【三月】***Waters of March***

文字数 15,993文字

 下宿はガランとしていた。皆受験で各地へ散っており、下宿を拠点にしていたのは私と神港大を第一志望にしている山田君の二人だけだった。そんな私たちにおかみさんの美沙子さんは連日食事を提供してくれた。私たちは食事の時間こそ言葉を交わしたが、それ以外はそれぞれの部屋で最後の悪あがきを続けていた。私はといえば、東京での二週間は必要な時間ではあったが、その間数学はほとんど手付かず状態になっていた。その空白を埋め、慣れを取り戻すことが今は何よりも必要だった。

 そんな私の元に西北大政経学部の合否を知らせる電報が届いた。「サクラサク」 私は一瞬目を疑った。あの半分白紙の解答用紙で合格できるなどとは全く想定外だった。国語と英語の成績が余程良かったのか?そんなことはなかろう。西北大といえどそこは私立、入学辞退者を見越して多めに合格させているのだろう。私は補欠合格の網に何とか引っ掛かったのだ。そう思った。しかし何であろうと構わなかった。合格は合格だ。

 あっという間に京洛大の入試日が迫って来た。私は試験の前日、試験会場の下見に本部キャンパスを訪れた。今出川通りを東に進み、鴨川を渡って東大路通りの交差点を南に下るとそこはもう大学キャンパスだった。そして東一条通りを曲がってしばらくすると正門があり、有名な時計台が見えてきた。私が受験する経済学部の試験会場はその時計台のすぐ裏手だった。ルートと交通手段、所要時間を確認して下見を終えると、私は近くの吉田神社に詣で合格を祈願し、絵馬を奉納した。

 下宿に戻ると電報が届いていた。西北大の法学部と慶明大の法学部の結果だった。それはどちらも「サクラサク」 合格だった。第二志望ともいえる西北大の政経学部に合格し、来年の進路が確保されたことで私はかなりホッとしていた。それと共にこうして受験した私立大学の全てが合格だったという事実は少なからず自信となった。しかし合格したのはどこも理数系が受験科目にない大学ばかりだった。京洛大はそうは簡単にいかない。どんなときだって最後の最後が一番苦しいのだ。

 そしていよいよその日がやってきた。三月の三日、四日と京洛大の入試はトラブルもなく淡々と進んだ。どの教科も手も足も出ないということはなかった。苦手の数学も全問解答欄は埋め切った。今持っている力は出し尽くしたと感じた。試験が終わった日の京都新聞の夕刊に問題と正答例が載った。私は記憶を頼りに自己採点した。国語や英語はなかなかいい感じだ。生物はそこそこ、世界史は想像以上にいけたかもしれない。そして数学。自分にしては上出来というのが正直な手応えだった。「これはいけたかもしれない」 私は苦手の数学の出来が想像以上に良かったことから合格を確信した。

 合格発表はまだまだ先だったが、気が付くと私は毎日のように新聞の賃貸情報欄をじっくりと眺めていた。私はすっかりその気になり、四月から暮らすアパートの下調べを始めていた。

 そして三月十二日の合格発表。私は今回の受験で初めて合格発表を見にキャンパスへと向かった。合格者は各学部の掲示板に貼り出されるという。私は真っ直ぐ経済学部の建物へと向かった。定刻となったが掲示板には何も無い。私は掲示板前の植込みの傍で独りそのときを待った。他の学部では既に発表が行われたのだろう、あちこちから歓声が聞こえてくる。そうこうするうち雪がチラホラ降ってきた。

 そのとき係員が大きな巻紙を抱えて登場し、それを掲示板に貼り出し始めた。その巻紙には筆字で五十音順に合格者名と受験番号が書かれていた。昨年の東帝大の合格発表はプリンターで印字された受験番号だけが掲示されるという、味も素っ気もないものだった。それに比べて一人一人の合格者名を筆字で書いてくれる。これが京洛大の伝統なのだろうか。私はそこに受験者を労うかのような大学側の誠意を感じた。真っ白の紙にくっきりと浮かび上がる墨の文字、それをチラホラと舞う雪が時折目隠しする。入試の合格発表ですらも、それは情緒溢れるまさしく京都そのものだった。

 「あ」から始まり、貼り出しが進むにつれ次が少しずつ見えてくる。いよいよ「か」だ。しかしそこに私の名前ははなかった。私は間違いではないかと何度も見直した。見間違えではなかった。ダメだった。『何故だ』 私は心の中で叫んだ。『あれだけ正答してたじゃないか』 しかし厳然たる現実はどうすることもできなかった。今回はさすがに落胆した。描いていた将来のイメージがガラガラと崩れていく。しかし私に立ち止まっている余裕は無かった。                


 下宿に戻る道すがら私はずっと考えていた。『私が数学でそこそこ正解できたということは、他の受験生もそうだったということか?』『今回の試験は難易度が低かったから高得点での争いになったのか?』『定員が少ない経済学部に受験生が集中したのか?』しかしそんな疑問はどれも私が知りようもないことばかりだった。

