【七月】***Seven Steps To Heaven***

文字数 16,189文字

 綱島君の葉書で、もうすぐ夏休みの季節になるんだと私は改めて実感した。京都の街は七月を迎えて蒸し暑さもいよいよその本気を出してきた。窓の無い私の部屋では既に扇風機が大活躍していた。ムッとする熱気が送られてくるだけだったが、それでも無風よりはずっとましだった。自室にいるときの私は、Tシャツ一枚すら鬱陶しく、ほぼほぼ上半身裸で過ごしていた。いくら若さ溢れる十八歳とはいえ、北海道で生まれ育った私にとって京都の蒸し暑さは堪えた。予備校には冷房目当てで真面目に通っていたが、勉強はなかなかはかどらない。日曜日の夕食は下宿仲間と外食していたが、既に酒を解禁していた私はそれだけではもの足らず、週に何度かスタミナ補給と言い訳して、夜中に下宿を抜け出しては近くの中華屋「金龍」で餃子とビールという生活を送っていた。

 そんな私に下宿仲間の誰かがいつも付き合ってくれた。ある日南村君と二人で餃子を食べながらビールを飲んでいると、
「柏木さんさあ、夏休みはどうしますの?」 
 とのんびり訊いてきた。
「うーーん、こっちで夏期講習を受けるか、それとも北海道に帰って涼しいところで勉強する
 か、まだ決めかねてるんだ。」 
 そう言う私に
「一言だけアドバイスやねんけど。京都の真夏はちょっと他とは違いまっせ。よっぽど覚悟し
 とかんと。」 
 彼は真面目に心配しているようだった。

「わかった。真剣に考える。で、お前さんは夏休みどうするの?」
「そうですねえ。まあ実家に戻るのは戻るんですけどね。その他にちょっと考えてることがあ
 るんやけど、実現できるかどうかわからんです。」
「何、何、そんな大変なことやろうとしてるわけ?」 
 私が笑いながら尋ねると、
「いやねえ。職業体験とかしてみたいかなって。俺って酒蔵の次男坊ですやん。大学出ても家
 業は兄貴が継ぐし、俺はどっかで仕事を探さなあかんのですわ。でね、実は牧場経営とかに
 ちょっと興味あるんですわ。それで牧場の仕事ってどんなんかなって。」

 私はビールを一口呷ってグラスを置いた。
「それなら俺が少しは力になれるかもしれないよ。俺の生まれ育った町は札幌の隣町なんだけ
 ど、結構な農業地帯で全国的にも有名な牧場もあるんだ。中でも里村牧場ってのがあって、
 そこは北海道の酪農家に優秀な乳牛を供給している牧場の中の牧場みたいなとこなんだけど、
 そこの長男坊と俺は小学校からの幼馴染でさ。家族ぐるみで昔からお付き合いさせてもらっ
 てるんだ。」
「へええ。さすが北海道。知り合いに牧場やってる人がいるなんて。それって結構当たり前の
 ことなんですか?」
 南村君は興味深げだ。

「ははは、そんなに当たり前のことではないかな。うちの親父は電力会社に勤めていてね、た
 またまその社宅が里村牧場のすぐ近くにあったんだよ。それでそこの長男坊と俺は小学校で
 同じクラスになってさ、しょっちゅうお互いの家を行き来するような仲になったって感じか
 な。もっとも彼とは高校は別々になって、それ以降は全然会ってないんだけどね。ヤツは現
 役で東帝大に受かったし、すっかり差をつけられちゃったけど、親同士は今でも仲が良いか
 ら、受け入れてもらえるか訊いてみることはできると思うよ。」
「柏木さん、その線でお願いしてええですか?」
「うん、いいよ。早速親に連絡して訊いてもらうようにするよ。それで期間とかはどんな感じ
 で考えてるんだい?」
「そうですねえ。こちらの我儘を言わせてもらえるんなら、八月の頭から三週間ほどだと有難
 いんですけど。」
「わかった。正直、俺も牧場の仕事ってどういうものなのか全然知らないんだよね。ひょっと
 するととんでもなくキツイ肉体労働かもしれないけど、大丈夫かい?」
「まあ一応ラグビー部で体力には自信があるから、大丈夫やと思います。」
 彼はそう言うと逞しい右腕に力瘤を作って見せた。                    

 その夜、私はこの夏休みの過ごし方について真面目に考えてみた。ここに残って予備校の夏期講習を受けるのがおそらく一番常識的な過ごし方なのだろうが、現段階でも私は京都の暑さにやられつつあった。真夏はこの比ではないとすれば、窓もないこの部屋でひと夏を無事越せる自信はとてもじゃないが持てなかった。そうなると答えは唯一つ、一時撤退だ。

 北海道の実家に戻って、自宅で今ある駿英予備校のテキストを徹底的に復習することにした。加えて少しアルバイトをして自由に使えるカネも蓄えたかった。アルバイトといっても本格的なことは無理。ちょっとした家庭教師くらいが精一杯のところだ。果たしてそんな都合の良い先が実際にあるのか。私はここでも親の力を借りなくてはならなかった。

