第9話 一筋の光

文字数 3,037文字

 修哉の退院が、明日に迫っていた。
 ソーシャルワーカーに確認すると、修哉の母親は、夫から修哉との同居を拒絶されたという理由で帰宅を拒んでいるという。一方学校側は、夏休み明けまでという期限付きで寮での生活を許可してくれた。

「社会的養護っていうんですけどね。社会全体で子どもを育てる仕組みです。児童養護施設、自立援助ホーム、もしくは里親とかね。修哉君と話し合いながら、退寮した後の居場所は必ず見つけますから。大丈夫ですよ」

 ここにも、居場所のない子どもに寄り添う専門家がいた。ソーシャルワーカーの力強い言葉に、啓介は安堵した。

 啓介が病室を訪ねると、修哉はベッドで上半身を起こして窓の外を見ていた。初めて会った日と同じように、重い雨が降り続いている。

「島田さん、私服?」
 啓介はチェックのシャツにジーンズ姿で、修哉のベッドサイドのパイプ椅子に腰掛けた。
「おう。今日の仕事は終わり」
「そう」

 啓介は修哉の前途に思いを馳せる。啓介が当たり前に享受していた生活のあれこれが、何一つ与えられてない子がここに存在している。クソみたいなこの世界に、生きる理由を見いだそうと必死でもがいている子がここにいる。柄にもなく啓介は、心の中で手を合わせた。

(神様、助けてやって欲しい。一筋で良い、幸福な光を与えてやって欲しい。そのためにできることがあるなら、ワシは何でもする)

「修哉君、いろいろとごめんな。ワシひとりじゃ、何もできんかった」
 修哉は、視線を落としたままで言った。
「ええんよ。僕、大丈夫」
「すまんの。でもな、いろんな専門家が、ちゃんと道筋をつけてくれて、良かったな」
「うん。たくさんの人が、僕を助けてくれようとした。大人もいろいろな人がおる」
「ほうじゃの。いろいろ、おるな」
 雨音が、少しだけ高くなった。確かに外の舗道を人が歩いているのがわかる。修哉はひとりぼっちで、この音の微かな変化に耳を澄まして人の気配を聞き続けていたのか。あまりに静かで、あまりに寂しいこの雨音を。

「パン、食べるか?」
 啓介は、手に持った紙袋を開けて、大切な物を手渡すように修哉の手のひらにそっと乗せた。見かけよりも重みのあるクロワッサンサンドが、甘いバターの香りを漂わせている。修哉は、パンをじっと見た。
「美味いよ。食ってみ」
 修哉は丁寧に袋を開けて、クロワッサンサンドを一口かじった。パリパリとしたパン生地とハムやチーズが、程よく口の中で混ざり合う。
「美味いじゃろ?」
 修哉は素直にうなずいた。
「そうじゃろうな。パン屋さんが、早起きして一生懸命焼いてくれたパンじゃもんな」
 啓介は、手に持った缶コーヒーを修哉に手渡しながら言った。

「あのな、修哉君。退院しても、なんかあったらワシに話してくれんか。頼りにならん大人で申し訳ないけど、ワシら、友だちじゃ。これから先も、しんどいことはなんぼでもあるじゃろうけど、もう、あんたはひとりじゃない。手を貸してくれる人は必ずおる。ワシもその中のひとりじゃ。忘れんとってくれよ」
「うん。僕、高校出たら専門学校に行きたい。高校も奨学金じゃけ、その学費をどうするか悩むけど、いつかきっと行きたい」
「ほうか、そりゃええの。何かやりたいこと、見つかったんか」
 修哉は、少し照れたような口調で言った。
「理学療法士になる」
「え?」
 啓介は、修哉の目を見た。かつての黒い空洞はもうそこにはない。命の輝きを感じさせる「今」を生きている人間の目だった。
「ほうか。わかった。なんか、嬉しいのお。今度は修哉君、ワシの後輩になるんじゃな」
 修哉が微笑んだ。

