【八月】*** Summertime ***

文字数 13,956文字

 四か月ぶりの我が家は何も変わっていなかった。元気そうな家族の顔を見て私は一安心した。そしてやっぱり北海道の夜は寒いくらいに涼しかった。そのままになっている自分の部屋で私を待っていたものは、しばらく感じたことのなかった安堵感だった。これまでも自分の好き勝手にさせてもらっていたが、初めての一人暮らしから家族の元に戻って、私は自由というものには代償があるということに気付いた。それは全てが自己責任という一種の重荷であり孤独感だった。私は巣に戻った子鳥のように何の憂いも無く爆睡した。

 翌日は母親と連れだって、南村君がお世話になる里村牧場に挨拶に出向いた。久しぶりに会う私の姿に牧場の女主人でもある多香子さんはとても喜んでくれた。幼馴染の寿史君はまだ東京から戻っておらず、そのことを残念がってもいた。南村君の職業体験については、地元の北酪大学から受け入れている研修生と同じように仕事を体験してもらうとのことで、何の心配もいらないと太鼓判を押してくれた。

 家庭教師の件も母親が同じ町内の知人を見つけてくれていた。松山幸恵ちゃんという小学四年生の女の子で、週三回程度勉強とピアノのレッスンで二時間くらい面倒を見て欲しいという。私は喜んで引き受けることにした。こうして私のこの夏一月の過ごし方も決まった。

 八月二日の午後に南村君から千歳空港に着いたという連絡が入った。私は最寄りの国鉄の駅までの乗り継ぎ経路を教え迎えに出る旨を伝えた。二時間ほどして改札から出てきた南村君は少し緊張した面持ちだったが、私の顔を見つけると表情が崩れ、いつもの柔らかい笑顔に戻った。その夜は彼を囲んでの成吉思汗パーティとなった。しかし私がビールを勧めても彼のピッチは上がらない。やはり明日からのことが気に掛かっているようだ。私は少しでも彼の不安を紛らわせようと、いつになくお道化てみせたりもしたが、結局は独り相撲に終わってしまった。まあそれも仕方あるまい。そして翌日の午後、私は南村君を里村牧場まで案内した。多香子さんは笑顔で迎え入れてくれたが、帰り際に見せた南村君の表情は少し淋しそうだった。                   

 私の夏休みは淡々と進んでいった。週に三日松山幸恵ちゃんの家に出向いて一緒に二時間ほど過ごした。幸恵ちゃんは実は軽い知的障害があった。言葉は達者で少しおませなくらいだったが、抽象的な事柄がうまく理解できないようだった。同時に集中力が持続しないという面もあった。最初はどう対処したら良いのかわからなかったが、私はあまり深く考えずたくさんお喋りをするようにした。算数なども単なる数字や数式としてではなく、現実にある物を例にとって説明すると、少しずつではあるが理解してくれるようになっていった。ピアノも二人で声を出して唄いながら練習した。親御さんはどう思っていたか定かではないが、私は勉強にしろピアノにしろ、それは楽しいものなのだと感じてもらいたかった。

 その一方で自分の勉強は相変わらず気分次第だった。毎日自分にノルマを課するようなやり方はどうやっても長続きしなかった。気分が乗らないときは、本棚から坂口安吾の文庫本を取り出して読み返していた。こうして短い北海道の夏はどんどん過ぎていった。

    §

 ある日、しばらくぶりに札幌のジャズ喫茶にでも行ってみようかという気になり、親には問題集を買いに行くと言って札幌の街に出た。本屋を覗いてみたが特に買いたい本があるわけでもなく、昔良く通った「BOSSA」を覗いてみることにした。ブラブラと歩いていくと、何とそこにあるはずの店が無い。『あー、とうとうやっていけなくなったのか』と少し感傷的な気分でトボトボと南へしばらく進むと、何とそこに「BOSSA」と書かれた行灯看板が立っていた。私は驚いてその建物を見上げた。そこはそれまでの今にも壊れそうな木造ビルとはうって変わって、ガラス張りの展望エレベーターのある白くて洒落た真新しいビルだった。「BOSSA」は潰れるどころかランクアップして移転していたのだ。私の知らぬわずかな間にここでも時代は動いていた。

