5 孤独

文字数 4,551文字

 おお寒っ、と一つ身震いをし、頭領は早足で帰路についた。今になって気づいたが、昨日の酒などもうとっくに消えていた。来た時とは違って足下がふらつくこともない。それだけ驚かされることが多かったってことか、と呟いてみる。確かに、何事もなく終わるはずだった水主郷両輪の会談はおかしなことだらけであった。
 正直、あまり思い出したくもない。晋兵衛にはゆっくり考えてくれと言われたが、はっきり言って嫌なことである。長年の経験によって培われてきた自身の価値観が、晋兵衛の考えを拒絶している。いや、それは別に構わない。もっと重要な、どうにもならないことがある。
 やめることなんてできやしねえ。
 あの手下どもが賊をやめられるものか。水主にいるときは八重吉も常祐坊も大人しく農作業などをしている。だが、いざ賊として外へ出れば、彼らは日頃溜め込んだ鬱憤を略奪という行為に変えて発散させる。脅し、奪い、汚し、犯し、殺し、破壊する。やったことのある者にしかわかるまい。その快感は一種の中毒だった。
 長年の間、そんな中毒に侵されてきた手下どもに、今さらやめろだなんて言えるはずがない。それに、手下どもにそうした行為を教えてきたのはこの俺ではないか。やめろと言われれば俺はやめられる。やめられると思う。別に好きでやっていることではないのだから。生きるための糧として、水主を維持するために、御厨子党が御厨子党であるために、そうせざるを得なかったのだ。
 だから、別の道が開けるというのであれば、一考の価値はあるのかもしれないと飢左衛門自身は思うであろう。だけれども、あいつらにやめろと言えるはずがない。
 それに、もう一つ、晋兵衛の頼みを拒絶してしまう理由がある。
 気がつくと自宅だった。
「おかえりなさいまし」
 囲炉裏の近くで火にあたりながら何やら手を動かしていた女が、帰宅した頭領を消え入りそうな声で迎えた。おう、と答えてそちらへと近づいてみると、その女は飢左衛門の具足の手入れをしていた。もう何年も使い続けている粗末な胴丸は、所々で結び糸がほつれかかっており、修繕をしなければとてもじゃないが頭領として格好がつかない。明日の出陣を前にして、飢左衛門はその女に手入れを頼んでいたのだ。
「お許しは出たのですか?」
 飢左衛門がそんな女の作業を眺めながら、囲炉裏を囲んで腰を降ろすと、またもや女は小さな細々とした声で話し掛けてきた。小さな背丈と、華奢な体とよくよく似合った、全く聞き取りにくい声音である。
「おう。予定通り、明日の朝には出る」
「そうですか」
 努めて明るく振舞う飢左衛門とは対照的に、女の声がどうしようにもないほど小さくなってしまった理由は、彼女の表情を見れば容易に想像できた。悲しいからである。彼女は体つきとよく釣りあった童顔であるが、色白で見目顔立ちのくっきりした中々の器量良しだった。であるがために、些細な表情の変化もはっきりとわかってしまう。
「しずは悲しいか?」
 しずと呼ばれたその女は、こくりと首を縦に振った。その顔立ちと体系からして小娘にも見えるが、この正月でもう二十七になった。十歳以上離れてはいるが、紛れもない飢左衛門の妻だった。
「そうか」
 そう言う飢左衛門の声も、釣られるようにしてか何やら語尾が消え入りそうなものになっていた。
「いつ頃に帰られるのですか?」
「桜が散る頃までには帰るさ」
 今にも泣き出しそうな顔を俯き加減に落とし、それまで以上に手を動かして修繕に必死になることで、しずはなんとか泣くまいと気を紛らわしているようだった。この年になって、しずはよく泣く女だった。無理もない。そんな妻の健気な仕草を眺めながら、飢左衛門は彼女を不憫に思う。
 せめて子さえできていれば。
 飢左衛門としずには子供ができなかった。せめて子供さえできていれば、しずもこんなに泣き虫にならず、もっと明るく振舞えるようになっていたかもしれない。それなのに、子はできない。夫はといえば、いつ死ぬかもわからい、しかも略奪を糧とする賊の頭領である。泣くのも無理はない。しずは孤独すぎた。
 しずが物心ついて間もない頃、彼女の父と母は死んだ。祖母も兄も死んだ。生まれ育った和泉の商家は、戦場となったが故に焼き払われ、混乱の中で家族は死んだ。どうせ細川か畠山の仕業であろう。一人、奇跡的に生き残った彼女もまた、どうにもならぬ飢えと悲しみのために泣き叫ぶしかなかった。そんなしずが、泣くだけの気力すら失おうとしていたとき、奇しくも戦場に金品を求める賊の一隊が、その焼き払われた地に現れた。この賊こそ、まだ二十そこそこの青年であった飢左衛門を頭領とする御厨子党だった。若き頭領は焼け跡に泣き叫ぶ憐れな少女を見つけると、周りがとめるのも聞かず持っていた握り飯を少女に与え、自らの痩せ馬にその小さな体を引き上げた。その日から、しずは飢左衛門の娘となり、飢左衛門の家に起居する水主郷の住人となった。そして十年後、二人は夫婦となった。
 頼れる人間は俺しかいないのだ。
 拾われ子のしずに身寄りなどない。彼女は孤独な女だった。頼れるのは、賊の頭領である夫しかいなかった。せめて子供さえできていれば。飢左衛門も四十を過ぎた。もし自分が死んでしまったら、しずはどうなるのだろう。唯一の寄る辺を失って、彼女は生きていけるのだろうか。
 死ねない。生きねばならない。自分のためにではない。それは常に、他人のために。
 しずだけではない。八重吉も十五郎も飢左衛門が拾った子供だった。戦乱で家を無くし、親を無くし、頼れるものを全て無くし、悲しみと飢えによって泣きじゃくっていたところを飢左衛門に拾われ、救われた子供だった。飢左衛門が八番目に拾った男児が八重吉で、十五番目に拾った男児が十五郎になる。何も拾った子供全員に数にちなんだ名前をつけたわけではなく、ただ響きがよかったから八重吉、十五郎としただけのつもりではあるが、考えてみると数字に関係ある名前が多い。だが、

