【六月】*** June Night ***

文字数 19,299文字

 予備校での仲間もでき日々の生活は穏やかに進んでいった。この時期予備校内の模試があり、後日その成績上位者が公表された。何とその中に私の名前が載っていた。他の教科は箸にも棒にもかからなかったが、現代国語だけが全国で二位だった。これには私本人が一番驚いた。成績上位者はそのほとんどが東京のお茶の水本校の在籍者だったが、全教科を通じて京都校から成績上位十傑に入ったのは私だけだった。

 この出来事で周囲の私に対する眼が変わった。『どこか不良っぽくて良くわからないヤツ』から、『実はとんでもなくデキるヤツ』に変わっていったのだ。一夜にして有名人になるというのはこういう感じなのかと私は思った。これまで全く口を利いたこともなかった面々からも話しかけられるようになった。この結果は予備校仲間のみならず下宿仲間にも大きな影響を与えたようだった。私は誰からも明らかに一目置かれる存在へと変身していた。誰も口にこそ出して言わなかったが、チャキチャキの大阪娘の神崎理恵ちゃんだけが「柏木君ってさ、実はすごい人だったんだね。」と尊敬するような眼差しで言ってきた。

 自分自身では特に頑張って勉強したわけでもなく、何がどうなったのか戸惑うばかりだった。周囲には「たまたま勘が当たっただけ。まぐれ、まぐれ。」と言っていたが、内心では性質の悪い自尊心が大いに満足していたし、例のお調子者の自分が『やっぱりお前はデキるヤツなんだよ』と囁いていた。みっともない天狗の一丁上がりだ。『ほら見ろ。ちょっと真面目に勉強すれば受験なんて楽勝さ。』 私はまたしても独りよがりの自信を持ち、受験を甘く見始めた。私という男はほとほと困ったヤツだ。
                                            
 そんなこんなで初夏の京都をいい気分で過ごしていたある日の教室、私のところに神崎理恵ちゃんが一人でやってきた。

「あのさ、柏木君。ちょっと相談があるんやけど。」
 いつもの調子で元気がいい。
「うん?何?」
「今度さあ、うちら三人と柏木君たち三人で一緒にエキスポランドに行かへん?」
「おお、エキスポランドって万博跡地にできた遊園地だったよね?」
「そうそう。暑くなる前に思い切り遊びたいなって思うてね。」
「いいねえ。それで予定は?」
「今週末の日曜日って、どない?」
「日曜日ね、僕は構わないけど緒方君と加瀬君に都合を聞いておくよ。」
「じゃあお願いね。みんな楽しみにしとるんよ。」
「わかった。すぐ返事するよ。」

 緒方君に話をすると一も二もなく乗ってきた。それはそうだ。大好きな日野雅子ちゃんとお近づきになる絶好のチャンスである。加瀬君もせっかくの女性陣のお誘いを断るわけにはいかないと即座にOKを出した。私が「全員喜んで参加させてもらう」旨を理恵ちゃんに伝えると、彼女からは「お弁当は私たちが用意するから手ぶらで来て。」という嬉しい申し出があった。

 予備校で女友達ができるなどとはちょっと前までは全く思いもしないことだった。それが教室を飛び出して外でも一緒に遊ぶような親しい間柄になろうとしている。そのきっかけは緒方君の心に湧き起こった淡い恋心だったわけだが、このような展開になろうとは。物事というものはどこでどう繋がって、どう転ぶか本当にわからない。

 しかし良く考えてみれば浪人生だってみんな青春真っ只中の若者だ。高校を卒業してほぼ大人扱いされるようになった今、これまで我慢していた自由を思い切り謳歌したいと考えても何の不思議はなかった。私の場合は高校時代からジャズにしろ恋愛にしろ既に勝手放題をしていたので、高校卒業という区切りも特段の意味を持たなかっただけの話だ。

 この年頃でその自由のテッペンに位置する憧れの的は、「恋」かもしれない。『きっとみんな恋をしたいんだろうなあ。』私はそんな仲間たちを微笑ましく感じていた。ただその中に自分自身は含まれていなかった。意識してそうしているわけではなかったが、この点に関しては、私は彼らを遠くの場所から眺めている傍観者だった。
                                            
 当日は彼女たちの地元でもある阪急京都線の南茨木駅で待ち合わせをした。京都から向かった私と緒方君、大阪の南側からやって来た加瀬君が合流すると大阪モノレールに乗り換えて万博記念公園駅へと向かった。

 エキスポランドは一九七〇年に開催された大阪万国博覧会のアミューズメント施設を残した遊園地だ。モノレールの駅を降りると、大阪万博の象徴でもある太陽の塔が遠くに見え、左手にはもう一つの象徴であった近未来的なエキスポタワーが聳え立っていた。今目にしているエキスポランドは、その広大な敷地とアトラクションの多彩さで、私が知っている北海道の遊園地とは全く別次元のものだった。国の威信を賭けた万博という国家事業の凄まじさを私はひしひしと感じた。しかし、それは鉄とコンクリートで人工的に作った巨大な街の名残りに他ならず、どこまでも無機質でどこか現実感に乏しかった。

 エキスポランドの目玉アトラクションはジェットコースター「ダイダラザウルス」であり、高さ百メートルを超える展望台「エキスポタワー 」だった。そのほかにも観覧車や回転系の乗り物も多数あった。私を除く他のメンバーは真っ先にジェットコースターへと向かった。高所恐怖症の私はいわゆる絶叫系のアトラクションやタワー、観覧車も全て丁重に辞退して、地面から彼らに手を振る役割に徹した。遊園地での私は、ほぼほぼ十歳以下のお子ちゃまだった。

