10 骨皮道賢

文字数 8,761文字

 麟ノ丞によって再びこじ開けられた包囲網を抜け去ると、目に飛び込んできたのは無数の松明に照らされた山頂の光景だった。開かれた広場に建てられた社の前には何人もの男がたむろしている。見回りをしている者、何やら騒いでいる者、いびきをかいて寝ている者、皆が皆、賊である。そのうちの幾らかが御厨子の頭領に気付いたようである。ざわざわと騒ぎが広まりつつあったその時、社の板戸が開かれ、中から従者を引き連れた男が姿を現した。
 骨皮道賢。
 この場にいる誰もが身につけていない甲冑を着こんだその男からは、周囲が周囲だけに否応にも風格のようなものを感じざるをえなかった。色白の顔立ちも手伝って、どこぞの名家の大将かと錯覚しそうにもなるが、こいつは武士などではない。賊の頭領である。
 骨皮党の道賢と、御厨子党の飢左衛門。畿内一の賊である骨皮党と、それに次ぐ御厨子党。その両者が歩み寄る。道賢が軽く右手を上げると彼の後ろに付いていた従者が歩みを止め、同じくして飢左衛門を先導する形だった麟ノ丞も脇へ逸れていった。
 一対一、ということか。
 互いに相手の目だけに焦点を合わせ、視線をぶつけ合ったまま、二人の頭領は歩み寄る。
 雲が闇夜を照らし出す月明かりを覆い隠し、夜風に山林の木々がざわめく稲荷山頂付近の参道において、二人の頭領は二度目の邂逅を果たしていた。
 言葉を交わすでもなく、ただ距離にして五歩のところで対峙し続ける二人の頭領は、共に中背で背丈はほとんど変わらない。体型もまた、がっしりとした胸板が示すように堂々とした体躯である飢左衛門と、やや小太りの部類に入るであろう道賢では、互いに戦場姿であることもあって指したる違いは見受けられない。ただ、粗末な胴丸姿の飢左衛門に対して、壮麗な甲冑を身に纏った道賢の方が見てくれは上か。色白で肉好きの良い頬からして、やはり賊の頭領という感じはない。一見すると人当たりの良さそうな顔つきではあるのだが、ぎらぎらと強く妖しく光る、その切れ長の目だけが何やら不敵な気味悪さを覚えさせる。年は三十前半という話であるから飢左衛門よりもかなり年下であった。
 畿内一の勢力を誇る骨皮党の頭領、道賢とはそんな男だった。
「御厨子飢左衛門、か」
 沈黙を破ったのは、道賢の方だった。
「こんな時勢に、こんな夜更けに参拝とは、えらく信心深くなったもんだな、飢左衛門」
「手前こそ。こんな大勢引き連れて、神のおわす山に御遊山たあ、らしくねえ」
「逃げ出しちまったらしいな。神だか仏だか何だかしらねえが、そんなものはいなかったよ」
「手前が追い出したってか。言ってくれるじゃねえか」
「生憎だが、神や仏だのを信ずるような甘さは持ち合わせていねえよ、俺は」
 やはり、合わない。こいつだけは、合わない。
 高野藤七や笹原麟ノ丞などがそうだが、年下の頭領に呼び捨てにされたり、小馬鹿にされても、飢左衛門は一向に気にしない。しかし、こいつだけは駄目だ。飢左衛門の中の何かが、この男を拒絶している。
「甘さ、ねえ。別に信じたっていいじゃねえか」
「これは御厨子の飢左衛門とは思えねえ言葉だな。やっぱり信心深くなったんじゃねえか?」
「ざけるなよ。神仏なんてもんを信じたこたあねえよ。けどな、神仏を信じることが甘いってこたあねえだろ」
「目に見えやしない神を、人の手で造られし仏像を、崇め、拝み、救いを求める。馬鹿げたことじゃねえか。弱きが故の甘さだよ。そんなもんは」
「まるで自分には弱さが露ほどにもねえって言い方だな」
「ねえよ。それとも何か。あんたは持ち合わせてんのか。御厨子の飢左衛門ともあろうお方といえども、弱さを持ち合わせてると言うのか?」
 わかってねえ。こいつは何もわかってねえ。