 そうと決まればと、私は翌日実家に電話を入れた。手紙で伝えたいところだったが、時間的なことを考えると電話しかなかった。電話料金のことはこの際仕方がない。暑い電話ボックスのドアを脚で開けっ放しにさせながら、山積みにした十円玉をひっきりなしに料金口に投入した。ほぼほぼ私からの一方通行の通話だったが、十円玉はほとんど消えていった。

 私は用件のみを簡潔に伝えた。
『何とか元気でやっているが、京都の真夏には耐えられそうもない。そこで夏休みは北海道に
 戻って自宅で勉強することにした。その期間簡単な家庭教師のアルバイトをしたいので可能
 な先を当たってほしい。それと下宿仲間の南村君が里村牧場で八月の頭から三週間ほど職業
 体験したいと言っているが、受け入れ可能か訊いてほしい。』
 
 これに対して母親からの返答はこうだった。
『自宅に戻るのはわかった。里村牧場の件はすぐ訊いてみる。結果は速達郵便で知らせる。家
 庭教師のアルバイトの件はダメ元で知り合いに当たってみる。帰省の交通費は七月の仕送り
 に上乗せして振り込んでおく。』                            

 その数日後に母親から速達便が届いた。手紙の内容は南村君の里村牧場のアルバイトの件で、結論としては『受け入れ可』。ただし、扱いは他のアルバイトと同条件で寮生活、きつい肉体労働で休みは原則週一日。それに耐えられるようだったら来てくださいというものだった。

 私はすぐその内容を南村君に伝えた。彼は喜びはしたものの、しばらくするとちょっと困ったような表情に変わっていった。
「こうして話が具体的になると、ちょっと怖気づいちゃいますわ。俺ほんまに大丈夫やろか。
 全然知らない年上の人達と相部屋の寮生活もそうだし、週一日の休みでフルに身体を動かし
 て働き続けることができるやろか。」
「南村君、これはお前さんが望んだことなんだぞ。そのためにいろんな人が動いて今に至って
 るんだ。それを無しにするってどういうことか判ってるか。」
 私は少し厳しい声で問い詰めた。
「すんまへん。そうですよねえ。俺がお願いしたことですもんね。うん。うん。よし、こう
 なったら覚悟を決めるしかないっすね。」
 南村君は良く陽に焼けた顔を上げて、真っ直ぐ私を見た。
「知らない土地での挑戦だから不安になる気持ちはわかるけど、北海道の人はみんな優しいか
 らそんなに心配しなくて大丈夫だって。それは俺が保証する。里村さんもうちの紹介で来た
 人に変な扱いはしないよ。そういう人じゃないから。最悪イザとなったらうちに逃げてくれ
 ばいいんだからさ。安心してチャレンジしてみるといいさ。」
 私はそう言うと南村君の肩に手を回した。
「はい。頑張りますわ。」
 彼はニコッと微笑んだ。大きな図体をしているが、彼もまたまだまだ世間知らずの可愛い少年なのだ。

 私は里村牧場の住所と電話番号、我が家の住所と電話番号を書いたメモを彼に手渡した。そしてアルバイト開始の前日に私の実家で一泊し、翌日私が牧場まで送って行くという段取りを説明した。二人は三週間のアルバイトで必要となる衣類や日用品などをリストアップした。こうして彼の夏休みの計画は実行に向かって本格化していった。

 七月の京都といえば、何をさて置いても祇園祭だ。京都の夏の風物詩であり年間最大のイベントでもある。七月のまるまる一か月をかけて行われる八坂神社の祭礼だが、その起源は平安時代に疫病退散を願って始まったものだといわれている。

 目玉はもちろん山鉾行事だが、「山」と「鉾」には違いがあり、てっぺんに松や杉の樹木が付いているものが「山」、金属の飾りが付いているものが「鉾」ということらしい。どちらも神霊を宿すための「依り代」として、疫病をもたらす疫神を集めて清め祓う役割を担っているという。山鉾巡行で疫神を集めて町を清めたその後に、八坂神社から神様を遷した三基の神輿が町を練り歩くのが、実は神事としての最大の眼目だという。あの豪華壮麗な山鉾巡行も、言ってみれば神輿渡御の大掛かりな露払いというわけだ。せっかく組み上げた大きな山鉾を巡行後あっという間に解体するのも、せっかく集めた疫神がまたふわふわと町中に広がることがないようにという願いをこめてのことらしい。

 この最大のイベントを、せっかく京都に暮らしている以上見逃すわけにはいかなかった。丸一か月の祭りといっても、その目玉は十二日に始まる山鉾の曳き初めから十七日の山鉾巡行までの一週間だ。この時期には組みあがった山鉾が四条通りにずらっと勢ぞろいし、さまざまな行事が開催される。特に山鉾巡行の前夜祭的意味合いの宵山、更にその前日の宵々山は祭りの最高潮ともいえるものだ。コンチキチンの祇園囃子が流れる中、夕刻になると山鉾に吊られた駒形提灯に火が入って幻想的雰囲気を醸し出す。私は下宿仲間と連れだって十六日の宵山見物に出かけた。