、のような適当な名付けはしていないつもりだ。
 拾った子供の半分は、他の賊との小競合いや、どうにもならない病で死んだ。残りのうち半分は賊になることを良しとせず、水主で農耕を糧とすることを選んだ。飢左衛門が拾った子で今も御厨子党にいるのは八重吉と十五郎だけである。
 八重吉も十五郎も飢左衛門が救いの手を差し伸べなければ、そのまま飢えて死んでいたであろう。であれば、極楽浄土なる場所へ行けたのであろうか。救いの手を差し伸べたことで結果として彼らは賊になり、生きるために鬼畜の道を歩むことを選択させてしまった。救いの手を差し伸べるという行為が果たして正しいことなのであろうかとはよく考える。
 しかし。
 賊に身を貶すというのはどういうことか。常祐坊のように信仰を捨ててきた者もいる。妻子も家も土地もなくして賊になった者、飢えに耐えかねて賊になった者、賊に全てを奪われて賊になった者。寄る辺や希望を持った者が賊になるはずがなかった。皆が皆、この世に希望の光を見出せなくなったからこそ、賊になるのだ。賊としてでなければ人として生きることができないから賊になるのだ。
 そのような状況に追い込んだのた誰だ。そのような生き方すらできない人が生まれ続けている状況を放置しているのは誰だ。このような世を創り出したのは誰だ。その答えとなる存在が彼らを助けることはない。故に、飢左衛門は助ける。それが修羅の道であるとしても、あるかないか分からぬ極楽浄土を夢見て朽ち果てるより良いではないか。
 そんな状況で助けられた彼らが頼りにできる人間は一人しかいない。
 命を預けた、頭領。
 俺は、死ねない。御厨子党員四十一名、さらには党員の妻子たち、そして他ならぬ彼の妻であるしず。飢左衛門はその全てを背負っていた。そして今日、これまで互いに助け合ってきた水主の郷長、晋兵衛にすら頼られていたことを知った。御厨子党だけではない。水主の全てを彼は背負わされていたのだ。
 そして、南山城の全てを背負えと言われた。
 できるはずがない。背負いきれるはずがない。なぜなら、飢左衛門自身も拾われ子だった。本当の親の顔すら知らない、天涯孤独な男だった。誠ノ助の諌めも聞かず、親を無くして泣き叫ぶ子供を見つける度に拾ってしまうのは、京の河原で泣き叫んでいた幼き頃の自分自身と重ね合わせてしまうが故のことだった。そんな俺が、もうこれ以上、背負いきれるはずがない。
 何度も何度も繰り返される鼻をすする音が、飢左衛門を現実の世界へと引き戻していた。か弱い孤独な女は、ついに溢れ出る涙を止めることができなかったのだ。
「すまん」
 小さな白い手で口を塞ぎ、思案に暮れる夫を邪魔せぬように泣き声を抑えていた健気な妻を、飢左衛門は抱きすくめていた。涙で潤むしずの視界は、ぐるりと回転していた。
 聞いた話によると、武士は出陣の十日くらい前になると、女を一切近づけなくなるらしい。もしかすると永遠の別れになるかもしれないというのに妻とも会わず、無論のこと抱くこともない。女を近づけると勝ち運が逃げるんだそうな。そんな馬鹿な話があるか。
「嫌」