 何度目かのジェットコースターに皆が向かう中、理恵ちゃんが一人残って私に付き合ってくれた。

「柏木君、遊園地苦手だったんだね。」
 そう話しかける彼女に
「いやいや。高いところがダメでパスさせてもらってるけど、とっても楽しいよ。」
 と答えると、
「それなら良かった。」
「あのさあ、ちょっと聞きたいことがあるんやけど。」
「うん?何?」
「柏木君って、今付き合ってる人おるん?」
 いきなりの質問に少々ビックリしたが、私は正直に答えた。
「ううん。誰とも付き合ってないよ。」
「ふーん。そうなんや。」
『なになに・・・。ひょっとして理恵ちゃんが俺に・・・?』
 と思いつつ
「そう言う理恵ちゃんこそ、誰か付き合ってる人いるんじゃないの?」
 と尋ねると、
「へへっ。わかっちゃった?そうやねん。付き合ってる彼氏がおるねん。」
 私はホッと安心した気分とちょっとがっかりした気分半分という心持ちだった。
「高校時代からの付き合いなんよ。彼氏は現役で合格したんやけど、私だけがね・・・。
 彼氏が大学で新しい女の子と知り合ってとか考えると、なんか気が気やないんよね。」
「そうかあ。その気持ちは何となくわかる。でもちゃんと会ったりしてるんでしょ?」
「まあねえ。でもしっかり監視しとかんと悪さしよるんやないかな。勉強だけやなくて、そん
 なことまで気を回さんといかんし。ほんまにしんどいわ。」

 口ではそう愚痴る理恵ちゃんだったが、その表情は幸せそうだった。私は予備校生で恋をしている人間はそうそういないだろうと思っていたが、何のことはない、意外と近くにいたではないか。しっかり者の理恵ちゃんはちゃんと勉強と恋を両立させているようだった。そんな彼女の頑張りに私は心の中で小さく拍手を送った。

 皆で広大な敷地を歩き、太陽の塔を見学して弁当を広げた。初夏の心地よい太陽を浴び、大いに語り大いに楽しんだ。仲間の絆がもう一段深まった貴重な一日だった。緒方君は終始ご機嫌だった。ただお目当ての日野雅子ちゃんとの距離がぐっと近くなったかと問われれば、残念ながらそれはまた別の話というところだった。

    §

 再び退屈な予備校通いの日常が続く中、私の次の京都探訪の機会がやってきた。それは六月二十日に行われる鞍馬寺の「竹伐り会式」だった。天狗の許で牛若丸が修業したという鞍馬山は高校の修学旅行の自由行動の際にも訪れた思い出深い場所だった。しかしそれだけではなく、私には何かわからないがこの地の神秘的な力に呼び寄せられているような不思議な感覚があった。

 下宿仲間に声をかけると、真っ先に上田先輩が乗ってきた。そして上田先輩に半ば強制されるような形で、舞鶴出身の山田君も一緒に出かけることとなった。当日は平日だったが予備校をサボって昼過ぎに下宿を出発した。京福電鉄の出町柳駅から鞍馬線に揺られること約三十分、目的の鞍馬駅に着いた。駅のすぐ近くに鞍馬寺の山門があり、本来ならここから徒歩で山道を登り本殿を目指すところだが、怠け者の私たちはケーブルカーを利用してショートカットする楽な道を選んだ。

 午後二時から本殿金堂前でいよいよ竹伐り会式が始まった。平日ということもあってか観光客も少なく、私たちは幸いにも最前列で見学することができた。私は早速南村君から借りた一眼レフを構え写真撮影に取り掛かった。

 竹伐り会式とは長さ五メートル、直径十五センチほどの大きな青竹を大蛇に見立てて鞍馬法師たちが竹を伐る早さを競い合うものだ。平安時代の大蛇討伐に起源をもつ水への感謝と吉事の招来を祈る行事だということらしい。とにかく印象的だったのが法師たちのその衣装だった。皆僧兵の装束を身に纏っており、その姿はまさしく弁慶のイメージそのものだった。

 儀式は先ず竹の長さを切りそろえる「竹ならし」から始まった。三回ほど山刀を振り下ろす法師が多い中、一太刀で切り落とす強者も居た。次に舞楽奉納を挟んで、いよいよメインイベントだ。本殿に向かって左に丹波座、右に近江座と二グループに分かれて竹を伐る早さを競い合う。この勝負でその年の農作物の吉凶を占うということらしい。しかしこの勝負の決着はほんの数十秒でついた。私はどちらが勝ったのかすらわからなかったが、それは観光客向けに演出されたものではなく本気そのもので、その瞬間の音と迫力は圧巻だった。

 思った以上に早く儀式が終了したので、私たち三人は鞍馬の山越えをして貴船神社に向かうことにした。これは私の提案だったが、何のことは無い、高校の修学旅行の足取りをもう一度なぞってみたかったのだ。当時と同じ道を歩いてみたところで、幸せに満ちたあの時が戻ってくるわけもないことは百も承知していたが、心の奥底には『ひょっとして』という淡い期待があったのかもしれない。

 上田先輩も山田君もそんなこととは露知らず私に付き合ってくれた。杉の木のゴツゴツとした根が辺り一面に張り出して歩きにくいことこの上ない。初夏の日差しを遮るこんもりとした杉林の中は少し薄暗く涼しかった。彼らと軽口を叩きながら歩みを進めて行ったが、頭の中では時折あの時のまりあの姿が現れては消えていった。

 一時間ほどで目的地の貴船神社に出た。貴船川の清流が勢いよく流れ、空気は清涼で 実に気持ちが良い。市街地に比べても気温はおそらく五度くらいは低いだろう。京都の奥座敷であり避暑地でもある貴船では、貴船川にかかる川床が京都の夏の風物詩として親しまれている。川床といえば鴨川が有名だが、あれは川岸に高床式の床を構えて川を眺めるテラス席に過ぎない。一方貴船では清流のすぐ真上に床を張り涼を取る本格的なものだ。その川床の準備がそろそろ始まっていた。私たちは貴船神社を参拝し、貴船口から再び京福電鉄に乗り込み帰途についた。