 その三階にある店の重たいドアを開けると、一気に大音量のジャズのビートが押し寄せてきた。そのサウンドは昔より随分とスケールアップしている。私は嬉しくなって店の奥へと足を進めた。店内はガラスが多く使われた小洒落たカフェバーっぽいインテリアだった。私は隅っこのテーブル席に着いてアイスコーヒーを注文した。平日の昼間ということもあってか客の入りは少なかった。物珍しそうに店内を見回していると、カウンターの中の店員がこちらを何度となくチラチラと見ているのに気付いた。その顔には何となく見覚えがあった。誰だったかとしばらく記憶の糸を手繰っていると、ハッと気付いた。小学校時代の親しい遊び仲間だった谷山匡志君だ。絶対間違いない。私はカウンターに歩み寄った。

「ひょっとして、匡志?」
 私の問いかけに
「涼だろ。すぐにわかったわ。ははは。」
 彼の愛嬌のある人懐っこい笑顔は昔と何も変わっていなかった。

 谷山匡志君は私と同じ社宅で暮らしていた。小学校の三・四年と同級になり、家が近所だった里村牧場の寿史君ともども親しい遊び仲間だった。彼は当時流行っていたレーシングカーのサーキットのセットを持っていた。学校が終わると彼の家に直行して六畳間いっぱいに二レーンのサーキットを組み立ててはレースを楽しんだものだ。

 そのうち私も自分専用のレーシングカーが欲しくなり、親にねだって買ってもらったのはトヨペット・クラウンのパトカーだった。匡志君のマイ・レーシングカーは黄色のスティングレイで、レースではどうやっても彼には勝てなかった。しかしそれはテクニックの問題ではなかった。実は私のパトカーはヘッドライトや赤色灯が点灯するもので、そこに電流が使われて、その分駆動力が落ちる仕様となっていたのだ。

 家遊びもさることながら、私たち三人は毎日のように里村牧場を遊び場にしていた。広い前庭には立派な枝ぶりの一位の木が何本も植えられており、それを使って良く隠れんぼをしていた。電信柱一つ無い広々としたその空間で思う存分凧あげをしたり、時には広大な牧場の敷地の端まで自転車で走り、戦時中の飛行場跡を探検したりもした。本当に仲の良い三人組だったのだが、小学校五年のとき谷山家は札幌市内に家を新築して引っ越すことになった。一度里村君と一緒にその新居に遊びに行ったことがあったが、それ以後はほとんど行き来が無くなっていた。

「いや、まさかここで 匡志に会えるとは。全く思いもしなかったよ。」
「ほんとにね。でも俺は店長から涼や城南のジャズ研のことは聞いて知ってたんだ。」
「あ、そうそう。匡志はあれからどうしてたんだ?」
「あれからって、小学校以降ってか?ははは。高校は開明に行って、今は創星大学の英文に
 通ってるんだ。で、大学に入ってからここでアルバイト始めたってわけ。」
「そうだったのかあ。じゃあ俺だけか浪人は。」
「浪人?寿史が東帝大に合格したのは新聞で見たけど、そこに涼の名前は無かったからどう
 したのかなあって思ってたんだ。で、どこを目指してるの?」
「実は俺も東帝大の法科を受験したんだけど箸にも棒にも引っかからなくてさ。それで来年は
 京洛大を受けようと思って、今は京都で予備校通いだよ。」
「へええ。大変だ。人より余分に受験勉強しなくちゃならなくて。涼はそんなに勉強好きだっ
 たっけ?ははは。」
「好きなわけないだろうが。でもさ、高校三年の二月までジャズにかかりっきりになってたか
 ら、ほとんど受験勉強してないんだよな。だから浪人は最初から覚悟の上だったんだ。」
「そういや、寿史もジャズが好きで良く聴いてるって噂を耳にしたことあるなあ。涼と寿史っ
 て高校時代も付き合いあったのかい?」
「いや。うちも中学二年のときに親父が野幌に家を建てて引っ越したんだ。俺も隣の中学に転
 校して、それからはほとんど行き来が無くなったかな。高校も別々になっちゃったしさ。」
「ふーん。だったらすっごい不思議だよね。あの頃一緒に遊びまわった俺たち三人が、揃いも
 揃ってジャズ好きになったなんてね。」
「ほんとだよね。昔から好きなものが似てたのかな。いや、そうでもなかったよな。」
「じゃあ今は夏休みでこっちに帰って来てるってことかい?」
「うん。そういうこと。もう半分過ぎちゃったけど。京都は暑くてさ。それを考えると帰るの
 が嫌になっちゃうんだよな。」
「それは仕方ないべ。自分で決めたことなんだから。ははは。」

