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 史奈が物心ついたときには、すでに両親は離婚していた。
 といっても、父親とは月に何度か会っていた。父親はかすみケ丘駅近くのマンションに住んでいて、大抵は父親がこの家までやってきて、一緒に近所を散歩したり、買い物や食事をしたりした。また、母親が演奏活動で地方や外国へ出かけて留守にするときは、父親の家に預けられていた。だから最初の時分、父親というのは違う場所に住むものだと思っていたくらいだ。
 両親が別れたということは、幼稚園に通う頃には理解していた。でも父親が迎えに来た時の母親の対応からは、別に二人の仲は悪くないように感じられたし、母も父も、お互いのことを悪くいうこともなかった。だから、どうして別れたの、という問いかけを幼い史奈は両者に何度かしたのだった。が、いつも曖昧な返事が返ってくるだけだった。事情を知り、理解したのは、中学生になってからだ。

 史奈の遊び相手は幼稚園からの同級生が何人もいたが、いつもとなると、やはり百合香だった。
 自分よりも三つ年上で、史奈の一番古い記憶は三歳か四歳ごろだから、そのときすでに百合香は小学生だった。その頃、史奈は彼女のことを「おねえさん」と呼んでいた。
 百合香はおねえさんらしく、一緒に絵本を読んだり、おままごとをしたり、編み物をしたり、一緒に遊んでくれた。史奈は百合香に甘え、一緒に暮らしたいと思うほど、彼女が好きだった。ほかのどの子のお姉さんよりも百合香が美しいのも、史奈の自慢だった。実の姉妹よりも仲は良かったと思う。ケンカや言い争いなどをしたことがない。でも今思えば、それは年上の百合香がいつも譲ってくれたからだ。
 彼女の部屋にはいろいろなきれいでかわいい物がたくさんあって、それを見るのも楽しみだった。
「気にいったのならあげるわ」
 百合香は史奈の嬉しそうな顔を見るためなのか、ぬいぐるみとか、ガラス細工の物入れとか、史奈が欲しがったものは、たいていくれた。
 調子にのって、チェストの上に飾ってあった大きな外国製のお人形が可愛くて、ほしい、と言ったことがある。百合香は最初、これはだめよ、と言っていたが、史奈がむきになって、得意の泣きまねまでしてみせると、「大事にしてあげてね」と、半分困ったような笑顔を見せて譲ってくれた。
 別にそれがそんなに欲しかったわけではない。
 百合香がどれだけ自分のことを大事に思っているのか測りたいという気持ちの方が強かった。彼女の心を試していた。われながらイヤな子だったと思う。
 これは百合香さんのお母さまの形見の品なんだから、すぐに返していらっしゃいと、母の涼子がいつになく真剣な顔で言わなかったら、その人形は今でも史奈の部屋に飾られていただろうし、百合香にはその後も、うっとりするほど美しい和音を奏でるオルゴールとか、きれいな模様のタペストリーとか、彼女の部屋にある様々な品物をおねだりし続けていただろう。でもそれ以来、百合香のものを欲しがったりすることはしなくなった。
 小学校に上がる頃には、百合香も勉強や楽器の練習で忙しくなり、あまり史奈につききりで遊んでくれることはできなくなった。それでも西山家にはしょっちゅう出入りしていた。

 母親と一緒に行って、百合香のレッスンを一緒に聴くこともあった。
 著名なヴァイオリニスト佐倉涼子の娘として、史奈自身も三歳から小さなヴァイオリンを与えられ、母親に手ほどきを受けた。
 よく覚えていないのだが、幼稚園の年長になるころには、すでにヴァイオリンではなく、ピアノを習っていた。母親によると、ヴァイオリンよりもピアノがいい、と史奈自身が言ったらしい。近所のピアノ教室で、母親と同じ大学出身の先生に習った。
 母親があっさり変更を許したのは、自分の娘に音楽の才能が乏しいことをすでに理解したからだろう。ならばせめて音楽を嫌いにならないように、自分のペースで楽しんでやれるようにと考えたのだ。
 その証拠に、家で練習しているとき、うまく弾けなくても叱られることはなかったし、よくできたときは大げさなくらい褒めてくれた。
 しかし、自分は母親や百合香のようにできないことは自覚していたし、母が百合香にレッスンするときに見せる厳しく真剣なまなざしを、自分に向けることはないこともわかっていた。
 ピアノの難しい個所に苦労していると、横にいる百合香が、ここはこうすればいいのよ、とすらすらと弾いてみせてくれる。でも自分がやってみると、全然うまくいかない。
 肩や腕の脱力のしかたも教わるのだが、どうしても指や手のひらのどこかに余分な力が入るのか、ぎこちなくしか弾けない。ピアノの教室に通うのも、小学校低学年の時には辞めてしまった。今考えると、それでもずいぶん引っ張ったものだとは思う。もっと早くに見切りをつければよかった。
 父も音楽関係の仕事をし、学生時代はバンドでギターを弾いていたという。両親の音楽の才能はなぜか娘には受け継がれなかったのだが、周囲はそうはみてくれない。多少は弾けることもあって、学校の合唱コンクールではピアノ伴奏をやらされた。もっと上手な子がいるのに、と思いながら、しかし歌うのはもっと苦手だったので我慢したのだった。

