文字数 2,404文字

 翌日の十一時頃、四郎と史奈は出かけた。おおよその事情はあのあと四郎に説明してある。昔遊んだことのある近所のひとらしいので挨拶に行きたいというと、じゃあ、ぜひ行ってみようと言った。
 百合香には訪問のことはまだ話していない。練習で忙しいし、繊細な彼女に少しでも余計なものを持ち込まない方がいいのでは、と考えたからだった。
 午前中だからか、新緑が一段と柔らかな影を地面に投げかけている。
「瑞希ちゃんは、少し疲れてたみたいだな。歩きすぎたか」
「そうかもしれませんね。でももう大丈夫みたいですよ」
 昨日の晩の出来事で、自分同様、気持ちが入れ替わったのか、今朝は朝から元気よく、昨日の分も練習しなくちゃ、と張り切って午前中いっぱい音楽室にこもった。午後は百合香ともアンサンブルの練習をするらしい。
 
「ああ、この奥だよ。その建物だ」
 歩いて十分もしないで、目的地に到着した。近くだとは聞いていたが、こんなにすぐとは思わなかった。
「さあ、着いた」
 門のあたりは木々が途切れており、陽が差して明るい。林は薄いグリーンの外壁の奥に拡がっている。あの絵と同じだ。玄関回りのデザインも当然同じ。ただ、かすみケ丘の家と全く同じかといえば、正確には思い出せない。
 四郎が門の中に入ってチャイムを押した。
「どちらさまでしょうか」
 女性の声。
「私、画家の西山です。以前絵を描かせていただいた」
「あら、西山先生。少々お待ちください。」
 姿を見せた女性は背が高く、丸顔のショートヘアの、四十代半ばくらいに見えた。もちろん、史奈は憶えている。真菜の母親の志保だ。
「先生、お久しぶりです。きょうはどういう……」
 女性は四郎の傍らに立つ若い娘をみて、だれか思い出そうとするような表情を見せた。史奈はお辞儀をして言った。
「突然おじゃまして申し訳ありません。私、佐倉史奈です。まだ小学生のころ、門倉さんが、かすみケ丘に住んでいらしたころ、何度かお邪魔したと思います。娘さんの真菜さんと遊んだり……」
 女性の顔がぱっと明るく変わった。
「ああ、佐倉さんって、あのヴァイオリニストの方の娘さん。……憶えていますとも。うちの庭のバラをもう一人の年上のお嬢さんと一緒に見ていて。私が声をかけたんですよね」
 よかった。憶えていてくれたらしい。
「この数日だけ、こちらに遊びに来ているんです。この子と昔一緒に遊びにお邪魔していたのが、私の孫娘で百合香というのですが、彼女も今こちらに来ているのでね、一緒に挨拶しようと思ったんですが、ちょっと用事があって」
「ああ、そうそう、百合香さん。憶えていますわ。とってもきれいなお嬢さんで、娘もお二人にはとってもなついていたんです。そういえば、おじいさんが画家だっていう話もしてたような気がします。……「西山」ってそういえば同じ苗字ですものね。絵を描いていただいたときに気が付くんだったわ。どうぞ、お入りください。主人は週末まで東京出張して、日曜に帰って来ますけど」
 リビングダイニングに案内された。
「この家の玄関って、かすみケ丘のお家と同じデザインのような気がしますね」
「そうなんです。この家は三年前に建てたんですけど、玄関だけじゃなくて、昔の家の全部が気に入ってて。間取りは違うけど、外観は似たような感じにしてもらったんですよ。特に玄関のドアとライトはね、同じものを取り寄せてもらって。よくおぼえてくれてたわね」
「イギリスのロンドンへ引っ越されたって聞いていたんですが」
「ええ、主人が急に海外赴任になってしまったの。もともとは別のひとが行く予定だったのが、事情があってダメになってしまい、主人が代わりにいくことになって。だから本当に急な話だったんです。娘の九月の入学にあわせて渡航の準備とか、三週間くらいで全ての手続きを終わらせなくてはいけなくて。あのときは本当に大変でしたよ。まあ、私も英語の翻訳の仕事をしているので、英国に行ってみたいっていう思いもあったから、チャンスではありましけどね」
 その後、娘の真菜が中学に入った頃、日本に帰って来て、都内に住んでいたのだが、コロナを機に、仕事もテレワーク中心の生活が可能となったので、さらにこちらに引っ越したのだという。
「真菜さんは、学校ですか」
 一番知りたかったことを質問した。
「娘は上田の県立高校に通ってるんです。今年高三で受験なんですよ。佐倉さんは確か一学年上でしたよね。聖花女子大?」
「受験して光陵に入りました。百合香さんも同じ光陵で、四年生です」
「あら、娘も光陵が志望大学のひとつなんですよ。外国語を勉強して通訳になりたいんですって。イギリスに五年もいて、英語は結構得意みたいなので」
 そのあと会話が続き、そろそろお暇を告げようとすると、
「懐かしいわ。きっと娘も会いたがると思います。かすみケ丘にはいつお帰りになるんですか。明日は土曜日で娘もいるんですけど」
「ああ、だったら、明日よければお二人、うちにいらっしゃいませんか。娘たちは日曜の朝帰る予定なので、明日なら大丈夫ですよ。ささやかなアフタヌーン・ティーでも。歩いてすぐですし。二人のほかにもうひとり、秋野さんという、こちらの史奈ちゃんの友達もいます。まあ、同世代の娘が何人もいるので、いろいろ話も弾むかもしれません」
「ぜひお邪魔したいです。わあ、楽しみ。じゃあ、翻訳の仕事の締め切りを伸ばしてもらっていて明日中なので、頑張らなくちゃ」
 志保は、若い娘のように浮き浮きした調子で話した。
 玄関で見送るとき、史奈は思いついて尋ねた。
「薔薇はもう育てていらっしゃらないんですか」
 志保は笑みを浮かべた。
「いえ、庭にありますよ。ほら」
「ああ、本当だ」
「東京なら今開花でしょうけど、こちらは寒いので、来月にならないと無理ですね。昔の家ほど大株ではないけど、結構きれいよ。遠いけど、開花時期に来れたら見に来てください」
「はい」
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