 そのときウエイトレスが匡志君に新しいオーダーを告げた。

「俺はしばらくここでこうやってるからさ、たまには顔を出してよ。」
 そう言うと彼は仕事に戻った。

 私も自分の席に戻り、しばらくの間大音量のジャズに身を委ねた。久しぶりに聴くジャズはやっぱり心地よかった。その後だんだんと客が入り始め、匡志君は仕事に掛かりきりになった。今日のところはこれ以上ゆっくり話も出来そうに無かった。私は「再会できて嬉しかった。また来る。」と告げてBOSSAを後にした。それにしてもこんな形の再会ってあるものなんだなと私は少なからず感じ入った。

    §

 夏休みは穏やかに着実に過ぎていった。お盆も過ぎて秋風が立ち始めた頃、またしても意外な人物から電話があった。それは中学時代の英語の担当教師の中山静子先生だった。

 中山先生はクラス担任でもなく、部活や生徒会の担当でもなかった。私とは英語の授業で顔を合わるだけの関係で、しかもその期間はわずか一年間だけ。そんな接点の少なかった先生からの電話に、私は何か当時の悪さでも見つかったのだろうかと一瞬身構えた。

 実は先生はこの春で教職を辞め、今はのんびりと本を読み庭いじりを楽しむ日々を送っているとのことだった。まだ四十代の半ばだし子供もいないので、この先何をやろうかと考えていたとき、ふと教員時代に気になっていた生徒が今どうしているか急に知りたくなったのだと言う。お盆前後のこの時期であれば、もし北海道を離れていたとしても連絡がつくのではないかと思って電話したとのこと。先生の読みはドンピシャリだった。

 続く会話は、ついてはゆっくり話がしたいので晩御飯でも一緒にどうかというお誘いだった。特に何の予定も入っていない私はその申し出をありがたく受けることにした。せっかくなら早いほうが良かろうと、明日の夜札幌プリンスホテルのフレンチ・レストラン、「トリアノン」で午後七時に待ち合わせということになった。一緒に食事をするだけのことだったが、本格的なフランス料理など私にとっては初めてのことだった。テーブルマナーも知らなければ、どのように振る舞えば良いのかも全くわからない。電話を切ったその直後から、私は簡単にOKしたことを悔み始めた。

 翌日私はジャケットを着こみ、少しどころではない緊張に身体を硬くしながら札幌駅に降り立った。そこでハタと気が付いた。札幌プリンスホテルといえば、まりあの実家のすぐそばではないか。『これだけホテルがあるのに、何でまた寄りによって』と緊張の上に鬱々とした気分まで背負いこみながら、私はトボトボとホテルを目指した。それはかつて私がまりあの家から札幌駅を目指したルートを逆さに辿れば良いだけだった。

 約束の時間少し前に店に到着すると、中山先生は既に窓際のテーブルに着いていた。さすが本格的なフレンチ・レストラン、厚手のクロスが掛けられたテーブルは完璧にセッティングされていた。中央にキャンドルが灯り、置かれた皿やグラスの数々、ナイフやフォークなどのカトラリー、ナプキンなどどれをとっても高価そうだった。私は先生に招いてもらったお礼を言い、促されるように席に着いた。

 程なくして食事が始まった。料理は先生が既に注文済みのようで、ウエイターがシャンパンをグラスに注ぎ前菜の皿を給仕した。私が『未成年ですけど、いいんですか?』という表情で先生を見ると、先生は「飲めないってわけじゃないんでしょ?」と微笑んだ。私は多少バツの悪さを感じながらも、軽く頷いて返事の代わりとした。次に運ばれてきたのはエスカルゴだった。見るのも初めてで食べ方もどうしていいのか全くわからない。すると先生は専用のトングの使い方を私に教えてくれた。私が見様見真似でエスカルゴと格闘しているのを先生は楽し気に眺めていた。

 食事はスープ、サラダ、魚料理と進んだ。私が迷う度に先生はひとつひとつ丁寧に説明してくれた。舌平目のムニエルには白ワインが供された。酒はいろいろと飲んではいたが、本格的なワインは初めてだった。その果実の香りはいかにも上品でスルスルと咽を下っていった。次の牛フィレステーキには赤ワインが注がれた。こちらは渋みがあり実にコク深い。私はゴクゴクと飲まないよう気を付けていた。