 音楽の才能あふれる人間がそばにいながらも、史奈がそれほど劣等感を抱くこともなく育ったのは、他に得意なものを見つけたからだ。
 幼稚園の頃はただみんなと一緒に楽しく遊んでいただけだったが、小学校に入った途端に、自分がクラスのだれよりも勉強ができることを自覚した。
 特別な幼児教室などに行ったわけでもないのに、カタカナひらがなはもちろん、新聞に出てくるような漢字の半分くらいや、ローマ字もすでに読み書きできたし、中一レベルの基礎的な英語も理解できた。敬語も正確に使いこなせた。本は大好きで、絵本だけでなく、小学生向けの本もかなり読んでいた。
 勉強については四郎の姉の美佐のおかげだった。
 美佐は独身で、近所に住んでいたのだが、百合香の両親が亡くなったのを受けて、西山家に戻ってきていた。
 彼女は百合香や史奈と同じく幼稚園から聖花学園に通い、大学も聖花学園の英文科、卒業後は聖花の中学高校の英語の教師になった。ほとんど聖花学園とともに生きて来たようなひとだ。
 その美佐は、六十歳を過ぎてすでに学校は辞めており、史奈が西山家に行くといつも居間で本を読んでいた。彼女は利発な史奈が大のお気に入りで、孫娘と同等以上に可愛がった。漢字や、ローマ字、英語、それらはみんな美佐に教えてもらったものだ。
「史奈ちゃんは覚えるのが早いわね。百合香が一週間かかるところを一時間で覚えちゃう」
 百合香のために弁明すれば、百合香はヴァイオリンやピアノのお稽古で忙しくて、史奈ほど勉強に時間を費やせなかったのだし、決して頭が悪いわけではなかった。ほとんど勉強する時間もなかったのに、小学校の成績はいつも上位だったはずだ。大人になったら海外でも活躍できる演奏家を目指さないと、と涼子にも言われて美佐から英語を習い、英語に関してはかなりできるようになった。

 そんな史奈だったから、小学校一年の教科書は簡単すぎて物足りない。国語、算数、理科、社会は、百合香の使っていた二年生や三年生の教科書を借りて、それも読み終わると、新聞や本で知らない漢字を片っ端から憶えたり、自分の知りたいことや興味のあることを図書館で調べるようになった。
 三年の歳の差を越えて、百合香とは勉強に関してほぼ同レベルになっていた。百合香が学校で習っていることはたいてい史奈も知っていた。だから練習が忙しくて算数の宿題をやる暇がないときなど、史奈が代わりにやってあげたことも何度かあったくらいだ。史奈は百合香にとって年下の妹であるだけでなく、クラスメイトの役割も果たしていたことになる。
 だからといって、史奈は自分の能力を見せつけることはしない。そんなことをすれば友達が離れてしまうことはわかっていたし、外見同様、無邪気で愛らしい少女であることを求める大人たちにも、褒められるよりも警戒心を持たれることを、察知していたからだ。
 だから、頭の回転の速い子供特有の、マシンガンのような早口トークになりがちなのを抑え、なるべくゆっくり喋るようにし、なるべくおっとりした印象を与えるように努力した。友だちや大人たちが、間違った知識をもとに会話しているときも、それは違う、と口を出すようなことはしなかった。もっとも、クラスメイトがあまりに世間知らずなことをしゃべっているのをこらえきれずに、口を挟んでしまうことは何度かあったが。
 そんなわけで、史奈は、表面上は明るく素直で、しかし本当に考えていることは決して明かさない子になっていった。
 その彼女が本心に近いものを打ち明けられる相手といえば、父の操くらいだった。
 彼は娘に、必ずしも女の子らしさを求めなかったし、なるべく対等に真剣な態度で話を聴いてくれ、難しいことを喋るのをむしろ好んだ。
 一緒に新聞を読んだり、テレビを観て、わからないことがあると、娘が父親に尋ねるのが普通だが、史奈の場合は、父の方が、「これってどういうことなんだろう」などと、娘に質問してくるのだった。そこで史奈がその場で調べたり、すぐにわからないことは次回来るときまでに調べておく。別に父親は教育目的で娘に質問するわけではないらしい。でも娘が「これって、こうなのよ」と、得た知識を事細かにしゃべると、喜んで、
「そうか。史奈は何でも知ってるんだ。すごいなあ」
 などと必ず褒めてくれるので、ますます嬉しくなって、知らないことを調べるのに夢中になるのだった。
 父はまた、娘が時として極端なことを言っても頭ごなしに否定することはせず、時間をかけて反論してくれた。だから史奈も本気になって話をすることができたのだった。
 親としては当然の対応なのかもしれないが、月に何回かしか会えなかったからという事情のなせるわざだったかもしれない。毎日顔を合わせていたら、まだ小学校低学年の娘が聴き取れないほどの早口で繰り出す、妙に大人びた内容の話を常にじっくり聞く気にはなれなかっただろう。

 ともあれ、史奈がそんな風だったので、百合香との関係も、かなり風変わりなものとなった。
 百合香は史奈の頭のよさを称賛すると同時に、どことなく遠慮するような態度をとるようになった。母親の涼子も最近は、何を考えているかわからない子、というイメージができてしまったのか、ときとして、腫れ物に触るような接し方をするようになった。
 史奈は史奈で、百合香の容姿や、音楽の才能にコンプレックスを抱き続けていたが、百合香に勉強で優位に立つことは、そのコンプレックスを解消はしないまでも、忘れさせた。史奈が百合香に傲慢な態度に出ることは決してなかったものの、心のどこかでは、百合香に対して優位な感情を抱くようにさえなっていた。
 悠太を百合香にくっつけようと画策したのも、百合香のことを思ってのことだが、高校生になってさらに美しさを増した百合香を、自分の思い通りにコントロールしたいという欲求にかられたのも理由のひとつだったかもしれない。
 今は百合香には悠太がついているのだし、同居までしているのだから、任せてしまえばいいと頭の中では思う。でも、これからも自分はずっと百合香を気にしないではいられないのではないかという気がしている。
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