが憂いをもった旋律を弾き始めた。束の間の夢に見た幻の愛を嘆くという内容の歌曲をヴァイオリンやチェロ用に編曲したものだ。後の二曲もヴァイオリン独奏用の編曲で、アンコール・ピースとして練習していたもののようだ。
 やさしさと幸福感に包まれたエルガーの後で、悲し気な「アヴェ・マリア」が史奈の心にも沁みた。曲調が目を伏せて憂い顔で弾く百合香の可憐な容姿にぴったり合う。似合いすぎてちょっとズルいと言いたくなるほどだった。志保と真菜の母子は、うっとりと二人の演奏を聴いている。
「すてき……」
 終わったとき、志保は涙を拭いながら、拍手をした。
「やっぱり、生で聴くと違うわね」
「聴いていただいてありがとうございます。……もし、ほかに何かご希望の曲があれば。もちろん、こちらのレパートリーにあるかは別ですけど」
「真菜ちゃん、どう?」
 志保の問いかけに真菜は少し首をひねって、
「あの、テレビで見たことがあったんですけど、ヴァイオリンだけの独奏で、とても難しい感じの曲」
「何かしら。パガニーニ?」
 百合香がワンフレーズ弾いてみせると、
「ああ、それです。その曲」
「じゃあ、弾くわね」
 百合香が史奈にもなじみのある、カプリースの第二十四番を弾き始めた。コンクールを目指すなら必須の曲とはいえ、次から次へと繰り出される技巧的なパッセージを百合香がこともなげに弾くのには、ただ感心するばかりだ。
「じゃあ、次は瑞希ちゃんね。どうせならパガニーニ繋がりで、『ラ・カンパネラ』はどう?弾ける?」
 百合香の言葉に瑞希はほんの少し苦笑したが、真菜が、
「あの曲好き。ぜひ聴きたいです」
 彼女はどうやら、しっとりしたバラード風の曲よりも、速くて派手目な曲が好きなようだ。
 瑞希が深呼吸をして弾きだした。
 音の粒がきれいで、しかも柔らかい。音がきれいといっても濃厚ではなく、透きとおった感じは、百合香のヴァイオリンとも相通じるものがある。
 リストはあまり得意ではないという瑞希だったが、危なげなく弾ききった。

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