 突然の展開に混乱したしずは小さな涙声を耳元で上げ、男に抗ってみせた。
「関係ない」
 朝だろうが昼だろうが関係ない。出陣の前だろうが後だろうが関係ない。俺は武士ではない。抱きたいときに抱く。それのどこが悪い。
 俺は、賊なのだ。
 賊の頭領である男の力を前に、華奢なしずが逆らえるはずがなかった。諦めて男に成り行きを任せようとしたとき、しずは混乱から解放されていた。そして女は思い出した。この世で頼れる唯一の人。戦場に出かけてしまうその人は、もしかしたらもう二度と会うことができなくなってしまうかもしれない人。この世でたった一人の愛しい人。
 絶対に放さない、失いたくない。全てを思い起こしたとき、女は男の厚い胸板に縋りつくより他なかった。溢れる涙を我慢することも忘れて、夫を抱きしめるしかなかった。
 そんな不憫な妻の気持ちを悟った男もまた、より一段と強く女を抱きしめていた。
 俺は、死ねない。そして、もうこれ以上、背負えない。
 他人の孤独を背負うほどに、男もまた孤独を増していた。多くの人に頼られるほどに、男は重圧に潰されそうになっていた。しかし、潰されるわけにはいかない。逃げるわけにはいかない。増す一方の孤独と重圧を、男は明るく振舞うことによって何とか周囲に勘付かれまいとしていた。
 水主郷の信頼と孤独の全てを背負う御厨子の頭領こそ、実は最も孤独な男だった。
 温もりでしか癒せない。孤独も重圧も悲しみも、全てを忘れ、人であることさえも忘れて、男は女の温もりがもたらす快楽に溺れようとしていた。
 男と女は共に涙を流しながら、互いの体を求め続けるしかなかったのだ。
 親父は何で俺を拾ったんだ。何で俺を頭領にしたんだ。あのまま何も知らないままくたばっていた方が楽だったんじゃないだろうか。助ければ助けるだけ、俺のような孤独な人間を増やしてしまっているのではないのだろうか。
 飢左衛門の問いに答えてくれる存在はいつも、どこにもいなかった。
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登場人物紹介

御厨子飢左衛門(みずしきざえもん)


南山城国の水主郷を根拠とする賊集団、御厨子党の頭領。

40を過ぎているものと思われるが、拾われ子であるため正確な年齢は不明。

畿内でも有数の大規模賊集団の頭領として、同業の中では多少、名を知られた存在。

骨川道賢(ほねかわどうけん)


多くの賊集団を統合し、畿内一の賊となった骨川党の頭領。

高野藤七(たかのとうしち)


高野党の頭領。

飢左衛門より一回り以上若いと推察されるが、闊達でさっぱりとした人物であり、飢左衛門もその人となりを認めている。

畠山義就(はたけやまよしなり)


三管領家の一つ、畠山家の家督を争う人物。

昨今における争乱の火種の大半はこの男が関わっていると言って差支えなく、またその舞台が御厨子党の地盤と被るため、飢左衛門はその存在を嫌悪している。

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