 それは私の想像以上に凄まじい祭りであり、凄まじい人出でもあった。四条通り界隈は人・人・人の波だった。押すな押すなの混雑ぶりでまともに歩くことすらままならない。それでも私たちは半分意地になって山鉾町の旧家の「屏風飾り」を見て回った。我慢や努力は十分報われた。そこには普段目にすることができない京都の伝統と歴史があった。

 しかしどこからこれだけ湧いて出てきたと思うような人の数である。夏の暑さに人間の発する熱気が加わり、日が暮れてから一気に増してきた湿気が更に輪をかける。まだ厄除けの粽ももらっていなかったが、私はすっかりへばってしまった。徐々に息苦しくなり、頭はボーッとし始め、このままではぶっ倒れそうだった。これ以上祭り見物を続けるのはもう無理だった。私たちは人混みから抜け出し這う這うの体で下宿へ戻った。

 この出来事で私はすっかり弱気になった。暑さの前に翌日の山鉾巡行への関心もどこかへ消え失せ、それに反比例するかのように、涼しい北海道の夏が恋しくなっていた。

    §

 一日も早く北海道に戻りたいという気分になっていた私は、綱島君の申し出に応じたことを内心後悔していた。しかし、ありがたいことに祇園祭をピークに強烈な暑さは和らいでくれた。少しばかり元気を取り戻した私は、約束の二十日の昼前に京都駅へと向かった。

 北口の新幹線の改札口で待っていると、Tシャツにジーパン姿の綱島君が図多袋を肩にかついでこちらにやって来た。やはり学生の貧乏旅行だ。しかし彼は今の私にとって招かれざる客になっていた。ひどい話だが、どこか京都の名所を二・三か所案内して早々にお引き取り願おうと私は考えていた。

 再会を果たした私たちはまずは昼飯を食おうと市電に乗り込み四条河原町に向かった。せっかくなら京都の名物が良かろうと、にしんそばの老舗「松葉」へ行くことにした。四条大橋を渡った京阪電車の祇園四条駅のすぐそばに松葉総本店があった。それは遠目には歌舞伎の南座と一体のように見える四階建ての趣のある建物だった。私たちは二階の窓際の席に案内された。

 室内は日本の古い田舎家の趣があった。しかしその内装には特に凝った感じも無く、フロア狭しとテーブル席がびっしりと並び、少々雑然としたその雰囲気は老舗の名店というよりも気取らない街の食堂のようだった。壁に飾られた京丸団扇の数々が、ここが祇園であることをかろうじて思い出させた。しかし窓からの景色はなかなかの絶品だった。四条大橋、鴨川、川端四条交差点を行き交う人々を上から眺めるというのは何とも不思議な感じだった。

 注文の段になって私たちは迷った。松葉に来た以上は名物の熱々の「にしん蕎麦」と言いたいところだったが、さすがにこの時期食指が動かない。さんざん迷った挙句、「冷やしにしん蕎麦」を注文した。身欠きにしんの甘露煮にとろろがかかっていて、これはこれで乙なものだった。二人で近況を報告しながら食事をし、これからの予定について話し合った。私は綱島君を迎えた後、急ぎで北海道に戻ることになっていることを説明し、明後日の昼頃までしか付き合えない旨を伝えた。彼は何かもごもご言っていたが、最終的にはそれで構わないという返事だった。それならば今日を有効に使おうと、下宿には寄らずこのまま清水寺観光に向かうことにした。

 松葉を出ると京阪の祇園四条駅のコインロッカーに荷物を預け、身軽になった体で散策を始めた。私は『京都はまだ祇園祭の期間中なんだ。』と説明して、すぐそこの八坂神社を参拝した。そしてその足で南へと下り清水寺を目指した。途中、八坂の塔の下にある文之助茶屋で冷えた甘酒とだんごを食べ、産寧坂をしばらく登ると清水の三重の塔が視界に入って来た。

 狛犬に挟まれた石造りの階段を上り、朱塗りの仁王門をくぐって境内へ入った。夏のこの時期はやはり観光客の数もそう多くない。私たちは右手に西門、更にその奥の三重塔を、左手に鐘楼を眺めながら歩を進め、「清水の舞台」で有名な本堂へと向かった。

 本堂では遠くからご本尊の千手観音菩薩 にお参りした後、檜舞台に出て京都の街並みを眺めた。東山の緑の山々の先に浮かぶ京都の街は建物が密集していて、暑気に揺らめいて見えた。しばらくここでのんびりした後、私たちは更に奥を目指した。修学旅行のときもこの地を訪れてはいたが、その時は単に視界に建物の姿を捉えているだけで、注意や関心は友達とのおしゃべりに向いていた。そんなことを思い出しながら進んでいくと、並んで建っている三棟の小ぶりなお堂が現れた。その一番奥にあるのが禅宗の堂宇のような質素な佇まいの奥の院だった。

 この奥の院こそが清水寺の始まりとなった旧草庵跡と伝えられており、開創を起縁する「音羽の滝」の真上に位置していた。ここにも本堂同様舞台が設けられており、ここからは本堂を含む清水寺の全景を眺めることができた。清水寺はまさしく巨大な柱によって緑深い山の急峻な崖の上に造り上げられた特別な建築物だった。古の人々がこのような優れた建築技術を持っていたことに驚かされると共に、それを成し遂げた熱意と努力には素直に頭が下がった。