 下宿に戻ってもしばらくは放心状態で、私は部屋の壁をただボンヤリと眺めているだけだった。悔しいという感情とはちょっと違っていた。これまでの短い人生ではあったが、私は自分の望みは最終的には実現させてきた。それは私の『最後には必ず何とかなる』という自信となり、それだけを頼りにここまでやってきた。それは「運」というものだったのかもしれないが、それが今回を機に消え失せてしまったような感じがした。それが寂しかった。

『これからはこれまでのようにはいかないのだ』 未来は急に重たくなった。

 どれくらい時間が経ったか分からなかったが、私は徐々に現実を受け容れ始めた。今度は身体を動かす番だ。先ずは両親に結果を報告しなくてはならない。私は重い足取りで電話ボックスに向かった。親に報告すると、「残念だが仕方ない。今後のことを相談するからすぐ帰ってこい」という。私はそそくさと荷物をまとめ、翌日北海道へと戻った。

    §

 江別の実家には合格した大学から入学手続きに関する郵便物が届いてた。私の気持ちは既に固まっていた。私は両親に西北大の政経学部に行きたいと申し出た。それは決して心躍る進路ではなかったが、私に他の選択肢はなかった。

 両親も同じ気持ちだったようだが、ネックはまさしくカネの問題だった。授業料を払って更に生活費の仕送りとなると、今の我が家にとっては相当の負担だった。西北大に進むのであれば、生活費の一部は自分で稼ぎ出す必要があった。こうしてアルバイトをするという条件付きで、私の進路は西北大の政経学部に決まった。

 京洛大に進み京都の街で暮らすことしか考えていなかった私にとって、東京暮らしは決して良いイメージではなかった。良いどころか、それは憂鬱そのものだった。その理由の一つはまりあのことだった。まりあが住んでいる東京、その同じ空の下で暮らすのは正直気分の良いものではなかった。そしてもう一つ。あの受験の時に感じたことだ。『東京暮らしではカネが無いと惨めだろうな』 それが現実となるのだ。

 東京には高校時代の同級生の築田君や沢口君も暮らしていたが、どちらも医者の家庭で裕福だった。それぞれの住まいも賃貸ではなく自己所有の豪華なマンションだ。もちろん篠宮君もそうだ。それに比べて私のこれからの暮らしはせいぜいが安アパート。否が応でも経済格差を感じないわけにはいかない。私の惨めさはもうスタートしていた。これまでのような対等な意識で付き合うのは難しくなるかもしれない。もちろん彼らには何の非も無い。そうなったとすれば、それは偏に私の僻みが原因だ。だが無理して惨めさに付き合う必要もない。全てはその時の自分の心次第。変なプライドで苦しくなるのなら逃げれば良い。自分の境遇に見合った友達も新しくできるだろう。私はそう割り切ることにした。                                 

 進学先が決まって次は入学手続き、新しい住まい探し、そして京都の下宿の引越し作業をどうするかだった。母親の体調不良もあり、今回は親父が一週間ほど休みを取ってその作業を手伝ってくれることになった。実は西北大合格の連絡を受けた段階で、親父は休暇の件を会社に申し出ていたという。

 次は宿探しだった。京都はとりあえず下宿に寝泊りできるから良いとして、東京ではどこか宿泊先を探さなければいけなかった。時間も無かったので、私は東京の情報に詳しい沢口君の力を借りようと早速電話してみた。事情を話すと、自分のマンションの部屋が一つ空いているから、ここに泊れば良いという嬉しい返事だった。客用の布団もあるし、寝るだけならここで充分だろうという。私はその好意に甘えることにした。

 出発に先立って、母親から東京の行雄叔父にも会っておくようきつく言い渡された。私の進路については叔父さんも心配してくれていたので、結果を自分の口でちゃんと報告せよということだった。上京の予定は母親から連絡しておくので、向こうで暇ができたら忘れずに連絡するようにと念を押された。こうして実家でゆっくりする間もなく、親父と私は連れ立って東京へと飛んだ。
                                                        
 羽田空港に到着したのはちょうど昼時だった。私たちは先ず西北大に行き、入学金を支払い入学手続きを済ませた。次は住む処だ。しかしそこはマンモス大学、学校側は紹介など一切してくれない。事務員から学生生協が紹介しているとの話を聞いて、私たちはキャンパス内の学生生協へ向かった。確かにそこには賃貸物件の情報がたくさん張り出されており、その前は山ほどの新入生で溢れていた。。生協の係員に相談するなどという贅沢は許されなかった。自分で見つけて希望先が決まったら、紹介状を書いてもらって直接大家と交渉するという段取りのようだ。

 ざっと見渡したところ家賃はピンキリだった。親父と相談して出したラインは上限で月三万五千円。私はあまり長時間電車に乗るのは嫌だった。できることなら大学の近く、それが無理なら高田馬場周辺、それも無理なら一駅外側というように範囲を広げていった。私も親父も東京の地理など良く分からなかったが、幸い物件情報は鉄道沿線毎に分けられて表示されていた。大学周辺で想定家賃内に収まるアパートはほとんどが共同トイレの物件だった。それは避けたい。高田馬場周辺は逆に設備は良いが家賃オーバーだ。山手線沿線はどうにも無理そうだ。

