第2話 ゆびきり

文字数 1,836文字

 やがて母は留守がちになり、家の中は荒れ果てた。はるが細々した家事や修哉の世話を担うようになって、もう二年になる。

「やめて、お父ちゃん、修哉が死ぬ」
 ほんの少し前、そう叫んだのは母だったのかはるだったのか、修哉の記憶は曖昧だ。はっきりと覚えているのは、畳の部屋で寝転がりゲームをしていたこと。突然、獣が吠えるような父の声が聞え、ゲーム機が破壊され、顔や身体に激痛が走ったこと。母とはるの悲鳴が聞こえ、ふわりと身体が持ち上がり天井が見えたこと。気がついた時には、はるに抱えられて雨の中で泣いていた。
「僕、投げ飛ばされたんかなぁ。お母ちゃん、大丈夫じゃろか」
 修哉が問うと、はるは小さな声で答えた。
「大丈夫じゃろ。大人じゃもん」
 大人…… 父に抗うには、自分はあまりにも小さすぎる。あまりにも力がなさすぎる。そのことが、修哉は悔しくてたまらない。
「お父ちゃんなんか、嫌いじゃ。大嫌いじゃ。死ね。
僕、早よう大きゅうなって、あいつ、ぶちのめしちゃる」
 修哉は吐き捨てた。
「死ね、くそっ、死ね、死ね」
 拳で自分の足を殴りながら声に出して言うと、静まった気持ちがまた激しく波立ってくる。はるは、そっと修哉の手を抑えた。
「ほんまじゃね。うちら、早よう大人んなりたいね」
 はるの指先の冷たさを感じて、修哉はぎゅっと手を握り返した。

「ねぇ、修ちゃん」
 はるは大きく息を吸って話し始めた。
「大人んなったら何になりたい? 夢、あるん?」
「えっと…… サッカー選手」
「ほうね。修ちゃんはかけっこ速いもんね。大丈夫じゃ、夢はきっと叶うけん、頑張ろうね。ゆびきりしようか」
「ゆびきり?」
 はるは小指を差し出し、修哉の小指に指を絡めた。指先の冷たさは、もう消えていた。

「ゆびきりげんまん うそついたら はりせんぼん のます」

 小指を見つめ声を合わせて歌っていると、気持ちが少しずつ晴れてくるのを修哉は感じた。
「姉ちゃんは、夢、あるん? 大人んなったら、何になるん?」
 はるは、ほんの少し顔を上げた。
「うち? うちは…… 普通でええ」
「普通?」
「いや、普通がええ」
「普通がええの?」
「普通がええんよ」
「普通かぁ…」
「ゆっくり眠れて、朝起きてね、ちゃんと朝ごはんを作って食べて、普通に仕事に行く人。普通に掃除や洗濯もする人。誰かに殴られたり、逃げ出したりせんでええ、普通の人になりたい」
 修哉には、「普通」ということがよくわからなかったが、はるの身体がぐっと硬くなったのを感じて、はるの肩に自分の頭をそっと寄せた。

「でも、修ちゃんは、ちゃんとサッカー選手になりんさいね。うち、そしたらすっごく嬉しい」
「うん。僕、頑張る、絶対選手になる」
「修ちゃん、うちら早よう大人んなって、ずっと一緒におろうね。ゲームなんか、なんぼでも買えるけん。一緒に頑張ろうね」
「うん」
 はるの言葉を聞いて、修哉は腹の底から元気が湧いてきた。はると一緒なら、きっとあの家を出られるだろう。新しいゲームもたくさん買えるし、サッカー選手にもなれる。
 よし、僕、頑張るぞ。
 そう思ったとき、鳥居の向こうの暗がりで人影が動いた。目を凝らしてみると、傘を差した母がぼんやりとたたずんでいた。
「お母ちゃん」
 修哉は叫んで拝殿を飛び出すと、降り止まない雨の中を母の元に駆け寄った。母の腰にしがみつく修哉を、はるは何も言わずに見ていた。そして、修哉が残したゲーム機の部品をそっと手に取った。

 翌朝、目を覚ますと父は既に出掛けた後だった。母は赤黒く腫れた頬骨のあたりにタオルを当てて、食卓の椅子にぼんやりと座っていた。はると修哉が慌しく登校の準備をしていても、母は身動きひとつしない。修哉は、はるからパンと牛乳をもらい立ったまま口に詰め込んだ。
「お母ちゃん、行ってくるね」
 修哉が声をかけると、母は同じ姿勢のままくぐもった声で言った。
「顔」
「え?」
「顔の傷。誰かに聞かれたら、姉弟げんかしたって言うんよ」
修哉は「わかった」とだけ答え、はるは母の方を振り向くこともなく玄関を出た。

 登校中、はるはずっと黙っていた。修哉は、途中で出会った同級生たちに顔の絆創膏をからかわれながら、学校に向かった。
「修ちゃん」
 一年生の下駄箱がある西校舎の玄関まで来た時、はるが修哉を呼び止めた。振り向いた修哉の前で、はるはゆっくりしゃがみ込むと、修哉の頭をなでながら笑顔で言った。

「じゃあね、修ちゃん、頑張ろうね」

 それが修哉が記憶する、はるの最後の姿になった。

(つづく)
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