    §

 六月も下旬を迎え京都の街もだんだんと夏の気配が強まってきた。そんなある日上田先輩が部屋を訪ねてきた。

「柏木君ちょっとええかな?」
「はい。どうぞ。」
 上田先輩はニコニコしながら部屋に入ると、テーブル兼用のコタツの前に座った。

「実はさ、今日はちょっとお誘いに来たんだ。」
「お誘いって何ですか?ちょっと怖いですね、ははは。」
 私が笑って答えると
「そやろ。ちょっと怖いかもしれへんで。今日の話は。」
 芝居じみた睨め付けるような表情でそう言うと、次の瞬間笑顔に戻って
「状況劇場って知っとる?赤テントでやる演劇集団なんやけど。」
 と一枚のチラシを私に見せた。
「名前は聞いたことがあるような気がしますけど。赤テントとか黒テントとか。」
「今流行りのアングラ劇団やね。赤テントが唐十郎で黒テントが佐藤信やな。」
「へええ、先輩詳しいんですね。僕は生の演劇はほとんど見たことなくて。」
「それじゃあいい機会だから一遍見とくとええよ。実はな、今度の木曜に下鴨神社の糺の森で
 赤テントの芝居がかかるのよ。仙台時代の合唱部の後輩と行く予定やったんだけど、そいつ
 が急に行けへんくなって。それで柏木君どうかなって。」
「ああ、そういうことだったんですね。アングラ演劇面白そうですね。興味あります。もし良
 ければ一緒に連れて行ってください。」
「よっしゃ決まりや。チケット代は千円やけどええよね。」
「はい大丈夫です。」
 私が財布から伊藤博文を、上田先輩はチケットをそれぞれ取り出し交換した。
「どんな演目なのかな。」
 コタツの上に置かれたチラシを手に取ると、そこには『腰巻おぼろ妖鯨篇』とあった。
「俺も一度仙台で見たことがあるだけなんやけど、とにかくひっちゃかめっちゃかなんよ。今
 回のも唐十郎の新作ちゅうことやから、どんな話なのか全くわからへんわ。」
 上田先輩もそこまで詳しいということではなさそうだった。
「ほんじゃ、当日三時過ぎくらいに一緒に行こうや。あ、そやそや。演劇いうてもテントの中
 にギュウギュウ詰めよってに、汚くなってもいい恰好しといてや。頼むで。」
 そう言い残すと、先輩は鼻歌を唄いながら階段を下りて行った。              

 その日は前日までの雨は何とか上がったものの、相変わらず空気はジメジメとして蒸し暑い一日だった。上田先輩と二人で下鴨神社の広い境内の木立の間を進んでいくと、ポツリポツリと長髪ジーンズの若者の姿が目につくようになってきた。彼らの進む方向についていくと、その先に意外と小さめの赤いテントが見えてきた。

 夕暮れ時となり森が徐々にその暗さを増し始める頃には、テントの周りは多くの若い男女で溢れんばかりになっていた。そしていよいよ開場時刻。私たちもその群衆の名もなき一部として、大きな波に運ばれていくかのようにテントの中へと押し込まれていった。

 入場口の真向いの一番奥がステージだった。ステージと言っても高さ二十センチほどのミカン箱を並べたような土台に床用合板を置いただけ。客席も地べたに貼ったシートの上に茣蓙を敷いただけのものだ。その茣蓙席に観客は身動きすらままならない形でギュウギュウ詰めで押し込まれていく。入口とステージを結ぶ通路が一本あるだけで、それ以外は全部観客で埋め尽くされ、ステージとの境界もよくわからない。テントと地面に結構な隙間があったから良かったものの、そうでなかったら人いきれで全員酸欠になってしまいそうだ。

 『いくらテント芝居とはいえカネを取ってこれはないだろう。』と、私はその扱いに少し気を悪くしていた。しかし周囲の観客はそうでもなさそうだった。居心地の悪さは極めつけだったが、これがアングラ演劇の熱気なのかと私は変な意味で感心していた。そうこうしているうちに場内の灯りが消された。いよいよ開幕だ。夕ぐれの陽光を浴びた赤テントの内部は、鈍い赤銅色でその空間を満たしていた。

 主役の李礼仙がスポットライトの中登場し芝居が始まった。しばらくして看板俳優の根津甚八がマドロス姿で颯爽と登場した。クールな二枚目だったが意外と小柄で華奢な感じだ。李礼仙のオーラが凄すぎるせいなのか、彼女に比べてイマイチ存在感に乏しい。

 芝居が進み、彼はぎゅう詰めの観客を踏みつけるようにして客席の中を歩き回る。観客は困惑することもなく、自分も演劇の一部となっているかのように喜んでいる。芝居の後半になって小太りの唐十郎が現れ口角泡を飛ばして罵りの言葉を喚き散らす。その台詞回しや身振り手振りの大仰さは、素人の田舎歌舞伎みたいだった。しかし役者陣は真剣そのもので役に没頭しており、唐十郎の眼には狂気の色さえ感じられた。私はそのシッチャカメッチャカさにすっかり圧倒されていた。口をポカンと開けて見つめるのが精一杯で、物語りの内容にまで頭が付いていかなかった。

 何が何だかわからぬまま芝居は進み気が付くと終演となっていた。入場のときとは逆に赤テントから続々と客が吐き出されていく。巨大な鯨の腹のような赤テントからようやく生還できるのだ。私も胸に抱えていた靴を履き直してテントの外へと出た。少々過剰な若者の熱気から解放されて私はようやく人心地ついた。糺の森の夜気が何とも気持ち良い。

 上田先輩は明らかに昂奮しているようだった。私もとんでもないエネルギーにすっかりあてられていた。気づかぬうちに影響を受けていたのだろう、自分ももっと破天荒になってもいいように思えてきた。このまま真っ直ぐ下宿に戻るという気分ではなかった。京都へ来てからこれまでずっと控えていた酒だったが、『今夜は飲むしかない』と上田先輩を誘って繁華街へと繰り出すことにした。

    §

 二人は三条木屋町を少し下ったところにあった小さな串カツ屋に入った。それは屋台を少し立派にしたようなカウンターだけの安っぽい店だった。ビールで乾杯して安い串を何本も食べた。腹は満たされたが少し飲み足りない。しかし上田先輩も飲み屋は全くわからないと言う。それはそうだ。予備校生に行きつけの飲み屋があるほうがどうかしている。その時私はあの店を思い出した。確かこの近くだったはずだ。記憶を頼りにしばらくその辺を歩き回ってようやく辿り着いたのが、修学旅行の自由時間にまりあとデートした、あの「ヴィオロン」だった。