 食事の間、私は札幌城南での高校生活について話し、今は京洛大を目指して京都の予備校に通っていること、そして京都での下宿暮らしについて話をした。先生はニコニコと楽しそうに私の話を聞いてくれた。先生からは教職を辞めた理由についての話があった。それは教えることが嫌になったからではなくて、あの学校というシステムの中にいることに耐えられなくなったということだった。この先も教育には関わっていたいとの言葉に、私は半ば反射的に「じゃあ、個人で英語塾みたいなものをやってはどうか」と口にしていた。それは私の経験から出た率直な言葉だった。

 実は私は小学校の低学年から中学校卒業までの間、市内の英語塾に通っていた。田舎町の私塾であったが、そこは英会話をベースにして英語を学ぼうという塾で、テキストとにらめっこして勉強することは一切なかった。ほとんが先生と生徒が英語で会話をする時間で、ときには外国人の先生が来ることもあった。クリスマス会など季節の行事も英語で行われ、歌ったり踊ったりそれはもう大変。遊びの中で英語を身に付けようということだったのだろう。その塾に集まった面々は知らず知らずのうちに着実に実力を付けていき、中学校に上がる頃には英語で困ることはほとんど無くなっていた。中学生になると英語の文法や数学などの授業も加えられ、市内の秀才たちが集まる一種の進学塾のようになっていった。私は思い出すままに、その塾のことについて先生に話した。先生は興味深そうに私の話に耳を傾けていた。

 食事の最後にデザートと珈琲が出た。静かに話を聞いていくれる中山先生に、ワインの力もあったのだろう、気が付くと私はあれこれと喋り倒していた。親や兄弟にもここまで正直に自分の気持ちを話したことは無かった。関係性が薄い分、その場限りの一種の気安さが私の口を滑らかにしたのかもしれない。しかしそれ以上に中山先生は優れた聞き手だった。

 食事が終わりお開きの時間となった。私がご馳走になったお礼を言うと、先生は「京洛大の受験、悔いが残らないよう頑張って。」と激励してくれた。ホテルを出て札幌駅へと向かう道すがら、私はハタと気付いた。『今日の食事会は、先生の最後の授業だったのではないか』と。高校を卒業していよいよ大人の世界に入るにあたって、人前で恥をかかぬよう、西洋式のテーブルマナーを教えることが、英語教師としての最後の務めだと先生は考えたのかもしれない。心地よい晩夏の風にあたりながら、私は中山先生の粋な心遣いに感謝した。それにしても小学生時代の友人の谷山匡志君との再会といい、中学生時代の中山静子先生との再会といい、この夏は思いもかけない再会のオンパレードだ。

    §

 長いように思っていた八月はあっという間に過ぎて行った。道端のすすきの穂が揺れ始め、気が付けばもう下旬、明日には南村君の牧場研修も終わる。南村君といえば、最初の週末に晩飯を食べに我が家へ来たが、その後は一本の電話すらも無かった。他の研修生仲間とも打ち解けて、何とか無事にやっているのだろうと私は特に心配もしていなかった。翌日久しぶりに我が家に姿を現した南村君は、すっかり日焼けして、体つきも一回り大きくなったような感じがした。

 その夜は南村君の送別パーティとなった。寿司と天婦羅の出前を取りビールで乾杯した。南村君は三週間前とは別人のようだった。大いに飲み、食べ、楽しそうに研修生活の様子を話してくれた。研修生仲間はほとんどが北酪大学の学生で、比較的歳も近くすぐ仲良くなって、昼夜を問わず楽しく過ごすことができたようだ。休みの日には皆でバーベキューをしたり、札幌の街に遊びに行ったりもしたという。私は話を聞きながら今回里村牧場を紹介して本当に良かったと感じていた。自分自身の力だけで目の前の壁を一つ乗り越えた。その体験は間違いなく彼の大きな自信となったようだ。豪快に笑う南村君の表情や振る舞いは、逞しい若者へと大人の階段を一段登った姿だった。

 そして翌二四日、この日は東京で築田君と再会を約束した城南祭の最終日だった。昼過ぎに私は南村君と一緒に札幌駅まで出た。千歳空港行のバス停で彼を見送り、そしてその足で母校へと向かった。久しぶりに訪れた母校は卒業時と全く変わっていなかった。正門から正面玄関へと向かう砂利道を私は懐かしく歩いて行った。

