【十二月】*** December  ***

文字数 3,211文字

 まりあからの手紙は私の闘争心に火をつけた。彼女にとって恥ずかしくないステイタスを得るという目的はもはや必要なくなったが、私を虚仮にしたことを絶対に後悔させてやるという新しい目的がそれに替わっていた。京洛大に合格することがその最初の関門だ。あまり褒められたモチベーションとは言えなかったが、私は今まで以上に猛然と受験勉強に取り組み始めた。

 昼夜逆転の生活パターンをを正常なものに戻し、予備校の授業をサボることもなくなった。国語や英語に関しては出題者がどんな解答を求めているのか、だんだんわかるようになってきた。大学毎に多少の差はあるだろうが、大元はそんなに違いは無い。私は解答のコツをつかみつつあった。やはり一番の問題は数学だった。練習問題の数をこなしても、国語や英語のように確信を持って答えを導くレベルには至らない。さすがに一朝一夕にその段階には駆け上がることは困難だった。やはり元々私は数学的思考に弱点があるのかもしれない。それでも投げ出すことはできない。少しでもその弱点を克服しようと私は数学に最も時間を割いた。

 残された時間で他の教科をどう攻略するかも重要な鍵だった。私は考える教科を数学だけに限定し、理科も社会科も暗記型の科目にすることにした。それが短期集中型の自分には最も適しているという判断だった。こうして受験科目は理科は生物を、社会科は世界史を受験科目に選んだ。京洛大の世界史は中国史からの出題が多いのが特徴だった。私は思い切って中国史一本に絞って徹底的に頭に詰め込むことにした。あれもこれもと欲張るだけの時間はもう残されていなかった。    
                                             
 これからの二か月余、脇目もふらず受験勉強に取り組むと決めた私は、これまで私を支えてくれた京都探訪にもしっかりとケリをつけることにした。その最後の場所に選んだのは嵐山の天龍寺だった。この嵐山最大の禅寺である天龍寺は、母親と下宿探しに京都を訪れた際、唯一足を運んだ観光地だった。思えばあれが私の京都探訪の始まりだったのかもしれない。幕引きするのには最も相応しい場所でもあった。あれは早春の嵐山、今回は晩秋の嵐山だ。紅葉もそろそろ終わり観光客も少なくなる。最後の一日を私は思う存分堪能しようと考えた。

 そして週末の土曜日、私は上田先輩と南村君を誘って嵐山へと向かった。やはり観光客の姿は
少ない。私たちは真っ直ぐ天龍寺を目指した。正門を入るとその突き当たりには大きな三角形の白壁とそれを縦横に区切る独特の装飾が特徴的な庫裏が私たちを出迎える。中に入ると正面に「達磨図」の衝立があった。禅宗の祖師「達磨大師」を描いたものだが、その大胆でシンプルなデザインは、現代のポップアートに通ずるものがあった。

 拝観料を支払い次に向かったのは、お目当ての一つ「曹源池庭園」だ。この寺の開祖でもあり優れた造園家でもあった夢窓国師の最大傑作で、嵐山や亀山を借景にした何ともスケールの大きな庭園だ。私たちはお堂の縁側に座って静かに向き合い、ゆっくりと流れる時間に身を任せた。真っ青な空、色づく遠くの嵐山、そして近景の深い緑と池。その雄大な美しさの一方で、鳥の鳴き声、風のそよぎ、木々のざわめきといった細かな自然の音が耳に届く。それは何とも穏やかで心が安らぐ贅沢な時間だった。

 私たちは大いに満足して次に法堂へと足を運んだ。もう一つのお目当てがこの法堂の天井に描かれた「雲龍図」だ。加山又造画伯によって墨一色で描かれた龍は、「八方睨みの龍」とも言われているが、確かにどの角度から見てもこちらを向いているように見える。青色の円内で躍動するその姿は、今にも飛び出してきそうで迫力満点だ。

 そして最後のお目当てが「湯豆腐」だった。私たちは天龍寺の塔頭の一つ、妙智院にある「西山艸堂」を目指した。質素な木造りの小さな門に紺地の暖簾がかかっている。何とも風情ある門構えだが、知らずに通り過ぎてしまいそうになるほど目立たない。しかしここは嵯峨で最も古い湯豆腐の店だった。

