1 蒼い空

文字数 1,504文字

 見上げる空は、(あお)い。昔から青いと思ったことは一度もなかった。いつ見上げても、どこで見上げても、空は蒼い。
 初めて空を見上げたのはいつのことだったのだろうか。少なくとも、思い出せる限りの古い記憶を紐解くと、やはりその色は蒼かった。今も昔も、それだけは変わらない。
 子供の頃の記憶は忘れろと言われた。だから忘れようとした。忘れがたい記憶など端からなかったこともあり、忘れようとすることに苦はなかった。物心付いたときには、親もおらず、家もなく、空腹に喘ぎながら地べたを這いずり回る生活だったのだから。まともな記憶などなく、忘れがたい思い出などもあるはずがなかった。
 同じような境遇の餓鬼(がき)どもが寝床としていた河原近くの寺では、一日に一度、粥の炊き出しがあった。それだけが救いであり、食べ終えるとただただ翌日の炊き出しを待つ。その間にすることと言えば、河原に寝そべって蒼い空を見上げることくらいだった。十代の餓鬼どもは近くの町まで食べ物を求めに行くこともあったようだが、自分のような六つ、七つ程度の餓鬼が少しでも飢えを抑えるために出来ることと言えば、動かないことが最善だった。
 だから、忘れようとした。
 だが、夢に見る。見たくもない夢を見る。
 だから、忘れられない。思い出してしまう。
 故に、あの苦しみから救い出された日のことを忘れることが出来ない。
 あの人の行動は、きっと気まぐれだった。そうでなければ、飢えていたから飢左衛門(きざえもん)、などという適当な名前を付ける訳がない。
 そんな名前を付けておきながら、飢えていた日々を忘れろと言われる。無理な話だった。名前を呼ばれる度に思い出す。そして、夢を見る。
 そんなふざけた親父も死んだ。今や飢左衛門が御厨子党(みずしとう)の頭領だった。
 目の前に子供がいる。年は八つか九つあたり、今にもくたばりそうな家無し子だった。体は瘦せ果て、眼光だけがギラリと光り、ぼんやりと空を見上げている。そうするしかないのだ。他にすることなどないのだから。すぐ隣は小さな寺だったようだが、今はただの廃墟でしかない。先の畠山家による戦乱に巻き込まれたのであろうことは容易に推測できた。燃え尽きた堂は灰燼に帰していたが、まだなんとか形をとどめている。襲撃からそれほど日は経っていないのだろう。それまでは炊き出しが行われていたのかもしれないが、この場所で再開されることはしばらくあるまい。そして、この家無し子はもう自力で動くことはできない。
「お頭、やめましょうぜ」
 誠之助(せいのすけ)には、今から自分が取るであろう行動が分かっているようだった。不満気な表情で咎めはしたが、何が何でもという感はなかった。だから、いつものように無視した。
 手を差し伸べながら、心の中で考える。
 お前が見上げているその空もやはり蒼いのか、と。
「今までのことは忘れろ」
 骨と皮しか無いその体を持ち上げることなど、飢左衛門にとっては造作もない。子供に反発する様子はなかった。その力すら残っていないのであろう。
 この家無し子の名前は十五郎(じゅうごろう)と決めた。十五番目の拾い子だから十五郎。
 親父よりはまともな名付けであろう。きっと、忘れられる日が来るはずだ。
 だが、空が青く見える日はこないかもしれない。この御厨子党に拾われたということが、鬼畜の道を歩まざるを得ないことと同義であるのだから。
 武士たちからは下賤のものと蔑まれ、略奪の対象とされる民草からは怨嗟の念が宿った冷ややかな視線を突き刺され、同朋以外から人として見られることも扱われることもない。
 それでも、十五朗が今ここで死ぬことはなくなった。だったら、今はそれで良いではないか、と飢左衛門は考えるのだった。
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登場人物紹介

御厨子飢左衛門(みずしきざえもん)


南山城国の水主郷を根拠とする賊集団、御厨子党の頭領。

40を過ぎているものと思われるが、拾われ子であるため正確な年齢は不明。

畿内でも有数の大規模賊集団の頭領として、同業の中では多少、名を知られた存在。

骨川道賢(ほねかわどうけん)


多くの賊集団を統合し、畿内一の賊となった骨川党の頭領。

高野藤七(たかのとうしち)


高野党の頭領。

飢左衛門より一回り以上若いと推察されるが、闊達でさっぱりとした人物であり、飢左衛門もその人となりを認めている。

畠山義就(はたけやまよしなり)


三管領家の一つ、畠山家の家督を争う人物。

昨今における争乱の火種の大半はこの男が関わっていると言って差支えなく、またその舞台が御厨子党の地盤と被るため、飢左衛門はその存在を嫌悪している。

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