 築田君や沢口君とは特に集合時間を決めてはいなかった。どこかで合流するだろうと、私は一人校内に入っていった。玄関前に張り出されたスケジュール表を眺めると、ジャズ研のコンサートは午後二時からだった。今回の城南祭訪問も、その目的は懐かしい母校でかつての仲間達と思い出話に興じることであり、ジャズ研の後輩のステージを見ることだった。時刻はもうすぐ午後二時になろうとしていた。私は真っ直ぐ記念講堂へと向かった。


 会場は既に暗幕が閉ざされ、ステージに小さな照明が当たっているだけだった。私は中ほどの椅子席に腰をおろして開演を待った。やがてステージの幕が上がり、城南ジャズ研のコンサートが始まった。私達と同じ時を過ごした三年生の演奏は、明らかに昨年より成長していた。今年も新入部員が入ったようだった。私たちが撒いたモダンジャズの種はこの城南高校に少しずつ根を張り出したようだ。それは掛け値なく嬉しいものだった。私は後輩たちの演奏に大きな拍手を送った。

 約一時間半ほどのコンサートが終了した。会場全体の照明が灯り、やっと人の顔が見分けられるようになった。席を立ち出入口に向かおうとしたその時、私が目にしたのは片瀬まりあの姿だった。私は人違いではないかと目を凝らした。しかしそれは間違いなくまりあ本人だった。彼女は長い髪をバッサリ切りショートカットになっていた。

 私と彼女は高校二年・三年と同級生で、その期間を通じて交際を続けていた。色々と紆余曲折もあったが、二人の気持ちは時と共に深まり、将来を真剣に考えるようになっていった。少なくとも私はそう思っていた。高校三年の秋、彼女はスチュワーデスになる道を選択し見事採用試験に合格した。これで卒業後の彼女の東京暮らしが決まった。交際を続けるためには近くに居るほうが良いに決まっていた。それと同時に私には彼女にとって恥ずかしくないステイタスが必要だと思っていた。そこで私は無理を承知で東帝大の法科を受験することにしたのだった。

 受験を終えて北海道に戻ってからの彼女の態度の変化や、羽田空港での遭遇と逃走という衝撃的な出来事を経て、私は自分が完全に見限られ振られたのだと覚った。しかし彼女の気持ちが急変したその理由が私にはどうしても判らなかった。その後彼女との連絡は完全に途絶えた。しかし私はあの日の出来事をずっと引きずって今日に至っていたのだった。
 
 会場内を眺めていたまりあも私に気付いたようだった。一瞬眼が合った。彼女の表情は瞬時に険しいものになった。私がゆっくりと近付いていくと彼女はまた小走りで逃げ出した。今回は私は彼女を追いかけた。いかに彼女が運動選手だったとは言え、スリッパ履きでは裸足で追いかける私を振り切ることはできなかった。そして体育館で彼女に追いついた。行き場を失った彼女に私は少し距離を置いて話しかけた。

「やあ。すっかり別人になってしまったね。」
 彼女は挑戦的な眼をしていた。私を睨みつけ一切言葉を発しない。
「でも元気そうで良かった。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

 どうやら一言も口をきかないつもりらしい。彼女は口を真一文字に固く結び、私を視界から締め出すように首を横に捻じった。

「もう寄りを戻すとかそんな気持ちは無いから安心して。ただなぜ逃げるのか、それが知りた
 いだけなんだ。」

 私はじっと待った。しかし結局彼女は答えなかった。私はどうしてここまで忌み嫌われるのだろうと悲しくなり項垂れた。その隙を待っていたかのように彼女は踵を返し、出入口へと走り去った。私はまたしてもその場に立ち竦み、遠ざかっていく彼女の後姿をただただ眺めていた。私にはもう彼女を追いかける気力すら残っていなかった。

 この四か月の穏やかな京都暮らしで少しは傷口に瘡蓋ができつつあったが、それはこの思いがけない再会によっていきなり剥がされ、元の生傷へと戻っていた。心からジュクジュクと真っ赤な血が滲みだしてくるようだった。もう城南祭見物どころではなくなっていた。築田君たちとの約束もどこかへ吹っ飛んで行ってしまった。私は逃げるように母校を後にした。