 奥の院を後にして、本堂との間にある長い石段を降りていくとそこに「音羽の滝」があった。この湧き水こそが清水寺と名づけられた由来であり、創建以来枯れることなく流れ続けているとのことだ。三筋に分かれた清水から得られるご利益は、右側が延命長寿、真ん中が恋愛成就や縁結び、そして左側が学業成就とあった。ただし一度の参拝で得られるご利益は一つだけ。他の滝筋の水を飲んだり同じ滝筋の水を何杯も飲んだりすると、欲深さを見抜かれ逆にご利益がなくなってしまうらしい。由来を説明する看板にはそういうう注意書きが添えられていた。修学旅行で訪れたときの私は間違いなく真ん中の清水を選んだはずだ。そんなことを考えながら、今回は左側の清水を柄杓で汲んで口に含んだ。綱島君はどうするのだろうとニヤニヤしながら見ていると、彼は思案の末真ん中の清水を飲んだ。彼の願い事は恋愛成就だった。

 清水寺を詣でたことは大正解だった。期待以上にゆっくりと拝観することができたし、何よりも東山の深い緑が暑さを和らげ、気分をリフレッシュさせてくれた。今日の観光見物はここまでとし、二人は預けた荷物を取りにまた四条大橋に戻ることにした。その帰り途、産寧坂の途中にあった清水焼の店をひやかしながら覗いていると、奥から現れたお爺さんの店主に声を掛けられた。しばらく雑談をしていると、来月八月の五山の送り火の話題になった。

 夏の夜空にくっきりと浮び上る五山の送り火は、祇園祭とともに京都の夏をいろどる大イベントであることはもちろん知っていた。下宿のある西大路通りの先、大北山の山肌に浮かぶ左大文字の文字跡は私も毎日目にしている景色であり、興味のある話でもあった。

 最近はこの送り火の担い手が少なく、人集めに苦労しているらしい。
 そこで持ち掛けられたのが
『もし興味があれば東山の大文字の火を着けさせてあげるが、参加する気はないか?』
 というお誘いだった。
『重要な伝統行事に、私のような地元と何の縁も無い者が関わって良いものなのか?』
 私が正直な気持ちを伝えると、爺さんは
『自分が後見役になるから何の問題も無い。』と言う。

 しかしその時期私は北海道で過ごす予定にしている。その作業一つのために真夏の京都にずっと留まることはできない相談だった。私はせっかくの申し出をありがたく断った。

 後々気付くことになったのだが、もし参加していたとしたら、あの爺さんの言う着火作業だけで済むわけはなかったのだ。その前段階として燃料となる大量の木材を山の上まで運ぶというとんでもない重労働がある。そしてそれこそが私に期待されていたことだったのだ。「送り火の火を着けてみないか」という魅力的な誘いは、タダ働きの若い人夫を集めるためのおいしい餌だった。京都人の婉曲話法恐るべし。搦め手からじわじわと攻めてくる。人の言葉を真に受ける私のような田舎者がまんまとその餌食になるのだろう。                                                      


 二人はてくてくと歩き続け、祇園四条駅のコインロッカーから荷物を取り出して河原町へと向かった。商店街を北に向かって、ちょうど四条と三条の中ほどにあった喫茶店「インパルス」で少し休憩することにした。この界隈ではジャズ喫茶にしか出入りしていない私だったが、ここ「インパルス」は店の前を通るたびにいつか入ってみようと思っていた喫茶店だった。

 入口のガラス扉を開けて驚いた。間口が狭かったのでこじんまりとした小さな喫茶店なのだろうと思っていたら、ずっと奥までフロアが続いている。京都の町家に特徴的なうなぎの寝床そのものの造りだった。入口の近いところにカウンター席があり、その奥にはテーブル席がずらりとあった。向かって左側には壁に沿って奥の突き当りまでベンチ状のソファが続いている。そこに適当な間隔を空けててテーブルが配置され、向かい合う形で木製の椅子が置かれていた。右側は普通のテーブルと椅子の席が五組ほど。印象としては一人客に好まれそうなレイアウトだった。

 私たちはソファの席に座ってアイスコーヒーを注文した。店内を良く見回してみると、壁には素敵な絵画が整然と飾られており、それらを一つ一つ照らすようにレトロな照明が灯されていた。そして何と店の一番奥には石庭風の坪庭が設けられていた。まさに京町屋そのものだった。

 そしてもう一つ目を引いたのが、カウンター席とテーブル席の仕切りにある柱に無造作に飾られた一枚のLPレコード盤。良く良く目を凝らして見ると、それはレコード盤を加工した時計だった。そしてその古びたレーベルには「Impulse」とあった。あのコルトレーンの名盤を出しているジャズのレーベルではないか。