 弱さを持たずして賊などできるものか。脆さを持たずして賊になるものがどこにいようか。誰もが暗い過去、堪えきれぬ空腹、どうにもならない現実、そんな惨めな思いを経てして賊に身を落とすのだ。空を蒼いと感じながら、賊などという存在に自らを貶めねばならなかったのだ。死にたくないという、どうにもならない欲望に負けたが故に、他人を傷つけてでも自らが生き残るために賊となる。それを人の弱さと言わずして何と言う。
「手前の知ったことか」
 神や仏を信ずるか否かなど関係ない。弱さを持ち合わせぬ賊などいようものか。いや、賊だの賊でないに関わらず、果たして弱さを持ち合わせていない人がこの世にいようものか。
 いてたまるか。
 骨皮道賢。手前は自惚れてるだけだ。そして、賊のことを何一つわかってやいない。手前は賊たるものを上辺だけで理解しているに過ぎない。
 長い沈黙の中、ぶつかり合う視線に飢左衛門が込める決意はただ一つ。やはり、こいつとは相容れない。こいつとは決着をつけねばならない。賊が、賊であるために、なんとしてでもこいつを蹴り落とさねばならない。
 骨皮道賢。手前は賊ではない。賊の格好をしただけの、ただの野心家だ。
 眼前の道賢の向こう側には数多の骨皮党が控えている。背後にも麟ノ丞を始めとした十数人がおり、彼らに囲まれ身動きすら取れない三人のみが味方という、まさに逆境の極み。それでも下手に出るわけにはいかない。こいつにだけは謙ってはならない。
 道賢もまた、年長の飢左衛門に劣らぬだけの胆力と覇気を持ち合わせていたとはいえ、飢左衛門が胸中に秘めた決意に敵うほどのそれは、どうやらなかったようだ。故に、睨みあった視線を先に逸らし、続いた沈黙を溜息によって撃ち破ったのは道賢の方だった。
「気になっていたことがあった」
 一時、離れていた視線も、低く響いた道賢の言葉と共に再びぶつかり合っていた。
「昨日、俺たちを討伐に来た畠山の軍勢を奇襲して追いやったんだが、その中で唯一、激しく抵抗してきた小隊があった。けどな、よくよく眺めてみると、どう見ても普通の軍隊ではない」
「ほう」
「貴様だな、飢左衛門」
 互いに賊同士。互いに遣り合ってわからぬはずがない。
「俺も気になっていたことがあった」
「答えろ、飢左衛門」
「稲荷山に現れ、西軍の兵站を乱してるってのは細川勝元の腹心だって話だったが、どうもむさ苦しい輩しかいねえみてえだ」
「腹心、ねえ」
「これみよがしに武士みてえな格好してやがるが、まさか手前がそうだとか言うんじゃねえだろうな」
「腹心か。そりゃあ良い。世間様は腹心と仰ってるってわけか。嬉しいじゃねえか」
 甲高い笑い声は、閑静な闇夜に良く響く。
「悪いがな、飢左衛門。そのまさかだよ」
「けっ。何が腹心だ」
「俺はもう細川様の陪臣じゃあねえ。直臣になるんだよ。世間様が俺のことを腹心だと噂しても何の不思議もあるまい。この任務さえ終えれば、俺は晴れて細川様の直臣になれる」
「手前が細川様の直臣たあ笑わせる。賊にもなりきれねえ半端者の手前が、武士になんぞなりきれるものか」
「言うてくれるわ。その目でしっかりと見てみろよ、この稲荷山を。この俺の力を」
「手前は自惚れてるだけだよ」
「この稲荷山には五百を越える兵がいる。皆が皆、俺の兵だ。畿内の賊という賊、落ち武者、咎人、戦火で家を失った者らを糾合して結成した骨皮軍よ。骨皮党ではない。骨皮軍だ。俺にはこれだけの力がある。これだけの数を結集させるだけの力がある。飢左衛門、あんたが持っていない力を、俺は持っている」
「百五十もの賊を束ねて畿内一と豪語してきた骨皮の道賢様ともあろうお方が、たった五百しか集められないとはざまあねえ」
「四十だか五十だかしかいねえ御厨子の頭領様にゃあ言われたくねえな」
「それが俺には相応なのさ。賊なんてもんはせいぜいそんなもんだろう。手前にゃ不相応だ。五百もの賊を率いるだけの器量も、武士という肩書きも、どっちもこなせやしねえよ」