                                                          
 私は困惑すると同時に無性に腹が立っていた。このままでは感情にまかせて何をしでかすかわかったものではなかった。この気持ちを少しでも落ちつけてから帰ろうと、私はジャズ喫茶のNIKAに足を向けた。地下への階段を降り、入口のドアを開けると一か所だけ明るいカウンターが眼に飛び込んできた。そしてそのカウンターの向こうにはあろうことか高校時代の同級生の上沢智樹君が立っていた。

 『何で俺の友達はみんなジャズ喫茶でアルバイトしてるんだよ!』

 これが彼を見つけたときの私の正直な気持ちだった。それは嬉しくはあったが、今だけは避けたい再会でもあった。私は独りになりたくてここに来たのだ。しかし彼は既に私に気付いて手を振っている。ここで知らん振りをして引き返すことはできなかった。私は軽く手を上げて応えカウンターに座った。

 日曜日の夕方のNIKAには一人の客もいなかった。私と上沢君はカウンターを挟んで話し始めた。そう言えば彼と会うのも卒業式以来だった。私は余程ひどい顔をしていたのかもしれない。上沢君の開口一番は「涼、大丈夫?」だった。私は軽く頷き、無理矢理笑顔を作ってみせた。彼は優しく穏やかな人柄だった。こちらが口を開けば耳を傾けてくれるが、そうでなければただただ黙って付き合ってくれる。ちょっと老成した感じもあり、長年修行を積んだ坊さんのような男でもあった。

 私はウイスキーの水割りを注文した。上沢君は「他に客もいないし、じゃあ僕も付き合っちゃおうかな。」と二人で乾杯した。好きなレコードをかけてくれると言うので、私はジョン・コルトレーン・カルテットの初期の名盤「Coltrane」をリクエストした。今はただただシンプルで圧倒的なサウンドに浸りたかった。

 二人はお互いに近況を報告し合った。上沢君も現役では北斗大の受験に失敗したが、来年は大学には進まず、器用な手先を活かして歯科技工士の道を目指すと言う。それでこうやって勉強もせずアルバイトに精を出しているとのことだった。私は京都暮らしのことをボソボソと話した。そして今日は城南祭を見てきたと言うと、昔の仲間の誰かと会ったかと尋ねられた。そして気が付くと私はまりあとの一連の顛末を訥々と話していた。

 上沢君は口を挟まず黙って聞いていた。そして私が話し終わると、一言
「涼、もう諦めな。」と言った。
「男女のことは良くわからないけどさ、動物でも何でも追いかければ逃げるじゃないか。深追
 いしてもきっと得るものはないような気がする。」

 確かに彼の言うとおりだった。頭ではその通りだと判っていた。しかし感情は全く正反対を向いていた。私の心は『何故?何故?何故?』と叫び続けていた。

 しかし上沢君に心の内を曝け出したことで、私は徐々に冷静さを取り戻していった。ササクレ立った感情も少し落ち着いてきた。それと同時に、私は親しい同級生に対してもこれまでずっと変な見栄を張り続けてきたことに気付いた。まりあとの一件はこれまで親友の誰にも相談すらしていなかった。上沢君はその意味では最適な相談相手だった。彼の顔を見たとき、瞬時に彼を避けたいと思った自分を私は恥じた。

 この夏は予期せぬ再会の連続だったが、上沢君との再会は私にとって大きな救いとなった。もし彼に会っていなかったら、と考えると少しゾッとした。口にこそ出さなかったが私は彼に感謝していた。そのタイミングで新しい客が数名入って来た。そろそろ潮時だった。私は彼に「また会おう」と言い残して家路へと就いた。

    §

 こうして私の夏休みもいよいよ最終週を迎えた。帰省当初は九月の頭から始まる予備校の授業に合わせる必要もなく、暑さが落ち着く中旬頃に戻れば良いだろうくらいに考えていた。しかし、まりあとの再会後、平気な顔をして家族と一緒にいるのも苦しくなっていた。私は早々に京都へ戻ることにした。今回は東京を経由せず、千歳空港から直接大阪伊丹空港に飛び、バスで京都へ向かうルートを採ることにした。そして八月二九日の午後、私は独り千歳空港に向かった。       

