【コーダ】***Everyday I Have The Blues***

文字数 4,869文字

 京都での一年間の浪人暮らしは、身分は宙ぶらりん、先の保証が何も無い不安なものだった。ましてや初めての一人暮らし、何もかもが自己責任というおまけまで付いてきた。しかし一方では親の干渉も無く、誰にとやかく言われることもない。何をするにも自分で意思決定できるという自由な時間でもあった。それは私にとって巣立ちのための貴重な準備期間だった。

 この一年間で私は将来自分が何をしたいのかを見極め、それを実現するための進路を明確にするつもりでいた。しかし結果的にそれは果たせなかった。ただ自分の心に正面から向き合って、考えられるだけ考え抜いた。その結論が「現段階では何も決められない」ということだった。それは一見何の進歩もなかったように見えるが決してそうではない。漠然とした「わからない」と、自分を冷静に分析しつくした「わからない」は全くの別物だった。結果としてそれは次の段階の宿題として先送りされることになったが、それは今の自分には時期尚早、もう一回り人間として知識や経験を積んだ上で考えるべきという積極的な意思によるものだった。

 そしてもう一つ明らかになったことがあった。それは私はこの社会のことも、人間のことも実は何も分かっていないということだった。同時に、これは当たり前のことだが、私はまだ何も成し遂げていないどころか、まだ何者でもないということだった。                  


 先送りにした課題は、その後もなかなかクリアできなかった。大学の四年間を費やし、もっともその多くをジャズで明け暮れていたのだが、最後の最後に辿り着いたのが自分が忌み嫌ったカネと権力を求める道だった。実は私は最後まで自分の自由な意思による創造的活動に憧れていた。自分にその天分が無かったとしても、才能ある若者を世に送り出す活動なら出来ると思っていた。その具体像が自分のジャズのレーベルを持つということ、即ち音楽出版の世界で起業するということだった。

 しかしそれは憧れの域を出ることはなかった。実現するためには巨額の資金が必要となるのは当然として、ジャズの世界での豊かな人脈が欠かせなかった。その両方を学生の身で準備することは到底不可能だった。どうしてもやりたいのなら、まずは他の仕事でそのための資金を用意するところから始めなけれなならない。私はその夢を一旦胸に仕舞い込んで、最も高額の給与を得られる道を選んだ。それは金融業だった。しかしそれは、それこそこの世の中の本質を全く理解していない愚か者の選択だった。                                    


 親の世代が戦争に翻弄された世代だとすれば、私たちの世代はカネに翻弄された世代だった。親父が戦争で果たした役割が兵隊だったように、私が金融戦争の中で果たした役割も、実は同じ使い捨ての一兵卒に過ぎなかった。

 まだ二十歳にも満たない頃の私は、青臭くも『カネも社会的地位も何かを成し遂げた結果として得られるものだ』と思っていた。一番大切な「成し遂げる何か」が抜け落ちたままではその先は無いと思い込んでいた。だからこそ私にとっての「成し遂げる何か」を見つけることが何よりも重要なことであり、さんざん悩んできたのだった。

 しかし現実社会はそうではなかった。この国のみならず、世界中が「成し遂げる何か」なんぞはどうでも良く、結果としてのカネこそが最も価値あるものという風潮にどっぷり染まっていた。社会的地位や名声すらも、それだけでは何の価値ももたらさない。それらも結局はより多くのカネを得るためのツールの一つに過ぎなくなっていた。そして時代はバブルの狂乱へと突き進み、そして弾けた。この国の資産の価値はバブル前の三分の一となったが、借金は減ることなく残されたまま。その差額分はより狡賢い誰かさんの懐に転がり込んだという寸法だ。

 この事実一つとっても、この社会の隠されていた本質が如実に見えてくる。そう、『この世界、この社会は、チャンスすら誰にでも平等に与えられているわけではない』ということだ。ましてやカネ儲けに関することなら猶更そういうことだ。

 『カネを持ち権力を持つ者がますます富み栄える』その堅牢な仕組みが既に出来上がっているのだ。いかに『一流大学を出て一流企業に勤める』ことができても、それはやっと中の上の暮らしのための鍵を一つ手にしたに過ぎない。それもあくまでもスタートラインに立っただけの話で、その先の保証などどこにもありゃしない。万が一社長に出世できたとしても所詮雇われ社長、大金持ちの使い走りがせいぜいのところだ。努力という建前では彼らの領地の門は開かない。いくら庶民が頑張ったところでその程度のことだ。

 ドンパチの戦争でも前線で命の遣り取りをするのは庶民であり、金融戦争でも何でも前線で消耗し疲弊し使い捨てにされるのも庶民だ。真の権力者はそれで傷ひとつ負うことは無いし、優雅な生活が乱されることも無い。それがこの世界の本当の姿なのだ。しかし庶民にはずっと建前の世界に居てもらわないと困る。今の世界に不平不満をもつことなく、頑張れば明日は今日よりも良くなる。そう信じてもらわなけらば困るのだ。私たちが子供の頃から教え込まれてきたことは、表面に薄く砂糖をまぶした紛い物であり、それを心の拠り所としてずっと生きてきたということだ。それが真っ赤な嘘っパチとも知らずに。

 学校や親に教えられたことを疑うことを知らなかった私は、この世界の巧妙に隠された真の姿になど気付けるはずもなかった。社会に出たら出たで、努力すればその門が開かれると信じ、常に自分を叱咤激励して一つ上を目指して来た。仕事はもちろん、アフター・ファイヴですらも、他の人より質でも量でも優る必要があった。私という人間の価値を認めてもらう道はそれしか無かった。しかしそれには当然限度があった。私は消耗し疲弊し、終には健康を損なった。