 私は私鉄沿線に視線を向けた。高田馬場に乗り入れている西武新宿線なら利便性は高そうだ。しかし条件に見合う物件はなかなか無い。そのときたまたま西武池袋線一駅目という文字が目に入った。ここから西武池袋線というと、山の手線で二駅、乗り換えて一駅、合計三駅。距離的には充分希望の範囲内だ。家賃は三万五千円、風呂なしトイレ付の物件だった。「これだ。」 全ては早いもの勝ち。ゆっくり吟味している余裕は無かった。私は急いでその物件案内を掲示板から剥がし、係員のところに持って行った。

 数分後、親父と私は紹介状を持って物件に向かっていた。私は事前に親父に相談しなかったことを詫びたが、親父は「家賃も範囲内だし、あとは物件次第だな。」と気にするふうでもなかった。西武池袋線の一駅目は椎名町という駅だった。大都会の池袋からわずか一駅にもかかわらず、さすが私鉄沿線、街の雰囲気はガラっと変わっていた。駅のすぐ前にはこんもりとした神社があった。大きな建物はほとんど無い。道路は狭く住居や店舗が僅かな隙間をも惜しむようにくっつき合って建ち並んでいた。

 生協の係員から渡された簡単な地図を頼りに物件を探した。線路にほぼ並行に走る二本目の道路を真っ直ぐ行った突き当りが目的のアパートだった。そのすぐ裏手には小学校がある。私たちは電柱に貼られた住居表示を確認しながら進んだ。それにしても狭い道だ。北海道ではちょっと考えられない。その道路の駅に近い半分ほどは商店街だった。その先の住宅街の信号もない細い道路を真っ直ぐ進むと突き当りに建物が見えてきた。どうやらアパートのようだ。左手奥には小学校が見える。おそらくここで間違いない。

 それは木造二階建て、鉄製の外階段が付いた典型的なアパートだった。私が借りようとしている物件はその二階の一室だった。もらった地図によると、大家さんの住居はこのアパートの右手奥の一軒家だ。私は門の木戸を開け呼び鈴を押した。玄関ドアを開けて姿を現したのは四十年配の女性で、大家さんの奥さんだった。私は自己紹介し紹介状を手渡した。奥さんは親父の顔を見て、「おめでとうございます。急に色々やらなくてはいけなくてご両親は大変ですよね。ご苦労様です。」と頭を下げた。変に媚びたり偉ぶることも無いその人柄に私は好感を持った。

 早速物件に案内された。今回貸し出しているのは二棟あるアパートの南側、ちょうど道路の突き当りに面した棟の二階の角部屋だった。玄関ドアを開けるとそこはすぐ小さなキッチンで、右手にトイレがあった。硝子戸の引き戸の向こうは六畳の和室だった。ごくごく一般的な土壁造りで、一間分の天袋付きの押入れがあり、窓は東の道路側と南側の二か所にあった。窓はキッチンにもあり、日当たりも風通しも申し分なかった。部屋自体はそんなに古びた感じもなく清潔だった。風呂は銭湯となるが、残念なことに二か所ともそこそこ距離があるというのが難点といえば難点だった。しかし私はこの部屋が気に入った。駅から徒歩十五分ほどかかるが、ずっと商店街でもありそんなに苦にはならない。私はここに決めた。親父に耳打ちすると、「いいんじゃないか。」と頷いた。

 大家さんの家に戻って契約書に署名捺印した。もちろん親父が保証人だ。契約は四月一日からとなるが、引越し等含めて今月から使っても構わないという。親父が敷金・礼金・前家賃を支払い契約が成立した。さあここがこれからの私の居場所、いよいよ新しい生活の始まりだ。

 想像以上にうまく事が運んだが、手続きを済ませるとさすがに日も傾いてきた。椎名町の駅へと向かう道すがら、私はこの近辺に電話ボックスが一切ないことに気が付いた。これは困る。何か緊急に連絡が必要になったときどうしようもない。私は親父に部屋に電話を引いてもらうよう頼んだ。親父もその必要性を理解してくれたようで、明日電電公社に申し込みに行くことで合意した。駅前から沢口君に電話を入れてこれから向かうと伝え、私たちは新宿を目指した。        

 沢口君のマンションは新宿から京王線に乗り換えて二駅目の幡ヶ谷にあった。駅前から再び電話を入れて迎えにきてもらい、三人で商店街をブラブラと歩いた。街はもうとっぷりと暮れかかっていた。マンションに到着すると、私は一晩世話になると頭を下げた。そしてお礼の意味も込めて、今夜は一緒に少し豪華な食事をしようと申し出た。沢口君はニコニコと笑って素直に受けてくれた。私は電話を借りて行雄叔父の自宅に架電した。孝子叔母さんが出た。私が今の居場所と連絡先を告げると、まだ役所にいる叔父さんに折り返し電話を入れさせるという。私は礼を言って通話を終えた。

