第1話:戦後の預金封鎖と財産税

文字数 2,410文字

 臼井家では当主の臼井重蔵に1945年10月6日に長男の臼井信一が誕生し1947年11月14日に次男、臼井信二が誕生した。臼井家は千葉県木更津市内陸の小堰川流域の穀倉地帯に古くから住んでいて旧名主の家で大正時代には、多くの小作人を抱える大地主だった。

 戦後の日本は莫大な負債を抱え、まず1946年2月16日に夕刻に発令された金融緊急措置令を大きく伝えた。市中に出回る過剰なお金を吸収する荒療治「預金封鎖」の始まりだった。概要は以下の通り2月17日以降、銀行などからの預貯金引き出しを制限・預金封鎖。10円以上の日本銀行券は1946年3月2日限りで無効「それまでに使うか預金するしかない」

 翌3日からは新しく発行した新円のみ使用可、旧円とは1人100円を限度に1対1で交換。勤め人の給与は月給400,500円まで新円で支給、残りは封鎖預金に振り込む。封鎖預金からの引き出しは1カ月に世帯主が300円「現在の12万円」まで。

 それ以外の世帯員は1人100「現在の4万円」まで。つまり家族5人で最大、月間700円「28万円」までしか預金を下ろせない。大卒の勤労者の初任給が400円から1946年当時の100円は現在の価値に換算すると4万円、400倍と考えられる。

 その後、1946年3月3日に財産税により日本中の元皇族、貴族、華族、事業主、課税価格「年間収入」が10万円「現在換算4000万円以上」の者について課税された。10~11万円が25%、11~12万円が30%、12~13万円が35%、13~15万円が40%、15~17万円が45%、17~20万円が50%、

 20~30万円が55%、30~50万円が60%、50~100万円が65%、100~150万円が70%、150~300万円が75%、500~1500万円が85%、1500万円以上、90%の税金が課せられた。

 つまり日本政府が第二次世界大戦のため莫大な負債を抱えてしまい、それを帳消しにするため国民から資産を取り上げた。臼井重光には幸いなことに古くからの友人が大蔵省の役人だった。そのため1946年3月から大きな増税と預金が制限されるかもしれないという情報を2月末に、それとなく聞かされていた。

 そのために、臼井重蔵は、家族7人に命じて金の仏像3点と宝石類をビニール袋に入れて、それを麻袋に入れて見つかり所に埋めたり隠したりしろと命じた。そして掛け軸、陶器、漆器は、そのまま納屋に置いておくように命じた。そして実際に財産税と預金封鎖・預金引出制限、一定金額の新・日本銀行券との交換が実施された。

 臼井重蔵の屋敷にも税務署の役人が来て納屋の大きな掛け軸、陶器、漆器などを詳しく調査し時価総額9万円となり財産税は免れた。これでひと安心したのも、つかの間、1946年 10月,第2次農地改革案の作成された。これは自作農創設特別措置法と農地調整法の再改正案に基づき,地主制の解体と自作農業創設のために小作地の解放を行った。

加えて小作料の引下げと金納化,不在地主の一掃を主な内容であtった。在地地主の貸付保有地を1町歩「北海道は4町歩,1町歩は約 0.99ヘクタール」に制限した。それを超える貸付地と不在地主の農地は農業委員会の手で小作農に売渡された。農地改革は1950年にほぼ完了した。
 しかし、これにより小作地の80%を超える約200万町歩が250万の地主から470万余の小作農に移り,牧野など約45万町歩と未墾地130万町歩余が解放された。この結果,戦前 70%を占めた小作農は40%となり自作地をもたない農家は26%から4%に減少した。その後,旧地主層は土地の価格が不当に安すぎたとして補償要求を展開した。

 1965年に農地報償法を成立させた。農地報償法により206万人に上る全国旧地主に対して,1人あたり100万円を限度として,10アールあたり平均2万円の記名国債を交付するというものだ。農地改革が実施され、臼井重蔵は農業だけでは食っていけないと見切って小作人に多めに土地を分け与えて喜んでもらい、その代わり、お米を治めるよう約束させると小作人に1人も反対する者はいなかった。
 そのため所有する土地が1/4になり小作人もいなくなり家族と親戚の6人で野菜、鶏、豚、米、麦、そば、サツマイモ、ジャガイモ、柿、ミカンを栽培させた。臼井家では1965年の農地報償法で200万円「現在の価値で800万円」を手に入れたが農業以外の収益を考えなければ税金を払えなくなると心配した。

 臼井信一は計算が早く聡明で本もよく読み解らないことは何でも大人に質問し、中学校の成績も良く将来を嘱望「しょくぼう」された。一方、弟の信二は正義漢が強い親分肌で力が強く喧嘩も強かったが勉強はあまりせず頼まれた野良仕事や家畜の世話を真面目にこなしていた。交渉力があり中学を卒業すると地元の農協に入り出世していった。

 1964年に臼井重蔵の長男、信一は木更津高校を優秀な成績で千葉大経済学部を受験して合格し、その後1968年に千葉銀行に採用されて入行した。1968年12月から臼井重蔵は日本株の勉強をして臼井重蔵の親戚の1人、N証券に就職した臼井敬一に依頼し、330万円を入金し株投資口座話を開いて株売買の勉強を学び、情報をもらう事にした。

 そして1969年1月に217円で1万株ソニー株を217万円で買った。この頃、父の重蔵が長男の信一に1946年の財産税の時、そっと隠しておいた金の仏像3点とビニール袋に入った宝石を見せた。

 すると、それを見て信一は驚いたが、銀行マンであり的確に金は上昇するまで待って売り宝石類は兄弟に分けた方が良いのではないかと提案し、お前に任せるから金価額上昇時に言ってくれと言われ信一は了解したと答えた。その後1969年6月に同じ銀行の辰巳明美さんと仲良くなり結婚した。
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