 アイスコーヒーを運んできたマスターに私はそのことを訊いてみた。

 マスターが語るところによると、
『昭和四十一年に先代が太秦でインパルスという名前のジャズ喫茶を開き、二年ほど後に河原
 町に移転。場所はこの店のちょうど真向かい。そのときジャズ喫茶とは別にこの純喫茶も開
 いた。当時は大人気のジャズだったが、だんだん下火となり大元のジャズ喫茶はその後閉店
 し、こちらの店だけが今も残っている。』
 とのことだ。

 そんな経緯もあってか、ジャズ好きの間では実は有名な店で、地元はもちろん、国内外から常連さんが通ってくれているとのことだった。近くのジャズ喫茶には足繁く通っていたが、それは私にとって初めて耳にする情報だった。交通公社の例のガイドブックにも載っていなかった。京都では以前はジャズはもっともっと隆盛だったのだ。それが衰退した今でも尚多くのジャズ喫茶が営業している。この街とジャズの関わりの強さを私は改めて実感した。

 気付けば私は客人の綱島君を放ったらかしにして、マスターと話し込んでいた。綱島君はといえば、その話題についていけず所在なさげに煙草をふかしている。彼も煙草を吸うようになったのかと半分驚いたが、その姿は正直サマになっていなかった。新しい客が入って来てマスターとの会話はそこで打ち切りとなった。

 私も綱島君との会話に戻った。先ほどの五山の送り火の話を例に出して、京都人と北海道人の感覚の違いや、文化の違いについて感想を語り合った。高校時代にはあまり気にならなかったが、綱島君には軽いドモリがあった。そのせいなのかこうして面と向かって話していると、会話がテンポ良く弾まない。私も次第に口数が減っていった。

 そろそろ晩飯時となり、私は木屋町で見つけた安い串カツ屋に彼を連れて行った。今日一日良く歩いた体にビールが滲み込んでいく。若い二人は食欲旺盛だった。山ほどの串を平らげて店を出て下宿に向かった。途中で私は下宿仲間と一緒に食べようと、果物店に立ち寄り冷やしてあった大きなスイカを一玉買って市電に乗り込んだ。

 夏休みに入った下宿では既に半数が帰省し始めていた。南村君も昨日私に挨拶して名張の実家へと帰っていった。まだ残っていた上田先輩と緒方君、秋葉君、岩崎君に声を掛けて、食堂でそのスイカを切り分け皆でかぶりついた。今晩泊まることになった綱島君を紹介し、ワイワイと雑談に花を咲かせた。上田先輩はとっておきの自分のウイスキーを持ってきて振る舞ってくれた。しばらくすると日中の疲れがドッと出てきた。私たちは早々に部屋に引き上げた。客用の布団など持ち合わせていなかったので、綱島君には申し訳なかったが、コタツテーブルを片付けて空いたスペースで雑魚寝してもらった。扇風機が静かに首を振り熱い空気を掻き回す中、二人は爆睡した。

 翌日は遅くまでダラダラとした後、近くの喫茶店で朝昼兼用の食事をし、その足で金閣寺見物に出かけた。ありがたいことに今日も暑さは一服の空模様だ。こちらも観光客の数はぐっと減っており、二人はのんびりと境内で午後を過ごした。晩飯は見栄を張らず、行きつけの力餅食堂の生姜焼き定食にした。その後二人で銭湯に繰り出して汗を流した。風呂上がりにゆっくり飲もうと、私は近くの酒屋で冷えた缶ビールを六本買って下宿に戻った。                  

 さて下宿仲間を誰か誘って飲み始めようとしたとき、綱島君が話しかけてきた。

「柏木君、今夜は最後の夜だし、二人きりでどうかな?」
 その口ぶりは私に大事な話があるような感じだった。
「そうだね。じゃあ俺の部屋で飲ろう。」
 私はそう答えるとビールの入った袋をぶら下げて階段に向かった。

 コタツテーブルにどっかと座り込んで、冷たいビールで乾杯した。
「京都は東京以上に暑かったろう?俺は暑さにはからっきし弱くてさ。」
 私はそうこぼした。
「僕も東京と言っても、普段の暮らしはずっと西の郊外だから、都心ほど暑くはないんだ。そ
 れに比べると京都は一段も二段も暑さのレベルが違う感じだね。」
「加えてこんな窓も無くて風も通らない部屋だもんな。たまんないよね。でもさ、窓の無い部
 屋があるなんて普通思わないだろ?北海道じゃ考えられないよね。」
「僕の東京のアパートもおんぼろだけど、さすがに窓はあるかな。」
「ゆっくり部屋を探す余裕も無くてさ、予備校で紹介されたこの下宿に来てみたら、窓のある
 部屋はもう全部埋まってて。でもまあ住めば何とかって言うしね。この夏場を迎えるまでは
 これでも結構快適に暮らしてたんだけどね。」