「失礼します」
 女性の声がして、尾島が顔をのぞかせた。啓介を見て軽くうなずくと、緊張した面持ちで病室を出て行った。
「なぁ、修哉君。ほしたらな、これから大事な話をするけん、よう聞いてくれ」
「うん」
「修哉君のお父さんな、ご病気で、もう随分前に亡くなっとられた」
「え?」
「中学生の晴ちゃんが、ひとりで看取ったって」
 修哉が、探るような目で啓介を見ている。
「お父さんが亡くなって、晴ちゃん、ひとりになってな。その後はな、児童養護施設で暮らしとった。三里町から車で一時間程離れた南区の児童養護施設に、晴ちゃんは中学から高校を卒業するまでおった」
 修哉は手に持ったままの食べかけのパンを見つめたまま、動きを止めた。
「その後も、いろいろあったらしい。けど、ずっとずっと修哉君を捜してたって。何度かお母さんに連絡したけど、その度に面会を断られて、居場所もわからんようになったって」
「・・・・・・」
「修哉君、そのパン、美味かったか?」
 修哉は何も答えない。浅い呼吸を繰り返している。
 啓介はふいに立ち上がり、修哉に背中を見せた。

「美味いじゃろ。ほうじゃろな。だってそれな、今朝、晴ちゃんが焼いたパンじゃもん」
 啓介の声が揺れた。
「施設を出てから、パン職人になるための修行を始めたんと。施設で焼いたパンを食べた時、あまりに美味しくて泣いたって。それを絶対に弟に食べさせたいって。修哉君に食べさせるのが夢じゃったんと」
 修哉は何も答えない。
「姉ちゃんな、一生懸命、生きておられた。立派じゃ。相当辛い思いもしたらしいけど、それでも生きておられた。なんでかわかるか? 修哉君に会うことが生きる理由じゃったって」
 啓介は、ベッドサイドの間仕切りカーテンを開けて大きく息を吸った。

「良かったな、修哉君。夢、叶ったな、晴ちゃん」

 啓介は、病室から出た。廊下には、尾島が立っていた。尾島は眼鏡を外し、泣きはらした目をタオルで拭いていた。啓介は、黙ったまま尾島に向かって深く頭を下げた。

 開け放したままのカーテンが、揺れている。修哉は、自分の身に何が起こっているのか理解できずにいた。啓介の去った辺りを見ながら、啓介の言葉を口の中で繰り返した。
 その時、カーテンの陰からひとりの女性が姿を現した。淡い若草色のサマーセーターを着た、ショートカットの小柄な女性だ。腕にかけたベージュのレインコートから、雨の雫がポトリと落ちた。

 その人は、修哉を見るなり口元に手を当てて、立ち尽くしたまま泣きだした。涙はとめどなく流れ落ち、胸元を濡らしている。

 雨音が消えた。
「修ちゃん、頑張ろうね」と言った十二歳のはると、目の前にいる人の泣き顔が重なる。
「ねえ、ちゃん?」
 呼びかけようとしたが、ノドがギュッと絞まって声が出せない。それでもその人は、修哉の声にならない声を聴き取り、何度も何度も小さくうなずいてみせた。

 チャンタ チャンタ チャンタ

 片足だけにサンダルをはいた、晴の足音が聴こえた。痩せてて小さくて温かい背中の感触がよみがえった。

「姉ちゃんは、夢、あるん?」
「うち? うちはね、普通がええ」

 怖くて、悔しくて、そして何よりも幸せだった幼い日の思い出が、修哉の元に鮮やかな色彩で戻って来た。

 ゆっくりとベッドサイドに歩み寄ったその人は、流れる涙の隙間から柔らかな光を帯びた声で言った。

「修ちゃん。大きゅうなったね」

 修哉の大きく見開いた目から、涙があふれて出てくる。やがてノドの奥から、「あぁ」と叫びのような声が飛び出し、修哉はベッドの上で泣き崩れた。

「大丈夫、大丈夫、修ちゃん、もう大丈夫」

 探し続けていた人の温かい手が、子どものように泣きじゃくる修哉の背中を静かになでる。修哉は晴にしがみついて泣く。幼いあの日のように。
 
 はるの身体から、雨の匂いと、甘いパンの香りがした。

(了)
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