 使い物にならなくなった者には誰も用が無い。妻は子供を連れて私の元を去り、仕事も失った。それまで貯めてきたカネも底をついた。残ったのは命一つと親兄弟の家族だけだった。

「楽」の大将が言った通りだった。

「人生何が良くて、何が悪いかなんて、進んでみなければ誰にもわからない。」 

 最初私はこの国を代表するような一流企業に勤められて運が良かったと思っていた。それが地獄の入り口だなどとは露ほども疑わなかった。

 しかし良く良く考えてみると、何もかも失ったことが全て悪かったかというと、そうとも言い切れないのだ。もしあのまま健康で突き進んでいたら、私はとんでもないモンスターになっていただろう。自分を過信し、他の人を見下し、全てを自分の思うようにしようとしていたはずだ。手段だったはずのカネや権力がいつの間にか目的にすり替わり、私は忌み嫌っていた欲の権化となっていたに違いない。自分の利益のためならば他者の苦しみなどお構いなし、傷つけることさえ厭わなかっただろう。結果として多くのものを失ったが、私は唯一、人間としての健全な魂を失わずに済んだのかもしれない。負け惜しみではないが、これだから人生は面白い。

 もうひとつ気付いたことがある。私たちが当たり前として受け容れているこの建前の世界では、努力すること自体に価値を認めている。努力した結果が必ずしも望んだものとなるかどうかはまた別の話ではあるが、それまでの努力は間違いなくその人の糧となる。もし私が若くしてこの社会の真の姿を知ってしまったら、私はこの人生で一切のチャレンジを放棄していたかもしれない。しかし、それが良いことだとはどうしても思えないのだ。

 なぜなら、建前の世界は、その良し悪しの議論は置いておいて、ある意味人間が理想としている世界でもある。現実社会がその理想とは全く別物だとすれば、それは何者かによって歪められているからだ。その歪みや誤りに無理矢理自分を合わせる必要などない。それはそうだろう。自分の幸福はあくまで自分が決めることなのだ。

 「生きる」ということは極論すれば死ぬまでの暇つぶしかもしれない。しかし「何かを成し遂
げるために奮闘努力した」人間と、「一切の努力を放棄した」人間では同じ死を迎えたときどちらが満足して死んでいけるだろうか。少なくとも私はしなかった後悔だけはしたくない。そういうことだ。                                            


 親父の世代は武器を手にした殺し合いの戦争、私の世代はカネの戦争だった。これも表面はそうは見えないかもしれないが、やはり殺し合いだ。そして子供の世代の今は人間の自由と尊厳の戦争だ。いつの世代も戦争、戦争だ。嫌になる。

 ただ人間の自由と尊厳の戦争はこれまでの戦争の中でも一番性質が悪い。まず私たちに気付かれないよう戦争は忍び寄ってくる。そして気付いたときはもう手遅れだ。私たちは既に自由を奪われている。抵抗すらできない。もう自分の意思などどこにも反映されない。そうなってしまった私たちはまだ人間だと言えるのだろうか?尊厳などという美しい言葉はそこには存在さえしない。

 この戦争に立ち向かう唯一の武器は自分自身だ。高貴な精神を持つ自分自身を信じることだ。野生の本能を持つ自分自身を信じることだ。「何かおかしい」という兆候を見逃さず、自分の頭で徹底的に考えることだ。自分の頭で考えることを放棄したら、そこで負けが確定する。そうなるとどうなる?私たちは誰かの言うことを盲目的に信じ、従うだけの存在になってしまう。それが真実が虚偽かを疑うことさえしない。こうして知らず知らずのうちに、その肉体も精神も誰かにコントロールされる存在に成り下がってしまうのだ。

 「どうせオギャアと生まれた以上いつかは最期がやってくる。考えようが考えまいが、行き着く先は同じだろう。」 そんな一見諦念にも似た反論が聞こえてきそうだ。しかし敢えて言う。それは違う。諦念とは考えに考え抜いた先に辿り着く特殊な心境だ。そんなに安っぽいものではない。そしてもう一つ。問題は同じ死ぬにしてもどういう存在として死んでいくかだ。死とは肉体が滅ぶことだけでは無いと私は思っている。私は最後の最後まで自由な人間として死んでいきたいと願っている。ただそれだけだ。そう思わない人にどうこうしろと言うつもりなどさらさら無い。最後の戦争は究極の個人戦なのだ。



 おっと話が変な方向に逸れてしまった。


 それにしても、人間とは何と哀しいものなんだろう。

 たとえそれが真実ではないと理屈では判っていても、それを否定することはこれまでの自分の人生や生き方を否定することにもなる。そうなると感情が黙っちゃいない。そんなのは嫌だと駄々をこねるし、引っくり返ってしまった価値観にどう対処して良いかもわからない。それはそれは苦しくて堪らない。

 その結果どうなる?多くの人はその苦しみと向き合うことを避け、苦しみから逃れることを選択する。そう、さんざん頭を働かせ真実と判断したことを無かったことにしてしまうのだ。もうそれが真実であろうが嘘であろうがどうでも良い。日々安穏と暮らせれば何の文句も無い。こうして自ら考えることを放棄して嘘の世界で生き続けることを良しとしてしまうのだ。しかしその世界は本当に安穏なのだろうか。その先に待ち受けているものは一体何なのだろうか。                           


 あの頃も、そして今も、結局私は何が正解なのかわからない。
 それでも私は最期のときが来るまで考えることを手放さないでいようと思う。              


 もう一度あの木屋町の桜を見ながらブルースを聴いてみたかったな。

 まあいいか。
 目を閉じれば高瀬川が見えてくる。
 静かに流れるブルースも聴こえてくる。

 いつまでもつか判らないが、
 有難いことに私にはまだそうするだけの自由は残っている。



 完

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