 そんなこんなをダラダラと話しながらビールをチビチビ飲っていたが、しばらくして綱島君がおもむろに昔話をし始めた。

「高校三年のときかな、クラスでノートが回ってたでしょ。皆が好き勝手にいろんなことを書
 いてたやつ。」
「ああ、やってたやってた。覚えてる。」
「柏木君も書いてたよね。ちょっと哲学的な感じのこと。」
「おっと。綱島君にも読まれてたんだ。ひええ。参ったな。あんな内容の無い文章。」
「いやいや、そんなことないよ。すごく感心して毎回じっくりと読ませてもらってたんだ。」
「勘弁してくれよ。何か穴があったら入りたいって感じになってきたな。」
「それでね、あの頃思ったんだ。柏木君って僕の十歩も二十歩も先を歩いてるんだなって。僕
 の周りはこんな凄い人ばっかりなんだって。それに比べて自分なんか、正直勉強では到底敵
 わないし、バレーも一生懸命やったけど試合にすら出られないし。これでも中学のときはそ
 こそこ出来る方だと自分では思ってたんだけど、高校になったらもう天と地というか。」

 綱島君の話はだんだんと自分語りになってきた。

 確かに私の学年のバレーボール部は強かった。北海道、いやその年全国一となった北海第四高校にこそ及ばなかったが、北海道の大会で準優勝してインターハイの全国大会にまで進んだ。そのレギュラーメンバーの何人かは現役で北斗大に合格していたし、その中には医学部合格者もいた。バレーボール部のみならず、私が在籍していたジャズ研究会でもそうだった。あの高校では文武両道を軽々とこなす天才肌が多かったのは間違いない。

 綱島君は言葉を続けた。

「それと、クラスのみんなは僕のことを愉快なヤツと見てたかもしれないけど、僕は別にみん
 なを笑わせようとしてたわけじゃないんだ。自分では至って普通にしていただけなのに、そ
 れなのにいつもみんなから笑われて。あれ結構辛かったんだ。何で笑われるんだろうって。
 でも言い返すこともできないし他にどうしようもなくて。クラスの仲間にバカにされてるの
 かと感じたこともあったけど、誰も悪意があってのことじゃないのはすぐ判った。みんな優
 しく接してくれてたから。」

 私はかける言葉が見つからず、彼の話を黙って聞いていた。

「柏木君も気づいてたかもしれないけど、うちは母子家庭で暮らしはかなりキツかったんだ。
 だけどうちの高校の生徒って割と豊かな家の人が多かったよね。医者の家の子とか大きな会
 社の重役の子とか。頭ではそんなの関係ないって判っていても、どうしても比べてしまうん
 だよね。ほんと情けない話だけどさ。」
「確かに。それはわかる。俺もそう感じることはあった。」
 私は頷きながら彼の次の言葉を待った。

「自分が勉強でもスポーツでも、そんな彼らより優れていればいくら貧しくたって卑屈になる
 ことはなかったのかもしれないけど、現実はそうじゃない。一方は頭も良くて運動も出来て
 金持ちの家。こっちはそれとは正反対。同じ人間なのにどうしてこうも違うのかと思うと、
 だんだん自分が惨めになってきて・・・。それに加えて母親の再婚。あれもキツかったあ。
 母親も一人の女だってことに嫌でも直面しなくちゃならなくてさ。経済的には楽になるんだ
 ろうけど、どうにも生々しくて。当時は自分の中でいろんな意味で葛藤があったんだ。だけ
 ど、自分にも変なプライドがあって誰にも話すこともできなくて・・・。」
 そのプライドみたいなものは私にも共感できた。

「そうだったのかあ。お前さんの高校時代って辛い時期だったんだね。」
「もちろん楽しいこともたくさんあったけど、根っこは真っ暗だったかな。それがさ、今の大
 学に入ってから少し変わることができたんだ。」
「へえ。それは良かったじゃないか。何があったんだい?」
 私の問いに、待ってましたとばかりに彼は話し始めた。

「僕が入った大学は仏教系の大学だってことは知ってるよね。そこに進んだのは、両親に勧め
 られたということもあったんだけど、そこの奨学金をもらえることになったのが最大の理由
 だったんだ。僕は信仰とか全然関心が無かったんだけど、大学の授業で『光の世界』という
 本に出会って人生観が大きく変わったんだ。柏木君なら『光の世界』は知ってるよね?」

「ああ名前は聞いたことはある。読んだことはないけど。」
「すごく長編の本なんだけど、でも読み始めたら夢中になって気が付けば読了してたんだ。」
「そんな影響力のある本に出会ったということなんだ。」
「うん。『光の世界』って人間の宿命について書いてあるんだ。どういうことかというと、こ
 の宿命というのは過去世での宿業が現世に現れたもので、この宿業を断ち切ることができれ
 ば、今の宿命を変えることができるということなんだ。僕の例で言うと、貧しい母子家庭に
 生まれたのも過去世での宿業のなせる業であって、それを断ち切ることができれば、今の境
 涯もガラッと変えられるということなんだ。それって凄いことだと思わないかい?」