 その門をくぐり建物の縁側から靴を脱いで座敷に上がる。ここには玄関というものがなかった。テーブルに座ると係りのおばさまがやって来た。料理は「湯豆腐定食」ただ一つだという。私たちは三人前注文し、熱燗も三本つけてもらうことにした。料理が運ばれてくる間、縁側の先にある庭園を眺めた。それは質素でさりげない庭だった。先ほどの雄大な庭園とはある意味真逆の庭だったが、それはそれなりに寂れた嵯峨野に良く似合っていた。

 料理と酒が運ばれてきた。最初は精進料理の定番「胡麻豆腐」。ねっとりとして味わい豊かだ。私たちは手酌で酒を注ぎ乾杯した。次に運ばれたのが「茄子の田楽」と「湯葉の寿司」。前菜と
でもいうものなのだろうか。そしてその次が天麩羅三品の盛り合わせ。獅子唐と湯葉、それに長芋を擦りおろして海苔に包んで揚げたものだ。何とも素朴である。そしてメインの湯豆腐。私たちは半分やけどしながら熱々を口に運んだ。酒を酌み交わし大いに語り笑った。最後にはご飯と汁物で締めとなった。食後のお茶をいただきながら、私は大きな満足感に包まれていた。

 私にとって京都の街と下宿の仲間は大いなる救いだった。これがもし東京暮らしだったら、私は強烈な孤独感と劣等感で押しつぶされていたかもしれない。まりあとの別れで被った心の痛手を受け止めきれていたかどうかも定かではない。私は本当に京都に来て良かったとしみじみ感じていた。

 凛とした冬の空気が嵐山の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。何とも美しい。私はこの景色をしっかり心に焼き付けた。こうして私の京都探訪はキッチリとその幕を下ろした。

    §

 予備校内の模試が行われ、私の成績はわずかではあったが上昇した。国語と英語は京洛大の合格ラインに何とか届いていたが、他はまだまだだった。私はパチンコはもちろんジャズ喫茶通いも木屋町通いも一切止め、ひたすら受験勉強に取り組んだ。予備校が終わると真っ直ぐ下宿に戻り夕食までの三時間、数学の問題集をひたすら解く。夕食後は英語や国語を軽く復習し、その後は中国史と生物の暗記だ。これまでの人生でここまで真剣に勉強に取り組んだ記憶は無かった。

 この季節、夜の十一時頃になるとチャルメラの音が良く聞こえてきた。屋台のラーメンだろうと思い、ある日私は夜食を摂ろうと下駄をつっかけて外に出た。西大路通りを流していたのは、腰の曲がったお爺さんの曳くうどんの屋台だった。一般的なリヤカーに比べても幅が狭くこじんまりとしたその屋台は全てが木製だった。かなり古びていたが、機能的にコンパクトにまとめられたその構造に私は正直驚いた。

 私はしっぽくうどんを注文した。年老いたお爺さんが作るそのうどんは少し線香の匂いがした。私はこれまでうどんが好きではなかった。北海道で食べるうどんは、出汁は真っ黒、麺は粉っぽく食感も良くない。敢えて食べようと思うような代物ではなかった。しかし京都のうどんは全くの別物だった。昆布と鰹節が効いた無色透明のお吸い物のような出汁に、麺は歯応えが良くツルんとした喉越し。私は出汁の最後の一滴まで飲み干した。それは実に美味しかった。他に何の楽しみも無くなった私には、この深夜の熱いうどんが唯一の娯楽となった。これは他の下宿仲間も同じだったようだ。夜が更けてチャルメラの音が聞こえてくると、一人二人と同類が外に出てくるようになった。こうして気付けば一九七五年もいよいよ終わろうとしていた。

 クリスマスが過ぎ予備校も冬休みに入った。年末年始もここに残って予備校の冬季講習を受けることも考えたが、具体的な受験について両親と相談する必要があった。私は年末の混雑を避け大阪伊丹空港から直接千歳へと飛んだ。

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