 私がこれまで利用したことがある航空路は千歳・羽田便だけで大阪便は初めてだった。その飛行ルートも東京便は太平洋側を飛ぶが、大阪便は日本海側をほぼ真っ直ぐ大阪に向かうようだ。乗り込んだ航空機材はダグラスDC8だった。かつて国際線で大活躍した機体のようだが、いつも利用していたジャンボ機に比べると明らかに一世代前の旧型機でその室内はかなり老朽化していた。とにかく幅が狭く細長い。通路を歩く時も手を伸ばせばすぐ天井だ。乗員の数も圧倒的に少なかった。私はいつもと違う、どこか閉じ込められているような息苦しさを感じつつ席に着いた。そんな私には一切お構いなく、飛行機は定刻通りに千歳空港を離陸した。

 この息苦しさも眠って過ごせば大丈夫だろうと、私は眼を閉じてエンジンの轟音に身を任せた。しばらくは穏やかなフライトが続いていたのだが、突然機体が大きく揺れ乱高下した。ウトウトしていた私はびっくりして眼を覚ました。機長のアナウンスが流れる。どうやら気流の悪い場所を通過しているらしい。その声は落ち着いていたが、シートベルトをしっかり着用するよう厳しい注意があった。機体の揺れや乱高下はなかなか収まらず、機内ではあちこちで女性の悲鳴が何度も何度もあがった。それは私が今までに経験したことのない激しい揺れだった。

 それは確かにかなり緊張する危険な状況だった。乗員の動きも慌ただしい。私は元来臆病者で高所も閉所も怖がる情けない男だったが、このときばかりは少し違っていた。私は揺れ続ける機体に身を任せながら、つい一週間前の出来事を思い返していた。まりあとの再会、そして言葉一つ交わさず走り去った彼女の後姿。私は深く思いを寄せていた相手に完全に見限られたのだという現実をまだ冷静に受けとめられていなかった。同時にそれは私の唯一の拠り所であったささやかなプライドを大きく傷つけた。

 今の自分には何の存在価値も無いように思えてきた。あの高校時代の光り輝いていた恋の記憶はガラガラと崩れ落ち、虚ろな世界に独り取り残されたような気分になっていた。私は半ば『もうどうにでもなれ』と捨て鉢になっていた。大きな乱高下が起こるたびに『もっと来い』と心の中で叫んでいた。それはこの飛行機が墜落して命が尽きれば、この苦しみも消えてなくなるという利己的な願望だった。

 そしてそれ以上に、『もしそうなれば私を頑なに拒絶し黙殺したたまりあに対して一矢報いることができる』という思いがあった。彼女がこれから客室乗務員として働くことを考えれば、こんなお誂え向きな死に様は無い。それは自殺などよりも余程残酷な仕返しとなる。女々しい復讐心とでも言うべきどす黒い感情が渦巻く中、あくまで死すらも劇的であることに私は憧れていた。自身の無力さに悄然とする一方で、相反して私の虚栄心は醜いほどに膨れ上がっていた。       

 当たり前のことだが、物事は自分の思うようには進まない。私の歪んだ願いはものの見事に却下された。その後飛行機は無事に乱気流を抜け、何の問題も無く大阪伊丹空港に着陸した。私の手からは悲劇の主人公になるチャンスもすり抜けていった。そもそも最初からそんなものは無かったのだ。その心中はいかようであろうとも、私は地べたを這いまわる一匹の蟻ん子のように、与えられた生命をコツコツと地道に進んでいくしかなかった。伊丹空港から京都方面へ向かうバスの終着は京都駅だった。私は久しぶりに感じる京都の暑さに辟易しながら、市電に乗り換え西大路の下宿へと向かった。

    §

 新学期を前に下宿のメンバーは数名を除き戻ってきていた。賄の食事はまだ始まっておらず、私たちは夕食をとりに中華「金龍」に向かった。それぞれの夏の出来事を話しながらの餃子とビール。こうして私のいつもの日常が再び始まった。

 今年の京都は比較的涼しかったとのことだが、独り自室に戻るとそこは私にとってまだまだ真夏だった。扇風機を回し上半身裸で本を読んでいても汗が滴り落ちる。そしてふと気付けば私の頭を占領しているのはあの城南祭の出来事だった。纏わりつくような熱い空気も何もかもが鬱陶しかった。何かでこのモヤモヤを紛らわせたかった。私はどこかでイベントがないかとポケットガイドをめくり始めた。しばらくして私はあるページに眼を留めた。それは嵯峨野にある化野念仏寺の千灯供養だった。