 親父を交え三人でお喋りしていると電話が鳴った。沢口君が出るとそれは行雄叔父からだった。私が代わると「今晩祝杯をあげよう」という。叔父さんは有無を言わさず八時に幡ヶ谷駅の改札口での待ち合わせを決めた。そして約束の時間に少し遅れて行雄叔父がやってきた。こうして会うのは何年ぶりだろう。笑ったその顔は何も変わっていなかったが、少し痩せたような感じもした。  

 行雄叔父、親父、沢口君そして私の四人は商店街の片隅にあった大衆割烹の暖簾をくぐった。小上がり席のテーブルを囲み、鍋をつつきながらのささやかな祝宴となった。

「おい涼、やっと東京に来たな。おめでとう。」
 叔父さんのその一言が乾杯の音頭だった。

「まあ、京洛大は残念だった。でも誰も知り合いがいない京都より東京の方が良かったんじゃ
 ないか。」
 まあそれはそうだが、それが困ったことになる場合もある。私は苦笑いした。
「東京暮らしとなって一番シンドイのは親父かもしれないけど。」
 私が呟くと
「確かにそれはそうだ。義兄さん、まだまだ脛は自由にならないね。ハハハ。」
 叔父さんの豪快な笑い声につられて誰もが声を出して笑った。

 実はこの行雄叔父はなかなかの腕白坊主で苦労人だった。母方の兄弟なのだが、六人兄弟の末っ子だった。私の母は五番目で一番歳が近かったこともあり、私は小さいころからこの叔父の話を聞かされてきた。樺太で過ごした子供時代には、正月に切り餅を垂直に立てて腕にずらっと並べ、それを全部食べ切ったという逸話が残っていた。終戦直後はちょうど血気盛んな若者で、ポツダム宣言を無視して南樺太に侵攻してきたソ連軍から日本人を守る防衛団の一員として北緯五十度の国境で戦ったという。

 北海道に引き揚げてきてからは一時名寄の小学校の代用教員をし、その後単身東京に出て、苦学しながら正中大の法科を卒業、東京都庁の役人となっていた。ソ連軍と戦ったこんな叔父がその後バリバリのマルキストになるとは誰が想像しただろう。数年前に法事で北海道に来たとき、中学生の私にいきなり「おい涼、お前もう共産党宣言は読んだか?」と言ってきた。読んでいなかった私は悔しくて、その後すぐに本屋に向かったものだ。私が思想とか哲学に関心を持つようになったのは、実はこの叔父の影響があったのかもしれない。

 沢口君が慶明大の法科に通っていると自己紹介すると、

「いやあ、札幌城南ってすごい優秀なんだな。噂には聞いていたけど。」
 そう言うと熱燗をぐいと飲み干し、
「するってえと何かい?この中じゃ俺が出た正中大が一番下じゃねえか。」
 そう悪戯っぽく言うと、また豪快に笑い飛ばした。そして親父の耳元に顔を寄せると
「義兄さん、ほんと良かったな。俺も立派な甥っ子をもって嬉しいよ。」
 と小さく囁いた。内緒話のつもりだったのだろうが、その言葉は私の耳にも届いた。私は自分がどう思うかは別として、母方の家系である小森家の一族にとっては期待の星だったようだ。

 二時間ほど大いに飲み、喋って行雄叔父さんは上機嫌で帰って行った。その後姿を私はしばらく黙って見送った。

    §

 翌日、沢口君に泊めてもらった御礼を言って、親父と私はマンションを後にした。そして一番に向かったのは池袋の電電公社の営業所だった。電話設置の申し込みをし、工事の日程も決まった。これで東京での第一段階の仕事は終わった。次は京都だ。山の手線を東京駅で降りるとちょうど昼時だったが、昼飯は車内販売の鰻弁当にすることにして二人は新幹線に乗り込んだ。      

 京都駅に到着すると、その足で駅の近くにある日通の営業所へと向かった。引越しの段取りをつけることが京都での最大の優先事項だった。混載便ならば、明後日に引き取りその夜の深夜トラックに載せることができるという。東京への到着はその翌日だ。この時期願ってもない話だった。こうして明後日の午前中に荷物を出すことが決まった。時刻はまだ四時を回ったところ。確か親父は初めての京都だった。私は少しだけ親父に観光してもらい、晩飯を済ませてから下宿へ戻ることにした。

 ただその前に一つ大事な連絡があった。下宿は今は誰もおらず玄関の鍵がかかっている可能性大だった。私は今晩親父と部屋に泊る旨、おかみさんの美沙子さんに電話した。これで鍵の問題は解決した。

 さあこれからは観光モードだ。私は京都駅から一番近い東本願寺を見学することにした。東本願寺といえば親鸞聖人の興した浄土真宗大谷派の総本山だ。境内に入ると、真っ先に巨大かつ二層の瓦屋根が美しい御影堂が目に飛び込んできた。木造建築物では世界最大級の大きさだという。この建物を見ただけで十分来た甲斐があった。急ぎ参拝すると私たちはタクシーに乗り込み次の目的地の知恩院を目指した。