 上部がアーチ型になった重厚な木製ドアを開ける。美しいステンド・グラスの照明スタンドがカウンター周りをポワーンと浮かび上がらせている。そのノスタルジックな光景は一年半前と何も変わっていなかった。古びた木材のどっしりとした感じもどこか懐かしい。平日ということもあってか、客はカウンターで飲んでいるサラリーマン風の男性一人だけだった。私と上田先輩はその客から離れた中二階のテーブル席に陣取り水割りを注文した。上田先輩には黙っていたが、そこの壁には私が書いた相合傘の落書きがあの日のまま残っていた。

 今日流れている音楽はジャズではなく、浅川マキのアルバムだった。彼女も日本の歌謡界とは一線を画しているアンダーグラウンドな存在だった。どうしたことだろう、唐十郎の赤テントといい、浅川マキといい、今夜は何ともアングラな夜じゃないか。

 水割りをチビリチビリと飲りながら上田先輩とさっき見た芝居の話をしたのだが、二人共到達した結論は『良くわからん』というものだった。ただ上田先輩はあの群衆の発するエネルギーがえらくお好みらしい。私は少し違っていた。元々群れることに違和感を覚える性質だったし、少し常軌を逸したようなあの熱気は、新興宗教やカルト集団みたいで正直ゾッとするものがあった。私はこうして静かな店で浅川マキを聴いているほうがずっと気分が良い。

 すると突然カウンターで飲んでいた若いサラリーマン風の男が、私たちの方を振り返り声をかけてきた。

「おい若いの。今、唐十郎の話してなかったか?」
「はい。今夜下鴨神社で赤テントの公演があって見てきた帰りなんです。」
 私が少し大き目の声で返事をした。
「ふうん。そこじゃ話が遠いな。おい、お前らちょとこっちに来い。」
 私が眼で上田先輩に『どうしようか?』と問いかけると、先輩は黙って頷いた。
「それじゃ、お邪魔します。」
 二人は水割りのグラスを持ってカウンターに移動した。

「それでどうだった?面白かったか?」
 だらしなくネクタイを緩めたサラリーマン風は少し眼がとろんとしていた。既にかなりメートルが上がっている感じだ。
「面白いと言えば面白いんでしょうかね。正直良くわからなかったですけど、あのエネルギー
 は凄まじかったです。」
 私が答えると
「ふーーん。そうなのかねえ。唐十郎ねえ。悪ふざけだろ、あんなの。」
 と毒づいてきた。
「悪ふざけっていうことはないんじゃないでしょうか。真剣にやってましたよ。」
 上田先輩が少しムッとして言い返した。
「真剣ねえ。そうだよ、あれは真剣な悪ふざけだな。ハハハ。」
 意外と核心をついているかもしれないと私は少し感心した。

「ところでお前ら学生か?どこの大学だ?」
 サラリーマン風は痛いところを突いてきた。
「まだ予備校生ですけど。」
 少し酔いも回って気が大きくなっていたこともあるが、私は卑屈になってたまるかという気分だった。
「予備校生の分際で酒くらうってか、いいご身分だな。」
「はぁ。」
「まあいい。どうせ金無いんだろ。こうやって話をするのも何かの縁だ。奢ってやっからこれ
 飲めや。」
 サラリーマンは自分のボトルを差し出した。

 『意外といい人じゃないか』と思いつつサラリーマンを良く見れば意外に若い。こちらのことを青少年呼ばわりするほどの歳ではなく、兄貴といってもいいくらいの年格好だ。しかしあまり良い酒ではなさそうだ。もちろん何があったかは私に知る由も無い。

 初対面の相手に名前も名乗らずにご馳走になるのはケジメがつかないと思い、私は改めて自己紹介した。
「それじゃあお言葉に甘えてご馳走になります。あ、私は柏木といいます。北海道出身です。
 こちらは同じ下宿仲間の上田さん。彼は高校は仙台なんですが、生まれは宮津なんで地元と
 言えば地元なんですかね。」
 上田先輩が横で軽く会釈した。
「それはご丁寧にどうも。じゃあ俺も名乗りをあげにゃならんな。俺は芹沢だ。生まれも育ち
 も東京、チャキチャキの江戸っ子よ。仕事でこっちの支社に飛ばされて、こうしてここで酒
 をかっくらってるっつう寸法よ。」

 そう言うと兄貴は半分ほど入ったグラスをグイと飲み干した。カランカランと氷が小気味よい音をたてた。ここはサービスしておこうと、私は空になったグラスを手許に引き寄せ水割りを作ると再びコースターに戻した。そのとき兄貴はカウンターの向こうをじっと見つめたまま突然こんな質問をしてきた。

「お前ら将来何になりたいんだ?」
「モノ書きになれたらいいんですけど。」
 私の口から咄嗟にそんな言葉がこぼれた。それは自分でも意外な答えだった。
「ホーゥッ・・・」
 酔った兄貴の目が一瞬マジになったような気がした。
「何か書いたことあんのか?」
「ええ、ちょっとだけ。」
 ここは適当に話を合わせておいた方が良いような雰囲気だ。
「その時どんな感じがした?ん?」
「他人に読まれると思うと、ちょっと気恥ずかしいというか、そんな感じが。」
「それよ!それ!」
「えっ?」
「モノを書くっちゅうことはコッパズカシイことなんだよ。だってそうじゃねえか、書かれた
 ものには自分の体験とか人間性とか、そういうもんが全部浮かび上がってくるわけよ。だか
 らな、それをコッパズカシイと思ってちゃ何も書けんのよ!」
「兄貴は作家なんですか?」
「おうよ。今は身過ぎ世過ぎのための宮仕えだがな。」

 良く良く話を聞いてみると、今は広告代理店の電王堂勤め。学生の頃から小説を書いていて、いつかは筆一本で身を立てたいと願っているが、なかなか世間がその才能を認めてくれないという。改めて良く見ると細いカラダに鋭い目付きをしている。それは私が教科書で知ってる芥川や太宰に似ていないこともない。そういうタイプがあるのかどうか良くわからないが、見ようによってはよくある作家タイプのようにも見えた。

