第5話 空っぽの偽善者

文字数 2,874文字

 自室のベッドに寝転がり、啓介は天井の木目を見ている。身の置き場がない。いつにも増して、息苦しい。

 生き続ける理由は何かと問いかけた後で、理由なんかあるかと絶叫した修哉。
(クソみたいな世界って言うとったな)
 修哉の悲痛な声が耳から離れない。
(偽善者か・・・・・・ そうかもしれん)

 記憶の沼に、ひとりの少年が浮かび上がる。啓介の人生にかつて存在し、ふいに消えた少年。
(この世界に生きる価値なんてない)
 修哉の叫びに似ている言葉を、その少年もノートに書き付けていたという。

 啓介が、中学一年の時だった。二学期が始まった日、「啓ちゃん、放課後、時間ある?」と少年から誘われた。取り立てて親しいわけではなかったけれど、保育園からずっと同じクラスにいて、側にいるのが当たり前のようになっていた。
「時間? ない」と啓介が答えた理由は何だったのか。今となっては、何も思い出せない。ただひとつだけ明確なのは、その日の夜、少年はマンションの六階から飛び降りたこと。

(ワシは、逃げた)

 少年の自宅から「この世界に生きる価値なんてない」と走り書きされたノートの切れ端が発見され、遺書と断定された。学校も地域も大騒ぎとなり、マスコミが大挙して校内に流れ込んできた。大々的に新聞報道され「二度とこのようなことが起こらないように」と、当時の校長が泣きながらテレビで話していた。けれどそれは、地域のイベントのように数日で終わり、少年が生きていたことも、自ら死を選んだことも、人々はすぐに忘れ去った。
 少年の一家は離散したと、親たちの噂で知った。けれど、少年を追い詰めたと噂された担任教師も、いじめの首謀者として遺書に名前が書かれていたとされた生徒たちも、何事もなかったかのように、あの頃もそして十二年後の今も平然と生きている。

 死んだ少年は、最初からいなかった子どもにされた。
「逃げた」という、やましい気持ちを思い出さなくてもすむように、啓介も少年を最初からいなかった子どもとして記憶から抹消しようとした。けれど修哉の目、修哉の叫びは、啓介の記憶の奥底に沈められていた少年を蘇らせた。最初からいなかったことにされた、子どもの絶望と共に。

(偽善者!)

 啓介は、身体を反転させ枕に顔を押し付けた。修哉の絶叫と同調するように、啓介は叫んだ。枕に口を押し当てて、身をよじりながら、言葉にならない思いを動物のように何度も何度も叫び続けた。
(ちくしょ……)

 日が暮れかけた頃、床に放り投げていたスマホが震えた。岡崎からの電話だった。
「明日から、通常通りに出勤な。それと相沢修哉が、お前と話をしたいんと。少し落ち着いて来たんかもしれん。ま、安心せいや。臨床なんとかの先生が同席するらしいけん、三人で話してこい」

「啓ちゃん、放課後、時間ある?」
 そう言って消えた少年の声が、岡崎の声に重なって聴こえた。

(もう、逃げられん)

「わかりました」
 啓介は、スマホを置いた。

 翌日の出勤後、用意された小会議室に出向くと、扉の前で臨床心理士の尾島が不貞腐れた表情で立っていた。眼鏡の奥の瞳が、せわしなく動いている。尾島は、修哉に同席を拒絶されたと言う。
「困りました。あなた、えっと、島田さんでしたっけ。あなたとふたりじゃないと話さないってとても頑ななんです。仕方ないので精神科の後藤先生から承諾を得ました。でもね、感情を解放したばかりで、かなり不安定な時期なんです。スキルのない素人がマンツーマンで話すのは、すっごく危険です。いいですか。余計な約束をしたり、無理に励ましたり、下手なアドバイスなんてしないでくださいね。逆効果ですから。誠心誠意聞くこと。傾聴してください。あ、傾聴って、黙って心を込めて耳を傾けるってことね。本当は、プロが指導しないと厳しいんだけどなぁ。あ、それからあなた、島田さん、黙っていると顔が怖くなるからそこも注意して。あ、それと、これ、ICレコーダです。気づかれないように、必ず会話を録音してください。あとでチェックして、彼にとって最善の方法を私たちが考えますから」
 尾島の言葉の数と勢いに押されて、啓介は力なくうなずくことしか出来なかった。レコーダーをユニフォームの胸ポケットに忍ばせ、会議室の扉をノックした。
(もう、逃げられん)
 返事はない。扉を開くと、小さめの机とパイプ椅子が四脚無造作に置かれた空間で、修哉は車椅子に座ったままでうつむいていた。

 いつもより、さらに幼く見える。修哉の横顔と、消えた少年の面影が重なる。啓介は、修哉の斜め前のパイプ椅子に腰掛けると、ひとつひとつ言葉を探りながら話し始めた。
「この前は、悪かったの。ワシ、なんか余計なこと言うてしもうて」
 修哉は返事をしない。
「ワシと、話したいって、何じゃろうか?」

 遠雷が聞こえた。また、雨が降るのかもしれない。身じろぎもせず、修哉は言葉を床に落とす。
「あねが、おる」
「え? なんて?」
「姉ちゃんが、おる」
「姉ちゃん? 修哉君、家族は両親と弟って」
「おる。おらんことにされた」

 胸の奥を、ガサリと重機で掘り起こされたような感じがした。痛い。
 啓介は修哉が落とした言葉を、ゆっくりと拾う。
「おらんことにされんか? 姉ちゃんを?」
 修哉は、かすかにうなずいた。
 啓介は大きく息を吐きながら、テーブルに肘をついた。そうしなければ、このまま床に倒れ込むかもしれない。
「わかった。大事な話じゃね。ちゃんと聴く。けど、その前に、いっこだけ、こっちから質問してもええ? なんで、ワシに話す気になったん?」
 雨粒が、パラパラと窓を叩き始めた。

「よう、わからん……」
「ほうか」
「……て」
「て?」
「手。あんたの手が、あったかい」

 名前の付けようのない感情がのどのあたりにまで満ちてきて、啓介は「ほうか」と答えるだけで精一杯だった。

(生理的な反応は、嘘がつけんけぇ)
 小野田の言葉が思い出された。
 人の手の温かさ。修哉は今、ほんの少し触れただけの、他人の手の温かさにすがろうとしている。それほどまでに、修哉は孤独だったのか。
「人間関係の希薄さが気になる」と語った精神科医の話。それは、啓介自身も似たようなものだ。両親や兄とは、もう何年も会っていない。連絡すら取っていない。付き合っていた人もいたが、恋愛とは言い難い関係だった。友人も同僚も、啓介の中での存在感は無に等しい。啓介と関わっていたはずの人たちの面影が、モノクロになり透明になって消えて行く。

(ワシは空っぽじゃ)

 人と関わることに自信がない。傷つくことも怖い。だから誰とも本気で関わらず、最初からいなかった人たちだと思い込もうとしていた。

(でも、もう逃げられん)

 今、確かなのは、啓介の目の前でこの世界の生きる理由を、死に物狂いで見出そうとしている修哉だけだ。

(ワシは、もう逃げん)

「ええよ。修哉君。全部聴く。姉ちゃんがおるんじゃね。どうして欲しい?」
「さがして」
「姉ちゃんを、捜して欲しいんじゃね」

 啓介がそういうと、修哉は深く息を吸いながらゆっくり顔を上げた。

(つづく)
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