 こちらは法然の廟堂であり浄土宗の総本山だ。東山を背景に立つ国宝の三門は威風堂々としており、優美さの中にも圧倒的な迫力があった。知恩院といえば、私たちにはNHKの「ゆく年、くる年」の除夜の鐘が真っ先に思い浮かぶ。ここに来たのもその実物を見ることが目的だった。重量七十トンもの釣鐘の大きさは私たちの想像を遥かに超えていた。                    

 すっかり日も暮れてきて、これ以上の寺社見物はもう無理だった。私たちは知恩院からブラブラと南へ歩いた。円山公園を過ぎ、八坂神社の裏手から境内へと出た。夕闇の中に朱塗りの本殿が浮かび、舞殿に飾られた無数の提灯には明かりが灯っていた。夜の八坂神社もなかなか味わい深かった。いつもとは逆のコースで西楼門を抜けると眼下は祇園の街で、ある意味夜の京都を代表する景色だった。

 せっかくなら京都らしい場所で食事にしようと、私は花見小路にある料理屋「十二段屋」に向かった。しかしメニューを見てその値段に驚いた。一瞬『しまった』と思ったが、親父に恥はかかせたくない。「しゃぶしゃぶ」や「すきやき」には手が出せなかったが、その中に手頃な値段のコースを見つけた。これなら身体も温まるし丁度良い。

 二人は「うどんすき」をつつきながらビールで乾杯した。

「東京でのアパート探しといい、引越しといい、今回は結構ツキに恵まれたよね。」
 これまでのドタバタを振り返りつつ私がそう言うと
「そのツキが京洛大の入試のときだったらもっと良かったんだけどな。」
 と親爺は笑った。
「直前に吉田神社に合格祈願をしたのがいけなかったのかな?」
 私は考えることも無く、そう口にしていた。
「吉田神社って京洛大と何か関係あるのか?」
「そうなんじゃないかな。そう言えば、去年も東帝大の受験前に湯島天神にお詣りしたなあ。」
「ほう、そうだったのか。」
「しかし何か変な話だよね。去年といい今年といい、合格祈願した大学に限って不合格になる
 んだもんな。」
 確かに今年の私立大学の受験のときは、一切神頼みはしていなかった。
「誰に聞いたんだっけかな。神様にお詣りするときは感謝するだけにしとけって。」
 そう言うと親父はビールを飲み干した。私は空になったグラスにビールを注いだ。
「それなら神社も祈願の絵馬なんか売らないで欲しいよな。誰だって普通ご利益を期待しちゃ
 うだろう。」
 私が不服そうに言うと
「まあ神社も商売だからな。ご利益あるって宣伝しないと商売あがったりだろう。」
 親父は自分のその言葉を面白がって笑った。私もつられて笑った。

 食事を済ませた二人は下宿へと向かった。時刻はもう九時を回っていた。約束どおり玄関の鍵は開いていた。私は親父を二階の自室へ案内した。襖をあけるとベッドの上に布団が一組置かれていた。添えられた手紙には、『この季節の京都はまだ冷えるので、これを使ってください。』とあった。美沙子さんの心配りだった。その優しさに感謝して、私は有難く好意に甘えることにした。

 翌日は親父と共に、真っ先に美沙子さんに布団の礼を言いに行った。そして受験の結果を報告し、明日ここを引き払う予定であることを告げた。親父はこの一年間お世話になったことに礼を述べ、深々と頭を下げた。私もそれに倣った。美沙子さんは、少し涙ぐんでいた。そして「これまで沢山予備校生を受け入れてきたが、今年のメンバーはみんなユニークで、人柄も良くて、最高に楽しかった。」と言ってくれた。そして私に「東京でもおきばりやす」と声をかけてくれた。合格発表後ドタバタ続きであまり感じてはいなかったのだが、いよいよ京都を離れるのだという実感がここに来てグッと迫ってきた。それはやはり淋しいものだった。

    §

 この日は予備校に受験結果を報告し、その後は荷造りだ。二人で市電に乗り堀川丸太町に向かった。受験結果の用紙を窓口の事務員に提出すると、「はいご苦労様。」全くドライなものだ。一礼してお世話になった予備校を後にすると、せっかくだからと私はすぐ南にある二条城に親父を案内した。そして近くの食堂で昼食を摂り下宿へと戻った。途中の雑貨屋で荷造り用の紐や荷札やらを買い、不要の段ボール箱をもらってきた。

 荷造りといっても六畳一間、そんなに大仕事ではなかった。二人がかりで大物のベッドを分解すると、部品をまとめる作業は親父に任せ、私はオーディオ関係の始末をした。親父はどこで覚えたのかしらないが、紐を結ぶことにかけては専門家はだしだった。ゆっくりと作業を進めたが、一つ一つと段ボールの箱が増えていき、部屋の中は机と箪笥と炬燵、そして布団一組が残るだけとなった。家具類は明日業者が梱包してくれることになっていた。気が付くと部屋は薄暗く、そろそろ夕暮れ時だった。京都最後の夜、私は親父を木屋町へと連れ出した。               