「お前にその覚悟はあるのか?」
「えっ?」
「覚悟だよ、覚悟。」
「何の覚悟ですか?」
「バカかお前は、恥を晒す覚悟だよ!」
「・・・・・・。」

 私は返す言葉を持ち合わせていなかった。
 そうこうするうちに兄貴はいよいよもって泥酔状態に嵌り込んでいった。
「俺ん家で飲み直しだ!ついて来い!」

 訳が分からないまま三人はタクシーに乗り込んだ。真っ暗な道を十五分ほど走ってアパートに到着したが、ここが一体どこなのか私には全くわからない。危ない人ではなさそうだし、こちらは二人組、まあ何とかなるだろうと腹を括って部屋に入った。間取りは片隅に台所が付いた広めの居間と寝室という質素なもので、居間には大きな座卓がドカンと置かれ、隅っこに座り机があった。部屋中に本が雑然と積まれており、机の上には原稿用紙の束がいくつか無造作に置かれていた。

「さあ、飲むぞ。おまえら手伝え。」
 兄貴は酒瓶を手にして、私に台所の洗いカゴにあるグラスを持ってくるよう命じた。
「氷と水もいるな。おい、お前上田、台所のボールに氷を入れて持ってこい。水は要るやつが
 自分で何とかしろ。」
 と言い放つと座卓の前にドカッと座り、グラスに酒を注ぎ始めた。

「若いっていいよな。クソッ。羨ましいぜ。おお。飲め飲め。それにしても暑いな。」

 兄貴はおもむろに立ち上がると、スーツを脱ぎ始めた。ネクタイを取りワイシャツをその辺に放り出し、ランニングシャツとパンツ一丁になった。

「そうだ、お前に見せてやるって言ってたな。俺の原稿。」
 そう言うと机の上に置いてあった原稿用紙の束の一つを持って来た。
「興味があるなら読ましてやる。だがな俺が心血注いで書いた原稿だ。絶対汚したりすんなよ。
 いいな。」

 兄貴は原稿用紙の束を私の前に押して寄越した。それは十センチほどの厚みがあった。ページ数にするとどの位になるのだろう、五百ページ位だろうか。それはとてつもない存在感を放っていた。

 兄貴はロックでウイスキーをチビチビ飲んでいたが、実際の大作の圧倒的な物量に驚いている私の姿を見て、『どうだ、畏れ入ったか』とでもいうような満足げな表情を浮かべていた。

「ちょっと小便。」

 兄貴はそう言ってフラフラと立ち上がるとトイレへと歩いて行った。しばらくして水が流れる音がした。兄貴は何の躊躇いもなくそのまま寝室へと向かい、万年床に横になったかと思うとあっという間に高イビキだった。

 残された私と上田先輩はどうしたものかと相談した。場所もわからないし、時間も時間なので今晩はとりあえずここに泊めてもらうことにした。そうと決まればと、二人はグラスに残ったウイスキーを飲み干してしまうことにした。

「ところで柏木君、それ読むつもりなんか?」
 上田先輩が聞いてきた。
「いや、正直今夜はもう疲れちゃったし酔ってるからパス。生の原稿だし、何か間違いがあっ
 たら責任取れないしさ。」

 私はそう言うと原稿用紙の束を元の机の上に丁寧に戻した。グラスを空にした二人は座布団を枕にして服を着たまま雑魚寝をした。赤テントの演劇を見てからここに至るまでジェットコースターに乗ったような夜だった。横になりながらボソボソと話しているうちに二人共いつしか深い眠りに落ちていった。                                     

 突然甲高い音が聴こえた。しばらくしてそれが目覚まし時計の音だと気づいた。朝の陽が窓から差し込んでいる。私は眼を覚まし起き上がった。上田先輩も眼をこすりながらもぞもぞと動き出した。うるさく鳴り響いている例の音が止んだ。どうやら兄貴も起床したらしい。こちらに歩いてくる音が聞こえた。

「誰だ、お前ら?」
 兄貴は驚いた顔をしてその場に立ち竦むと、一歩腰を引きながら大きく目を見開いてこちらを見ている。

「おはようございます。昨日ヴィオロンで意気投合して。」
 私がそう言うと、兄貴は頭を振りながら、ハッと思い出したようにシャンと起立した。
「ん?ん?ああ、そうだった。そうか。」
 どうも昨晩の出来事は良く覚えていない様子だ。特に後半は。
「俺はこれから会社なんだから、いいからさっさと帰れ。」

 兄貴はそう言い放つと私たちを部屋から追い出しにかかった。私たちはきちんとお礼を言う暇もなく荷物を掴むとそそくさと部屋を出た。昨夜の疲れとアルコールのせいで頭はまだ朦朧としていた。それは上田先輩も同様の様子で、しきりと寝惚け眼を擦っていた。

 ちょうど通勤時間帯で勤務先に向かう人々の流れにくっついていくと、最寄りの駅が見えてきた。それは叡山電車の宝ヶ池だった。鞍馬に行く途中の駅だ。ここならどう帰れば良いか私にもわかった。ホッと一安心して電車に揺られ出町柳を目指した。それにしても全く先の展開の読めない何ともアバンギャルドな熱い一夜だった。人生にはたまにはこんな変テコな夜もある。

    §

 それから数日、あの夜咄嗟に口をついて出た言葉がどうにも頭から離れなかった。

「モノ書きになれたらいいんですけど。」

 高校の頃、私のいたクラスでは一冊のノートに様々な書込みをしては皆で回し読みをして遊んでいた。内容は雑多。ある者は読んだ本の感想を、またある者は映画や音楽の評論を、その他イラスト、ショート・ショートと呼ばれた超短編小説から人生論まで。書き手は数名だったが、そのノートはクラスメイトの多くに回し読みされ、一時期かなりの盛り上がりをみせていた。それは何の変哲も無い一冊の大学ノートにすぎなかったが、ちょっとした同人誌のようでもあり、オリジナルの力とでもいうものなのか、確かに唯一無二の魅力があった。

 私もその書き手の一人だった。どこかで読んだ本の受け売りの青臭い人生論などを書いては独り悦に入っていた。今にして思えば、内容はガキが底の浅い知識を切り貼りしただけの何とも空虚極まりないものだった。それでも頭をひねりながら文章を紡いでいくこと、そしてそれを誰かに読んでもらえることは私にとって実に楽しい体験だった。