 彼の熱を帯びた口調に私は辟易してきた。彼が私を尋ねてきた真の目的に私は気付いた。そう、宗教への勧誘だ。

「柏木君なら東洋哲学にも関心があるんじゃないかと思って。」
「興味が無いことはないけど。で何、それでお前さんは大きく人生が変わったって。それは良
 かった。ご同慶の至りってやつだ。確かに俺は高校時代から哲学関係の本をたくさん読んで
 きたよ。哲学と宗教が近い場所にあるということも判ってるつもりだ。だけどそれは人間と
 いうやつの本質は何なのか、なぜ生まれてきたのかということに興味があるからであって、
 特定の宗教に従って自分の生き方を変えようなんて全く思っちゃいない。それとも何かい、
 綱島君の目には、俺が生き方を変えなくちゃならないほど憐れな境涯にあると映ったという
 ことなのか?」

 綱島君は黙りこんだ。私は言葉を続けた。

「そりゃ受験には失敗したし、他にもいろいろシンドイこともあったさ。でもさ、『光の世界』
 を読んだら宿命が転換して何でもかんでもうまくいくようになるとでも言うのかい?そん
 なことはないだろう。そう簡単にいくんだったら、人類はこんなに苦悩してこなかったんじ
 ゃないのか?そのためにはその先があるんだよな?今回わざわざ俺を訪ねてきたのもそ
 のためだったんだよな?」

 私は敢えて静かにそして冷たく言い放った。その言葉に部屋の温度が少し下がったようだった。沈黙が流れた。

「そ、そんなつもりはなかったんだ。き、気分を害したのなら謝る。申し訳なかった。」
 綱島君は下を向いたままボソボソと呟いた。

「正直、そういうのは俺は嫌いだよ。お前さんがどんな事情を抱えているかは知らないけど、
 結局は自分のためなんだろ。教えを説き学ぶような人だったら相手のことを第一に考えるっ
 てのがそもそもの人の道じゃないのかい。昔馴染みをこういう形で利用するような真似はや
 めたほうがいい。そんなんじゃ友達無くしちゃうぞ。」

 私の言葉に返事は無かった。

「よし。この話は無かったことにしよう。俺は何も聞かなかった。いいよね。」
 これが私にできる精一杯の思いやりの言葉だった。口ではそうは言ったものの、綱島君に対し
ても、彼にそうさせた存在に対しても私の不快感は一向に収まらなかった。

「う、うん。」

 綱島君はそう答えたが、身の置き場に困っているようだった。私は少し間をとろうとトイレに立った。戻って来ると残りのビールを注ぎ、無理矢理ジャズの話題に切り替えた。しかしその後の会話はどうしても空々しいものになった。買った酒を飲み終えると明日の予定を確認した。私が北海道への帰省の準備をしなくてはならないと言うと、綱島君は昼前にはお暇すると答えた。気まずいまま就寝し、翌日は買ってあったパンとインスタントコーヒーで軽い食事をして彼を見送った。お互いに腹に一物を抱えたままのスッキリしない別れとなったが、それは致し方のないことだった。   
                                                                      
 これで京都に留まっている理由は無くなった。私は早速帰省の準備を始めた。予備校のテキストを小ぶりの段ボールに詰め込み、近くの郵便局から小包で郵送した。その間も私には後味の悪さがずっと残っていた。

『いかに綱島君が好ましからざる動機で私に会いに来たのだとしても、あそこまで厳しい言葉
 で非難しなくても良かったのではないか。』
『自分はそんな偉そうなことを言えるような立派な人間なのか。』 

 それはいつも思ったことをそのまま口にしてしまう自分に対する苛立ちでもあった。もう少し懐の深い人間になりたいと常々思ってきたが、私は相も変わらず短気で直情型の器の小さい男だった。

    §

 綱島君の訪問は私の感情を少なからず掻き乱すことになったが、彼との会話で登場した高校時代のエピソードは私に当時の親しい仲間のことを思い出せた。そういえば卒業してから誰とも連絡をとっていない。自分の不義理を恥じるとともに仲間たちの近況も気になった。同級生の築田豪君は東京の予備校に通っていたし、沢口健人君は慶明大に進んでいた。私は急に彼らに会いたくなった。この夏を逃すとまたしばらく会えなくなりそうだった。そう思うと私は居ても立ってもいられなくなり、電話ボックスへと走り、築田君のマンションの電話番号を回した。

『これから帰省するが、築田君たちの顔も見たいし明日から二日ほど東京に寄ってそれから北
 海道に向かおうと思う。申し訳ないけど泊めてもらえないだろうか。』
 と私がお願いすると
『わかった。泊まるのは全然問題ない。沢口君にも連絡しておく。みんなで会おう。』
 という返事だった。

 私は嬉々として下宿に戻ると、最後の手荷物に当面の衣類を詰め込んだ。

 翌日昼過ぎに京都駅へと向かい新幹線に乗り込んだ。良く晴れた日で車中からは富士山が綺麗に見えた。東京駅に到着すると真っ直ぐ目白の築田君のマンションへと向かった。目白通りを歩きながら、私は春先の東帝大受験のときのことを思い出していた。

 あのときは親がとってくれた根津の旅館があまりに不気味で、無理に頼み込んで築田君のところへ逃げ込ませてもらったのだった。そしてそこを拠点にして受験をさせてもらった。あれからまだ四か月。しかし私の肌感覚としては一年以上に感じられた。それだけ京都での生活の密度が濃かったということなのだろうか?いやいや。表面上は平静を装っていても、新しい環境で知らず知らずのうちに緊張して気が休まる暇がなかったのだろう。不安を感じていたり自分の思うようにならないとき、そういうときの時間はゆっくりとしか進まない。きっとそういうことだ。