 私が最後に向かった先はあの「楽」だった。ドアを開けると、いつもと何も変わらず大将はカウンターの中だった。

「いらっしゃい。」
 下を向いて作業したままそう言った大将の声は、懐かしいまでにぶっきら棒だった。

「お久しぶりです。」
 私はそう言うと、続いて入ってきた親父を紹介した。

「親父です。こちらは大将。ずいぶんお世話になったんだ。」
 親父は深々と頭を下げた。

「これはこれは、こんな汚い店にようこそ。」
 大将も柄にも無く深くお辞儀をした。こんな姿を見たのは初めてだった。今日も客はまだ誰も入っていなかった。私たちはカウンターの隅の席に腰を下ろした。

「大将。今日はお礼とお別れを言いにきました。」
 私はそう切り出した。
「そうか。京洛大は見事に散ったか。」
 茶化した言葉とは裏腹に大将の顔は真顔だった。

「はい。ダメでした。それで京洛大はもう諦めることにして、東京の西北大に行くことにしま
 した。いい歳してみっともないんですけど、入学手続きやら新しく住む処の手続きに親父の
 力を借りることになって。それで、いよいよ明日京都の下宿を引き払うんです。その荷造り
 も終わって。京都最後の夜はここで飯を食いたくて、親父を連れてきちゃいました。」
「そうだったかあ。東京行っちゃうかあ。そうかあ。あ、飲み物はビールでいいか?」
「はい。大将も一緒に乾杯してください。」

 私がそう言うと、大将はビールを一本抜きコップをカウンターに置いた。そして親父から先にビールを注いだ。私はそのビール瓶を横取りして大将のコップに酌をした。

「おめでとう。若者の大いなる挑戦に。乾杯!」

 大将の音頭で三人はコップを高く掲げた。大将はいつものように一気に飲み干した。その姿に親父はビックリしたのか、口元に運んだコップがそこで止まっていた。ここなら財布の中身を気にすることなく肉が食べられる。私はいつものホルモンではなく、上等のカルビやタンを注文した。私はこの店に初めてきたときの経緯や、下宿仲間にとってこの店がどれほど大切な場所だったかを親父に説明した。その都度大将は笑いながら茶々を入れてきた。

 腹も膨らんだ頃、大将が少し改まった表情で話しかけてきた。

「しかし人生ってのは、自分が思ったようにはなかなかいかんよな。」
 私は大将の顔を見上げた。
「今はどんな気持ちなんだ?新しい門出にワクワクしてるのか?それとも京洛大に落ちた
 ことを悔んでるのか?」
 なかなかキツイことを訊いてくる。
「どちらかと言えば、京都を離れるのを残念に思ってるかな。正直、東京での暮らしに心躍っ
 てはいないです。」
「そうかあ。まあ、そうだよな。でもな、前にも言ったかもしれないけど、人生なんて何が良
 くて何が悪いかなんて、先に進んでみないとわかんないもんだぜ。」
「それはそうかもしれないですけど、今回の入試はかなり手応えあったんですよね。吉田神社
 にもしっかりお詣りもしたし。自分じゃ『やった』って思ってた分、去年なんかとは比べ物
 にならないほど無念で。」
「他の大学はどうだったんだ?」
「他の私立は一応全部合格だったんです。ただ今回行くことになった西北大の政経は、自分じ
 ゃ正直落ちたって思ったんです。それが合格だったのにはビックリしました。」
「ほう。面白いもんだな。自分じゃダメだって思ったところは合格して、やったと思ったとこ
 ろが不合格だったか。自分もあんまりアテにならんな。ははは。」
「本当にそうですよね。」
「だけどよ、それが縁ってやつなのかもしらんぞ。人間なんて自分の意思で人生を選択してる
 気になってるかもしれないけど、まあ、どうでもいい選択は別として、本当に大事な分かれ
 道に立たされたときは、ひょっとすると何か大きな力に突き動かされてるのかもしれん。な
 んて思ったりするんだな、俺は。」

「いやあ、おっしゃるとおりです。私もそう思うことありますよ。」
 親父が会話に加わった。

「そうですか、そうですよねえ。我が意を得たりって感じで嬉しいですわ。」
 そう言うと大将は手酌でビールを注ぐと、また一気にコップを空にした。

「きっと吉田神社の神様は一番いい道に進ませてくれたんだよ。合格させてあげるより、不合
 格にするほうがお前さんの為になるって。だから神様を恨むなよ。ははは。」
「神頼みした自分が情けなかっただけの話で、それはいいんですけど、東京暮らしは京都と違
 って大変そうで、それが心配というか、少し自信が無いというか。」
「確かに相手は大都会だ。都会の人間は冷たいって言うしな。どうする?」
「大将、そんな脅かさないでくださいよ。」
「ははは、大丈夫だって。心配ないよ。そういう縁があったってことは、厳しいかもしれない
 けど、ちゃんとやっていけるって神様か誰かが保証してくれたようなもんだろ。」
「そうなんでしょうかね?」
 私はボソボソと呟くとビールを一口飲んだ。