 高校三年となり、いよいよ本格的に針路を決めなければならない時期を迎えても、私には『将来ああなりたい、こういう仕事に就きたい』という現実味をもった具体的な目標は何も無かった。周囲の雰囲気に流されて漠然と『医者になろうかなあ』などとお気楽に構えていた。ところが学力試験の物理で奮闘努力して全問解答した結果はまさかの零点。担当教師からは「君は理系には向いてないんじゃないの?」と言われる始末だった。

 この出来事は私にとって結構なショックだった。『薄々感じてはいたものの、やっぱり医者は無理なのか』と。この時点で私は一気に文系転向を決心したのだった。そんなこんなの頃、ある友人から「将来どうするの?」と尋ねられて、とっさに「モノ書きになる。」と答えている自分がいたのだ。それを私は思い出していた。

 それにしても当時の私は何でそんな事を言ったのだろう?その理由を私は改めて考えてみた。実のところ、理系脱落文系転向組としてはそれが精一杯の見栄だったのかもしれない。確かに幼い頃から本の好きな子供だったし、自分自身で何かを表現することに快さを感じていたのも事実だった。当時生意気にもジャズを演っていたことも、その一つの表われと言えないこともない。そして何よりも「モノ書きはカッコイイ」という盲目的な思い込みが背景にあった。それは間違いないし、今も基本的には変わっていない。

 私はサラリーマンになって上司の命令に従って何となく生きていくのはカッコ悪い生き方だと蔑んでいた。そんなチマチマした人生だけは送りたくないと思っていた。反対に組織の力に頼らず誰からも命令されること無く、自分の能力ひとつで創造的活動をする文化人や芸術家は、誰が何と言おうとカッコイイ。そういうある意味天才肌の生き方こそが憧れだった。カッコイイ存在になることがとどのつまり私の目指すところであり、その具体像は何であろうと構わなかったのだ。そんな価値観だから、ガリ勉はカッコ悪く、勉強せずに試験でいい成績をとることはカッコイイ。合唱はカッコ悪くジャズはカッコイイとなるのだ。

 さて、そこでこの間の夜の話となる。カッコイイ代表選手だと思っていた作家が、カッコワルイことの代表ともいうべき、「自らの恥を晒す」という覚悟なくしては成り立たないとは。私はとんでもないことに気づいてしまった。何という矛盾だろう。

 同じく「表現する」「創造する」という行為であっても、言葉を操る作家とそれ以外の芸術家では置かれている状況は少し違っている。例えば音楽の場合は受け手の直観的・抽象的印象ともいうべきものが圧倒的に強く、作品そのものに作者の人間性が直接的に現れるということは少ないのかもしれない。美術にしても同様だ。一方、言葉での表現を余儀なくされる文学の場合は、その言葉の積み重ねの裏に、どうしたって作家の人となりや人生観が如実に炙り出されてしまう。自分が何かを伝えたいと願って書いたモノには紛れも無くその作者の人間性が現れるし、逆にそれ無くしては読み手に自分の伝えたいと願ったことも伝わらない。ましてや感情を揺り動かすことなど有り得ない。そうなると、モノ書きになるためには自分自身を曝け出すという開き直りというか、ある意味での強さがどうしたって必要になってくる。

「お前に自分の恥を晒す覚悟はあるのか?」

 あの兄貴の言葉が何度も何度も圧力をかけるように迫って来た。ええカッコしいの私は、自分の弱みを自分自身でさえ受け止めきれていなかった。何があろうと自分の弱みを他者に覚られてはならなかった。そんな人間がそこまでの覚悟を持てる由もなかった。それは当然の帰結だった。私が発した「モノ書きになれたら云々」という言葉は、小さな子供が将来の夢を尋ねられて「消防士」とか「パイロット」などと答えるのと同様、身の程を知らぬ浮ついた憧れに過ぎなかったのだ。

 私はまたしても振り出しに戻ってしまった。自分が情熱をもって生涯かけて取り組めるものは一体何なのか。医者への道は高校時代に適性が無いと諦めた。音楽の道は才能という点で自ら見限った。おぼろげながら形を成しつつあった作家への道も覚悟という大きな壁に跳ね返されて砕け散った。今の私のポケットには他には何も残っていなかった。

    §

 六月も終盤となり京都はずっと雨模様の日が続いていた。梅雨を知らない私には何とも鬱陶しい気候だ。徐々にその程度を増しつつある蒸し暑さに閉口しつつも、予備校通いをしていたある日の放課後、クラスの栗林楓ちゃんに声を掛けられた。

「あのう、柏木君。今日はこの後って何か予定入ってる?」

 少し俯き加減でもじもじしている。彼女は女の子としては大柄だったが、何とも少女らしい少女だった。服装や髪型なども可愛い女の子そのもので、今日もフリフリやリボンの付いた夏らしい白のワンピース姿だった。とても恥ずかしがり屋で、彼女から話しかけられたのはおそらくこれが初めてだった。

「ううん、別に何もないよ。」
「ああ、良かった。」
 彼女はそう言うと顔を真っ赤にした。

「実はね、私、あまり京都の街って知らないの。でもね、こうやって毎日通っているんだから、
 せっかくなら京都をもっと知りたいなって思って。」
「うんうん。」
「それでね、私甘いものが大好きなのは知ってるでしょ。」
「そういえばそうだったね。」
「うん。それでね、四条にある『くずきり』で有名なお菓子屋さんに行ってみたくなって、理
 恵ちゃんと雅子ちゃんを誘ったんだけど二人とも今日はダメみたいで。」
「そうかあ。それは残念だねえ。」
「私も仕方ないって諦めようとしたんだけど、理恵ちゃんに『それなら柏木君に連れて行って
 もらったら』って言われて・・・。」
「ああ、そういうことか。いいよ、行こう行こう。」
 私の答えに楓ちゃんは笑顔になった。
「ダメって言われるかと思ってドキドキしちゃった。」
「それでそのお店は何ていうの?」
「鍵善っていうんだけど。わかる?」
「ちょっと待ってね。」
 そう言うと私は鞄の中を探って交通公社のポケットガイドを取り出した。いつも携帯している私の京都の案内役、青紫色の表紙の頼れるやつだ。