 この千灯供養とは、毎年八月の最終土曜日と日曜日に、化野念仏寺の西院の河原に祀られている石塔や石仏などの無縁仏に一斉に蝋燭を灯し供養する宗教行事だという。参拝者によって点火される幾千もの蝋燭は幻想的な世界を演出し、夏の嵯峨野の風物詩の一つということだ。祭事の時間を見ると、午後六時から火を灯し始め、供養は九時まで行われるとあった。

 化野は平安時代から京都の三大埋葬地の一つで、名も無き庶民がこの地に風葬されてきたという。空海が野ざらしとなっていた遺骸を埋葬するため、この地に五智山如来寺を創建し、その後法然上人の常念仏道場となって現在に至るとあった。

 化野の「あだし」とは「はかない」「むなしい」という意味であり、それに「化」という字をあてたのは、生が死と化して、そののちこの世に再び生まれ化すことや、極楽浄土に往生する願いを込めてのことだという。

 まさに今の私の気分にこれほど適したものはなかった。幻想的な雰囲気を味わいたいわけではなかった。私は虚しさにどっぷり漬かりたかったのだ。私は階段を降り早速同行者を探し始めた。
 
 翌三十日の土曜、夕食を早めに済ませて、私は上田先輩、秋葉君、山田君と共に京福電車に乗り込み嵐山を目指した。まだ空は最後の明るさをとどめていたが、日が暮れるのはずいぶんと早くなった。午後七時過ぎに到着した嵐山駅はすっかり夜の帳に包まれていた。ここからバスを利用する手もあったのだが、私たちは夕涼みがてらブラブラと歩いて行くことにした。駅を出て左手に天龍寺を見ながら北へと進み、有名な和菓子店「老松」の先を左に折れて竹林の道に入った。

 この散歩道には街路灯が一切無かった。真っ暗闇のその道は行き交う人もほとんどおらず、時折吹き付ける強い風に竹林がザワザワと薄気味の悪い音を立てる。終点も見通せず、この道がどこまで続くのかも良くわからない。最初は陽気に歩いていた私たち四人だったが、物の怪が出てきそうな嵯峨野のあまりにも寂れた雰囲気に次第に言葉数が減っていった。

 最初は涼しくて気持ちが良いくらいに感じていた風も今では肌寒く、半袖でむき出しの腕には鳥肌が立った。おっかなびっくりで手探るように進むうち、左手に藤原定家で有名な常寂光寺の灯りが見えてきた。やっと人心地ついた私たちは自然とお互いに笑みを交わした。その後二尊院、祇王寺をやり過ごしひたすら北へ向かう。そのまま道なりにしばらく行くとそこが化野念仏寺だった。ここまで約一時間弱が経過していた。

 寺務所で拝観料を支払いご供養用の蝋燭を受け取る。西院の河原に足を向けると、既に多くの石塔や石仏に蝋燭が灯されて揺らめいていた。しかしその石仏も遠目にはちょっと大きな石塊にしか見えなかった。近づいて良く見てみると、その石の表面に仏の姿がうっすらと彫られている程度だった。これらが所狭しとびっちりと立ち並び、その一つ一つに燈明が供養されていた。

 周囲に一切の照明が無く、そこに無数の蝋燭の光が浮かび上がる情景は確かに幻想的と言われればそうかもしれない。しかし私にはそんな優雅なものには思えなかった。肩を寄せ合うようにして並ぶ石仏、それらが身動きも取れないほどに埋め尽くされた境内、これが数えきれないほどの名も無き命の行き着いた先かと思うと私はただただ怖ろしくなった。これが極楽浄土などとは到底思えなかった。では地獄なのかと問われればそれも違う。誰からも忘れ去られ、世界の片隅に吹き寄せられてただただ朽ち果て、最後には風に舞う砂粒になっていく。その途上の姿のように私には思えた。

 霊感のあるほうではなかったが、間違いなくそこには尋常ならざる妖気のようなものがあった。それは私にとって「死」というものの具体的なイメージとなって迫って来た。

 「死ぬ」ということは、こんなにもおどろおどろしい世界に迷い込んでしまうことなのかと思うと、あの飛行機の揺れの中で感じていた「死」に対する憧れはものの見事に吹き飛んでいった。喜怒哀楽もすべて生きていればこそ。愛を失ったこの苦しみも生きていればこそだと、私は妙に納得していた。こうして私の夏休みは静かに終わりを告げた。

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