「ね、お父さん、そうですよね。『神様は担げるだけの荷物しか背負わせない』って言います
 もんね。」
「あ、はい。決して楽な道じゃないかもしれないけど、こいつなら何とか乗り切れるんじゃな
 いかって、私も期待はしてるんですけど。」
 親父はそう言った。

「おっ、出ました『楽』。『らく』とも読むし、『たのしい』とも読む。そうだ、お前さんは
 西北大で何か楽しみにしてることは無いのかい?」
「実は俺、高校時代ジャズのバンドでピアノを弾いてたんですけど、大学に入ったらまたジャ
 ズをやりたいなとは思ってるんです。」
 自然とそんな言葉が口からこぼれた。

「お、いいねえ。ジャズかあ。ジャズといえば西北大は学生ジャズでは日本屈指なんじゃない
 か?うん、確かそうだ。名前を良く聞く。おいおい、何か見えてきたんじゃないのか?」

 確かにそうだ。西北大は学生ジャズのメッカだった。しかし京洛大にはジャズを演奏するようなサークルがあるかどうかもわからなかった。少なくともこの点に関しては西北大は京洛大を大きくリードしていた。

「はい、ジャズがまたやれるかと思ったら、ちょっとワクワクしてきました。」
「人生は長いようで短い。だったらクヨクヨするよりワクワクしたいもんだよな。」
 そう言うと、大将は三人のコップにビールを注ぎ、私と親父、それぞれとコップを合わせた。

「いずれにせよ、お前さんの前途は洋々。思いっきり暴れてこい。」

 大将は満面の笑顔で私を送り出してくれた。

    §

 店を後にした親父と私は高瀬川沿いを三条に向かって歩き始めた。川沿いに植えられた桜はほぼ満開。それは見事なものだった。夜陰に浮かび上がる桜と提灯の灯りが溶け合って、得も言われぬ情緒が辺りを満たしている。夜桜見物の人なのだろうか、木屋町通りはいつもより賑わっていた。

「なかなかの人物だったな、あの大将。」
 肩を並べて歩きながら親父がポツリと呟いた。
「うん。大将には学校では教えてもらえないようなことを色々教えてもらった。」
「あの店はお前にとってはもう一つの予備校だったってことだな。」
「ああ、人生の予備校だった。間違いない。」
「京都に出てきて本当に良かったな。」
 親父はしみじみと呟いた。
「それにしても良く頑張ったな。京洛大に落ちたのは残念だったけど、西北大だったら立派な
 もんだ。俺には出来過ぎの自慢の息子だよ。」
 そう言うと私の肩をポンと叩いた。

 しかし私は二年続けて目標を達成できなかったことにまだ拘っていた。自分の力だけではどうにもならないことは別として、自分の力で真正面から勝負して負けた。それはある意味初めての挫折だった。自分の能力はここまでで、それを凌駕する人間が他に山ほどいると思い知らされるのは気分のいいものではなかった。『所詮自分は二流止まりなのか』 嫌な言葉だが、その思いはなかなか頭を去ってくれなかった。

「しかし分からんもんだなあ。北海道の水呑百姓の出で、義務教育しか受けてない俺が京洛大
 だとか西北大だとか普通に話してるんだからなあ。若い頃には想像すら出来なかったよ。」
『だから親父、京洛大と西北大は同じじゃないんだって。格が一つ二つ違うんだ。』
 私は心の中でそう呟いた。

 そんな私の気分にはお構いなしに親父の話は続いた。

「お前は昔から一人で人生を切り開こうといろいろ挑戦してきたよなあ。俺がこんなだから何
 もしてやれないし、自分で何とかするしか無かったんだろうけどな。それでも背伸びし過ぎ
 じゃないかとずっとハラハラしながら見てきたんだぞ。何せ俺の息子だしな。正直そこまで
 の能力があるとも思えなかったんだ。だけどお前はその都度何とかしてきたよなあ。それだ
 けでも大したもんだ。」

 その褒め言葉も私の耳にはなかなか素直に入ってこなかった。

「そうかあ、ちょうどお前くらいの年の頃には俺は中国に行ってたのか。あの頃の俺も若くて
 血気盛んだったな。お国のためっていう気持ちもあったけど、家も貧乏でまともな仕事もな
 くて。兵隊になるのが一番いいように思ったんだよなあ。」
 親父は懐かしそうに語り始めた。

「でも考えてみれば、あれは自分で選んだ道というより、それしか残されていなかったのかも
 しれんな。形ばかりの訓練を受けたかと思ったら、有無を言わせず貨物船に押し込まれて、
 さんざん船酔いして着いたのが大連だった。それからはずっと北支だったけど、見たのは戦
 場だけだった。いいもんじゃなかった。」