「鍵善、鍵善、あ、これだな。鍵善良房『くずきり』って書いてある。」
「そうそう。 鍵善良房。」
「えーと、場所は四条大橋を渡って八坂神社の手前かあ。わかりそうだな。」
 ちょっと間があって、楓ちゃんが小声で呟いた。
「あのう、柏木君、私と柏木君の二人だけで出かけてもいい?」
「もちろん構わないよ。」
 私は何も考えないで即答した。
「江戸時代から続く老舗の味かあ、楽しみだなあ。そうと決まれば早いにこしたことはない。
 さあ行こう。」
 私の言葉に楓ちゃんは笑顔を見せて、小走りに荷物を取りに駆け出した。

 二人で市電に乗り込んで四条河原町へと向かった。蒸し暑く時折日差しが強く照り付ける中、四条通りを八坂神社を目指して並んで歩いた。楓ちゃんは白いレースのハンカチでしきりに顔を扇いでいた。 鍵善良房はその商店街の左手の一角にあった。大きな暖簾のかかった京都らしい趣のある外観で、伝統を感じさせる老舗の風格が漂っている。私たちは真っ直ぐ二階の茶房へと向かった。

 弱めの冷房が効いた店内は実に心地よかった。黒蜜でいただく『くずきり』は私にとっても初めてだったが、甘すぎず良く冷えていてとても美味しかった。

「ああ、美味しかったあ。」
 楓ちゃんも大満足の様子だった。ここで少しお喋りをしようかと思ったが、そこは観光名所的な名店、客の出入りも激しく何となく落ち着かない。

「楓ちゃん、時間が大丈夫ならこの後場所を変えて少しお喋りしない?」
 私の誘いに
「うん。大丈夫。」
 楓ちゃんはにっこりと微笑みながら答えた。
 私はまたポケットガイドを開いて近場にある喫茶店を探した。今までジャズ喫茶にしか足を運んでいなかったが、京都には伝統のある素敵な喫茶店が何軒もあるようだ。その中から私は一番近くにあった「ソワレ」に行ってみることにした。


 「喫茶店ソワレ」は 四条通りと西木屋町通りの交差点をを少し上った繁華街のど真ん中にあった。それは両隣りを現代的な商業ビルに挟まれた、石造りと木造を折衷させたような小さな建物だった。屋上には可愛らしい塔があり、都心の街角にひときわ異彩を放っている。聞けば 昭和二十三年開業とのこと。

 扉をあけて中に入ると、切妻の屋根を支える頑丈な垂木と骨太の梁が見事な三角形を形作っていた。それをアーチ型の構造材が更に補強しているのだが、その姿は実に幾何学的で優美でもある。むきだしの荒々しさを和らげるかのようにそれぞれの構造材には細かな装飾が施されており、木材の焦げ茶色と白い漆喰壁のコントラストはさながら中世ヨーロッパの小さな教会のようだ。

 照明も凝っており、天井には歴史を感じさせるさまざまなシャンデリア、そこにアンティークなスタンド類が彩りを添えている。ショウケースに並ぶ西洋骨董店と見紛うばかりのコーヒーカップやグラスの数々、壁にかけられた東郷青児の妖艶な絵画などが『ソワレ(夜会)』という店名を演出するような青く沈んだ間接照明の中に浮かんでいる。それは紛れもなく日本という風土に溶け込んだ西洋であり、得も言われぬ独特な昭和ロマンを漂わせていた。

 この店全てが正真正銘のアンティークだった。札幌でもアンティーク風のインテリアの喫茶店はあったが、この『ソワレ』に足を踏み入れた今となっては、あれはあくまで「風」だったと私は思い知らされた。

 楓ちゃんもその雰囲気に大いに感じ入ってるようだった。私たちは二階へ上がり、高瀬川を見下ろせる窓際の席に付いた。全体に薄暗い店内だったが、ここだけは初夏の陽光で満たされていた。私はアイスコーヒーを注文し、楓ちゃんは店の看板メニューであるゼリー・ポンチにバニラアイスを乗せたフロートを注文した。それは無色透明なソーダ水の中に青・赤・黄・緑・紫など色とりどりの小さなサイコロ型のゼリーが散りばめられ、炭酸の泡と共にキラキラと輝いていた。二人はしばらくの間その美しさに見とれていた。

「いつまでも見ていられるけど、アイスが溶けちゃうから楓ちゃん早く食べないと。」
 私の言葉に彼女はにっこりと微笑むとスプーンで口に運び始めた。
「わあ。おいしい。こんな素敵なお店があるなんて全然知らへんかったわ。ほんとなら私が柏
 木君を連れてきてあげなくちゃいけへんのにね。」
 少しリラックスしたのか、今の彼女は私を真っ直ぐ見ていた。
「楓ちゃんがニコニコして食べているのを見ると、こっちまで何か嬉しくなる。」
 私は笑って答えた。

 のんびりとした時間が流れる中、二人はとりとめもないお喋りをした。私はついこの間体験した、唐十郎の芝居見物から始まるアヴァンギャルドな夜の出来事の話をした。彼女は目を輝かせて食い入るように聞いていた。彼女には想像もつかない世界の話で、とんでもない冒険談を聞いているかのようだった。

「柏木君ってすごい大人なんやね。」
 楓ちゃんが尊敬の眼差しで呟いた。
「そんなことはないだろうけど。でも、酒とかタバコとか平気でやっちゃうし、世間的に見れ
 ば、大人というよりは不良ってことになるのかもねえ。」
 そう言う私に
「全然そんなことないやん。柏木君は不良やない。」
 あの大人しい楓ちゃんが少し怒ったように声を荒らげた。

 私が驚いているのに気づいたのか、彼女はまた声を元のトーンに戻して呟いた。
「私、同い年の男の子で柏木君みたいな人、今まで知らんかったから。」
「楓ちゃんはずっと真面目な人に囲まれてきたんだね。うちの高校では僕みたいのが大勢いた
 から、自分がちょっと変わってるなんて感覚は全く無かったんだけど。」