 目白のマンションでは築田豪君と彼のお兄さんの譲さんが迎えてくれた。私は受験のときの礼を言い、あつかましくもまたお世話になりますと頭を下げた。譲さんはニコニコしながら良く来てくれたと歓迎してくれた。受験のときと同様来客用の空き部屋を使わせてもらうこととなり、荷物を置くと早速お互いの近況を報告し合った。

 築田君は相変わらずマイペースで浪人生活をしているとのことだった。私は持参した京都の写真を見せながら祭り見物三昧だったと自嘲気味に話した。高校時代から写真に詳しく、私が所属していたジャズ研の写真もたくさん撮ってくれた築田君は、私の写真の腕が良いとしきりに褒めてくれた。

 譲さんには
『確かに良い写真だけど、この感じだと来年の受験も先が思いやられるな。』
 と大笑いされてしまった。

 この夏の予定を尋ねると、築田君は二週間の夏期講習を受けてお盆の前くらいに北海道に戻る予定とのことだった。今年は城南祭が八月の二三・二四日に前倒しで開催されるということも教えてくれた。それを聞いた私は、こうやって時代はちょっとずつ変わっていくのだなと少し寂しく感じた。

 その日の夜は近くの小さな割烹風スナックで食事兼飲み会となった。ここは譲さんが受験失敗の残念会を開いてくれた店だった。譲さんの彼女の果穂さんも加わってワイワイと盛り上がり、私も久しぶりに本格的に酔っぱらった。やっぱり気の置けない仲間といると素の自分でいられる。とにかく楽しい夜だった。

 翌日は沢口君と合流する予定になっていた。私は築田君にくっついて待ち合わせ場所である新宿東口の二幸ビル前に向かった。約束の時間に現れた沢口君はすっかり垢ぬけた慶明ボーイになっていた。

『今日は俺の従兄弟の紀子ちゃんも仲間に加えようと思うけどいいよな。』
 彼はそう言うと、有無を言わさず私たちを連れて青山の彼女の家に向かった。

 初対面の紀子さんは小柄で細身、目がくりくりとした美人だった。歳は私たちより一歳上で青藍学院に通う女子大生だった。彼女の家で茶菓のもてなしを受けた私は、借りてきた猫のようにただただ畏まっていた。その後四人は原宿へ出て喫茶店でお喋りに興じた。多少は近況報告めいた話題にもなったが、紀子さんへの質問と昔と変わらないくだらない雑談で時が過ぎていった。喫茶店を後にすると渋谷へ移動し、ビリヤードを少しして当時はまだ珍しかったゲームセンターに入りドライビングゲームでタイムを競い合った。

 夕食も沢口君がしっかり計画してくれていた。再び新宿へ戻り、和食の「木曽路」でラムのしゃぶしゃぶというプランだった。その場には高校時代に一度だけ会ったことのある沢口君の彼女(だろうと思われた)小川杏子ちゃんも加わった。杏子ちゃんは帝都女子大に通っていて、二人の関係はこちらで一気に本格化したようだった。ラムをしゃぶしゃぶで食べるというのは私にとって初めての体験だったが、それは思った以上に旨かった。牛肉よりもサッパリしていていくらでも食べられる。ビールを酌み交わし、肉の大皿を何度もお代わりした。何を喋っても可笑しく、高校卒業以来初めて私は腹の底から大声で笑った。

 東京での二日間はあっという間に過ぎていった。愉快な仲間に囲まれて、京都を出発するときに抱えていた心の重苦しさも随分と軽くなった気がした。                  
 
『じゃあまた城南祭で会おう。』と約束して私は築田君のマンションを後にした。真っ直ぐ羽田空港に向かい、スカイメイトに申し込み空席待ちをした。夏休みの時期にもかかわらず、幸運にも一時間ほどで名前を呼ばれ、私は千歳空港を目指して飛び立った。

 飛行機が降下を始め、北海道の地が視界に入って来た。豊かな緑が懐かしい。空港に降り立つと空気はひんやりとして清々しい。私は何とも言えない安心感に包まれた。やはりそれが故郷というものなのだろう。札幌へ向かう連絡バスに乗り込んでしばらくした時、後ろの座席の少しゴツイ感じの若者に声を掛けられた。振り向くとそこには見覚えのある顔があった。高校時代の同期の杉浦吉行君だった。同じクラスになったことも無く、ほとんど話をしたことも無かったが、顔と名前はしっかり覚えていた。それは彼も同じだったらしい。

 札幌までの道中、さもそれが当たり前かのように二人は近況を報告し合っていた。それまで誰とも接点が無かったのに、綱島君の来訪以来私の周りにはずっと高校時代の仲間が現れていた。それはまるで時間を巻き戻されたような少し不思議な感覚でもあった。久しぶりに故郷に戻った私の夏が、否応なく高校時代を振り返る夏になることをこの時の私は何も知らなかった。

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