第1話 修哉とはる

文字数 2,180文字

 日暮れに降り出した雨は、夜八時を過ぎても、街灯の仄暗い光の中に絶え間なく雨筋を浮かび上らせている。

 修哉は、姉のはるの胸に顔を押し付けて住宅街の小道で泣きじゃくっていた。小刻みに震える手には、無残に破壊された携帯型のゲーム機が握られている。
 二人に傘はない。
「行こうや、修ちゃん」
 七歳にしては小柄な修哉だが、十二歳のはるが抱えて歩くには手に余る。はるは修哉の手を取り、半ば引きずるようにして前を見据えて歩き出した。修哉の裸足の足元から、雨水を弾く音がする。
「早よ」
 とはるが強く手を引くと、ゲーム機が修哉の手から離れ側溝に飛び散った。
「ゲーム、ゲームがぁ」
 修哉が悲痛な声で叫ぶと、はるは散らばった部品を急いでかき集め、修哉のハーフパンツのポケットにぐっと押し込んだ。修哉は、髪の毛の先から雫をしたたらせたまま、しゃくりあげている。
「修ちゃん、もう泣きんさんな。ほら、うちの背中に乗りんさい」
 はるは、修哉に背を向けてしゃがみ込む。はるの水色のブラウスの背に、雨粒がパラパラと音を立てて落ちるのを修哉は見ていた。
「早よ、修ちゃん」
 はるの声に促されて、修哉ははるの背に身体を預けた。はるは、「おいしょっ」と声を出し少しよろけながら立ち上がると、大きく足を踏み出し、何かを決心したように息をひとつ吐くと、前へ進み始めた。

 チャンタ、チャンタ、チャンタ

 はるの足音が、不自然なことに修哉は気づいた。身体を左右に大きく揺らしながら進むはるは、右足にしかサンダルを履いていない。左足は裸足だ。

「姉ちゃん、ええよ。僕、歩く」
 鼻をすすり背中から降りようとする修哉に、はるは息を切らせながら言った。
「ええんよ。修ちゃん。うち、大丈夫じゃけん」

 チャンタ、チャンタ、チャンタ、チャンタ
 
 三里町の八幡神社に続く路地をはるは行く。修哉は頬を、はるの肩にそっと乗せた。はるの背中の温かさや荒い息遣いが、自分の体温や呼吸のように感じられて、修哉の気持ちは少しだけ静まる。通りに面した家々の窓から、テレビ番組の陽気な音楽や子どもたちの笑い声が聞こえてくる。修哉は、はるの肩に回している腕に力を込めて、ぎゅっと目を閉じた。通りすがりの男が「あぁ? ずぶ濡れじゃが」とつぶやくように声を発したが、はるは真っ直ぐ前を見たままその横をすり抜けた。

 八幡神社の鳥居の手前で、はるは修哉を背負ったまま小さく一礼をして鳥居をくぐり、手水舎へ向かった。暗い境内には誰もいない。
「修ちゃん、降りて」
 はるの声に促され、修哉は崩れ落ちるように背中から降りた。はるは、チロチロと水音がする手水鉢から柄杓で水をすくい、ふたりの足にかけて汚れを流した。そして、スカートのポケットからハンカチを取り出し、雨水を滴らせている修哉の身体をサッと拭い、片膝をついて座った。
「痛かったね。もう大丈夫。泣かんでええけんね」
 はるは修哉の顔を見て微笑み、雨や涙でにじんでいる鼻血や、切れた唇の周辺を丁寧に拭ってやった。
「痛っ」と修哉がのけぞる。
 小さくうなずきながら手を止めないはるの目元も、赤く腫れ上がっていた。

 修哉は、父の火を噴いたような形相を思い出した。いきなり殴られた上に、母に頼み込み祈るような思いでようやく買ってもらったゲーム機が、父の手の中でへし折られ踏み潰されてしまった。もう二度と遊べない。その恐怖や悔しさが、はるの手の温かさに誘われてよみがえり、また声を上げて泣き出した。
「大丈夫、大丈夫、修ちゃん、大丈夫じゃって」
 はるは子守唄を歌うようにそう言うと、立ち上がり修哉を抱きしめて背中をトントンと軽く叩いた。はるにしがみついて赤ん坊のように泣いていると、胸の奥で暴れていた刺々しい感情が、動きを止めてゆっくりと洗い流されていくように感じられる。
 修哉が泣き止み大きな溜息をつくと、ふたりは手をつないで拝殿に上がり軒下の段差に並んで座った。
 雨音がふたりを包む。境内の黒い木々の影から微かに蛙の鳴き声が聞こえる。石灯籠の頼りない灯りが、雨の中に揺れている。
「修ちゃん、寒うない?」
「うん」
「怖あない?」
「うん」

 父は、時折自宅を訪ねてくる大人たちから「先生」と呼ばれていた。学校の先生なのだと母から教わったが、詳しいことは知らない。ただ修哉は、家の中で笑っている父を見たことがなく、遊んでもらった記憶もない。父に対して感じるのは、底知れぬ恐怖だ。父は酒を飲み、母とはると修哉を殴る。リビングの椅子を床に叩き付けて壊す。テレビを観た、笑った、寝た、食べた、そんな理由でも殴られたし、いきなり家の外に放り出されたこともあった。近所の人の通報で警官が駆け付けたこともあったが、父が穏やかにとりなすと警官は笑って帰って行った。 

「親子のシェルターもあるんよ。子どもと一緒に逃げんさい」

 隣のおばさんが母に話しているのを聞いたり、知らない女の人が尋ねてきて母と話し込んでいるのも見たけれど、母はその都度「大丈夫ですけぇ」と薄く笑いながら言うだけで、それ以上の返答はしなかった。
 
 修哉は、帰って行く女の人の後姿を見ながら「あの人、誰?」とはるに尋ねた。はるは部屋の隅で広げていたノートから顔を上げることなく「児童相談所」とだけ答えたが、修哉にはそれが何を意味する言葉なのか、まったくわからなかった。

(つづく)
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