 そう言いながら、私は『きっと彼女は大阪の比較的良いところのお嬢さんで、両親に大事に育てられてきたんだろうな』と思いを巡らせていた。

 しばしの沈黙が流れた後、楓ちゃんが空になったゼリー・ポンチのガラス器を見つめたまま話し始めた。

「柏木君、この間のエキスポランドで理恵ちゃんに付き合っている人いるかって聞かれたで
 しょ?」
「うん。聞かれた。そういう人はいないって返事したかな。」
「実は、あれって私が理恵ちゃんにお願いして聞いてもらったの。」
「えっ?」
 驚きが咄嗟に口をついて出た。そんなこととは思いもしなかった。

「予備校に入って何となく毎日過ごしているとき、柏木君が私たちを誘ってくれたでしょ。私
 すごく嬉しかったの。楽しいお友達ができたって。そうなんやけど、そうなんやけど、一日
 一日と柏木君のことがもっと知りとうなって。」
 私は黙って聞いていた。
「とっても恥ずかしいんやけど・・・。」
 彼女は一瞬言葉に詰まった。
「もし今お付き合いしている人がおらへんのやったら、私じゃだめかなって。」
 そう言うと彼女はテーブルの上でハンカチを両手で握りしめた。

 私は『これは適当にはぐらかしてはいけない』と直観した。振られた形になってはいたが、私の心の中にはずっとまりあが居た。今でこそ音信不通になっているが、それもお互いの環境が劇的に変化したせいであって、時が経って落ち着きさえすればもう一度あの頃の関係に戻れるかもしれないと淡い希望を抱いていた。そこには他の女の子のことを想う隙間など全く無かった。その自分の気持ちを私は正直に伝えることにした。

「楓ちゃん、ありがとう。そんなに想ってくれて。だから僕も真剣に返事をするね。実は高校
 時代にずっと付き合っていた彼女がいたんだ。彼女は就職して今は東京で暮らしているんだ
 けど、高校の卒業式の頃にその彼女が何も言わずに僕から去っていったんだ。一体何が起こ
 ったのか、どうしてそうなったのか自分では全く思い当たることがなくて、僕自身今でも混
 乱しているんだけど、起こった現実は彼女に振られたということなんだと思う。だから今付
 き合っている人はいない。それは嘘じゃないんだ。」

 楓ちゃんは時折上目遣いで私の方を見ても、またすぐテーブルに視線を戻してしまう。

「振られたんだから、僕だって新しい恋に踏み出したっていいんだろうけど、どうやってもそ
 の彼女のことが頭から離れないんだ。それは今でも好きで好きでたまらないからっていうよ
 りも、起こった出来事に僕自身が納得いっていないからだと思うんだ。どうして何も言わず
 に僕から去っていったのか、その理由が判らないままでは次に進めないんだ。だから今は相
 手が誰であってもそういう気持ちにはなれなくて。」

 彼女はコクリコクリと頷いた。そして握りしめたハンカチで目元を拭うと、真っ直ぐに私を見て小声で話し始めた。

「柏木君おおきに。私の気持ちをきちんと受け止めてくれて。それと、ご免なさい。辛いこと
 を話させちゃって。」
「それは全然気にしないで。それより楓ちゃん、大丈夫?」
 私の問いかけに
「うん、大丈夫よ。私たちにはまだ時間があるし、柏木君の心の整理がついたら次のチャンス
 があるかもしれへんし、ね。」
 そう言うと彼女は無理に笑顔を作った。そんな彼女の健気さに応えるには、私も少しおどけ
て切り返すしかなかった。
「おっと、逞しいなあ。楓ちゃんは、ははは。もし良ければ今まで通り仲良くしてもらえたら
 嬉しいんだけど、それはあつかましいかな?」
「うんうん。私のほうこそよろしくお願いします。」
 初夏の夕暮れの光が差し込むテーブルを挟んで、二人はお互いに頭を下げた。

 ソワレを後にすると私は楓ちゃんを送って行った。彼女の利用する阪急四条河原町駅まではあっという間の距離だった。改札口で彼女を見送った。何とか元気そうにホームへと向かう彼女の足取りを見て、私は少しホッとしていた。黄昏が近づいてきた京都の街は夜の準備で忙しくなり始めていた。


 下宿へ戻ると私宛に一枚の葉書が届いていた。それは高校時代の同級生の綱島君からだった。彼とはそこまで親しい関係ではなかったので少し意外だった。

 文面は
『自分は今東京の聖晶大学に通っている。先日たまたまクラスメイトの築田君と会って柏木君
 が京都にいることを教えてもらった。実はこの夏休みに柏木君に会いに京都を訪れたいと思
 っている。ついてはそちらに泊めてもらえないだろうか。日程は七月二十日から二十二の二
 泊三日で考えている。』 というものだった。

 友人が訪ねてくれるのは決して嫌ではなかったが、その相手が綱島君というのがどうにもピンとこなかった。目が悪く度の強い眼鏡をかけており、天然ボケが持ち味のクラス内の剽軽者というのが私の彼に対するイメージだった。部活のバレーボールに一生懸命だったのは良く覚えているが、勉強のほうではあまり目立つ存在ではなかった。先生に指名されたときなども、どこかトボケた返答をしては先生にお目玉をくらう。そうすることでいつもクラスの皆を笑わせていた。それは覚えている。時折話もしただろうが、会話の輪の中にいても口数は少ない印象だった。それは言いたいことがあっても喋り切れず、言葉を飲み込んでいるような感じだった。当然のことながら突っ込んた話をした記憶も無い。

『そんな彼がまたどうして私の所に?』
 それが私の正直な気持ちだった。かと言って敢えて避ける理由も無かった。
『大学生になって貧乏旅行でもしたくなったのだろう。たまたま私が京都にいるのがわかって、
 丁度いいくらいに思ったのだろう。』
 私はそう解釈した。タイミング的にも予備校が夏休みに入ったところだし、二泊くらい付き合ってもいいかという心持ちになった。

『申し出は了解した。ただ下宿は電話連絡が難しいので、七月二十日の正午に京都駅北口の新
 幹線の改札口で待ち合わせをしよう。予定変更の際は連絡乞う。』 

 翌日私はその返信葉書を投函した。

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