 確かに親父は昔から戦争のことをあまり話したがらなかった。

「親父の若い頃はあの戦争で、好きなことをやる自由なんてなかったよね。」
「まあ、そういう時代だったんだ。そもそも戦争の前から家は貧しくて、進む道なんて限られ
 ていたけど、戦争が終わってからがひどかった。喰っていくことで精一杯。ほんとに貧しく
 てなあ。でもそれは決して恥ずかしいことじゃなかった。周りもみんな貧しかったからな。
 もっとも一部の高貴な家は別だろうが。だからあのときの夢はとにかく明日の飯の心配をし
 ないで済む暮らしがしたいってことだった。」
「親父の叔父さんがブラジルに渡ったのもそんなときだったの?」
「いや、それは戦争が始まる前だ。」
「それはやっぱり夢というより、喰うため?」
「そりゃあそうだよ。富美夫叔父も忠夫叔父も喰うに困って新天地に賭けたんだ。」
「親父もそうしようとは思わなかったの?」
「それはなかったかなあ。兄貴が戦死して今度は家を継ぐ立場になってたしな。これでも一応
 柏木の本家で、爺さんも婆さんもいたし。」
「そうかあ。」
「百姓をやるには土地も狭いし、それじゃとてもじゃないが喰っていけなかった。それで江別
 の造り酒屋の臨時雇いなんかもやったな。そんなとき発電所の事務員募集があって、それに
 応募したらたまたま受かったんだ。月給取りになるのが俺の憧れだった。嬉しかったよ。こ
 れで生活していけるってな。」

 独白は続いた。

「それからはずっと算盤片手の経理屋だ。でもこの仕事は嫌じゃないんだ。どっちかというと
 向いていると思ってる。だからきっと今まで続いてるんだろう。そういう仕事に巡り合えた
 ということは、俺も幸運だったのかもしれないな。しかし人間ってのは欲が深いもんで、暮
 らしの目途が立つと別のものが欲しくなるんだよな。江別の発電所もその後北電に統合され
 て大企業になると、モノを言うのが学歴だ。高校も出てない俺はずっと底辺だよ。まあ仕方
 のないことと頭では判っていても、やっぱり悔しくてな。」

 親父の本音を私は初めて聞いた。

「そんな俺にも子供が授かって、これがまた出来が良いときた。お前が小学校の頃から社宅一
 の頭脳って言われては内心喜んでいたもんさ。それで思ったんだ。俺は上の学校には進めな
 かったが、子供がそう願うなら何としても叶えさせてやりたいってな。それがこの国を代表
 するような大学に進むんだ、そりゃあ嬉しいさ。我が事以上にな。」

 さんざん我儘放題をやってきた私だった。小さいころから自分が欲しいものは駄々をこねてでも手に入れてきた。少し大きくなってからは楽器やオーディオだ。それは親父にとって決して楽な買い物ではなかったはずだが、それでも頑張って与えてくれた。その陰にはきっと我慢をしてきたこともたくさんあったのだろう。

 貧しい家庭に生まれ、若い時代は戦争、それからは身を粉にして文句も言わず働きづめだ。傍らを歩く親父の小さな身体を見て私は胸が熱くなってきた。

 私が何とか大学に進めたことを親父はこんなにも喜んでくれている。私は家族のことなど慮ることなく、ただただ自分のやりたい放題で突き進んできただけだった。そんな自分でも少しは親父に恩返しが出来たのかもしれないと思うと、救われるのは私の方だった。『そうだったらいいな』私は素直にそう思っていた。

「やっぱり京都はいい街だな。風情があって。知ってたか?俺が京都に来たのはこれが初めて
 なんだ。こうして京都の街を歩けるのもお前のお蔭だ。ありがとよ。」
 そう言うと、親父は私の顔を見た。
「俺もずっと京都で学生生活を送りたかったんだけど。オヤジすまん。カネがかかる私立に行
 くことになって。」
「まあ何とかなるべ。幸いまだ元気で働けそうだしな。出来ることは何とか頑張ってやるけど
 出来ないことはどう逆立ちしたって出来ない。それだけは覚えておいてくれ。まあ、それは
 それとしてだ、せっかくの学生生活、俺が出来なかった分も思い切り楽しんで、大いに学ん
 でくれや。」                                               

 提灯の灯りしかないほの暗い小道を二人はゆっくりゆっくりと歩いて行った。高瀬川は舞い落ちた桜の花びらを次々と運んでいく。その豊かなせせらぎの音は私の低い嗚咽を優しく隠してくれた。                                          
 
 しばらく進むと車屋橋が見えてきた。今日はあのブルースマンの姿は無かった。しかし私の頭の中ではあのとき聴いたテネシー・ワルツの歌声が蘇ってきた。満開の桜の中に漂うその音色は何とも美しく切なかった。                                  

 もうすぐ三条だ。

「なあ親父、最後にきつねうどんでも喰って帰ろうか。」

 私は笑いながら親父に声を掛けた。

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