「俺は、やり遂げてみせる」
「明日にゃあ、援軍がここへ来るぜ。凌げるのか、手前に」
「俺がここで踏ん張れば、西軍は京中から稲荷へ兵を派遣せざるをえない。すれば手薄になった京の守りを突いて、山科の細川様たち東軍が大挙して進軍する。今の膠着状態を打破すべく、俺はこの稲荷山に派遣された。細川様に信頼されて、俺は派遣された。負けるわけにはいかねえんだよ」
「賊の考えることじゃねえな」
「援軍が来るってことで俺の任務の一つは遂行されたわけだ。後は、凌ぐだけだ。そうすれば、俺の勝ちだ。勝ちなんだよ、飢左衛門」
「夢見とくがいいさ」
「俺は武士になるんだよ。細川様の直臣になる」
「利用されてるだけじゃねえのか?」
「黙れ」
 しゃりり、と鳴らせて抜刀された道賢の打刀。金細工の装飾鮮やかな、それは確かに銭になりそうなものだった。頼りなげな月明かりを美しく反射する刀身は一点たりとも曇ることなく、飢左衛門の顎先に突きつけられた切先もまた、どうしようにもなく鋭利であることを証明するかのように、きらりと光っている。
「細川様は俺にこの太刀を下さった。我らの命運を骨皮道賢に託す、と仰って下さった。冒瀆は許さん。俺は、この太刀にかけて、必ずやこの任務をやり遂げてみせる」
「しゃらくせえ」
 それは早業だった。言葉と同時に鳴った、しゃっ、という音が今度は飢左衛門の腰元から放たれる。あっという間に飢左衛門もまた抜刀に及んでいた。
 あまりの早業であったが故に、先に抜刀していた道賢であっても流石に反応することはできなかった。至近距離において、互いに小金細工の美しい打刀の切先を相手の顎先に向けながら、やはり御厨子と骨皮は互いに相容れぬ宿星だった。
「麟ノ丞、来るんじゃねえ」
 背後から伝わってきていた巨大な覇気は麟ノ丞のものだったらしいが、道賢の怒声一つで後方からのそれは沈んだ。それとともに、道賢の背後から一斉に近づいてきていた数多の殺気もまた行き場をなくしていた。
 飢左衛門にとって、この場はまさに四面楚歌であった。誠ノ助や常祐坊などは人質にされているようなものだ。それでも彼は怯まない。怯むわけにはいかなかった。この男だけには負けてはならない。
「骨皮の道賢さんよ。俺の迷いは吹っ切れた。手前は、この俺が斬り捨てる」
「良い太刀を持ってんじゃねえか」
「畠山義就から貰ったもんだ」
「ちくしょうが。やはり、昨日のは御厨子党だったんだな」
「だったらどうした」
「二年前、か。俺のことを散々言っておいて、それに今だってそうだ。俺のことを貶しておきながら、あんたも畠山義就の旗下に入ってんじゃねえか。俺とどこが違う。高野の藤七も同じよ。朝倉の下で大将やってるとかいう噂だ。あんたらに俺のことをどうこう言う資格がどこにある。おめえらも結局は武士に与してるじゃねえか。結局は武士になりてえんじゃねえのか。畠山義就から褒美まで貰っておいて、それを主従の証と言わずに何と言う。おめえも俺と同じなんだよ」
「ざけるなよ。手前と一緒にするんじゃねえ。高野の藤七が何を考えてるのかは知らねえ。けどな、御厨子が参加したのは、御厨子を第一に考えたが故のことだ。手前みてえに己一人の野心のためにやったことじゃねえ。それに、だ。この太刀を受け取ったのは主従の誓いを果たしたが故の証では有り得ねえ。手前とは違うんだよ」
「屁理屈こねやがって。なら何だってんだ」
「これは手前を、骨皮道賢のために受け取った代物だ。手前の首を刎ねるがために受け取ったんだよ。俺の大事な刀を手前なんぞの汚ねえ血で汚したくねえからな」
「ほざきやがって」
 御厨子は御厨子のために動く。水主のために動く。武士のために動いてやる必要性など有り得ない。故に、いくら認められたからといって、褒美をくれるからといって、義就の大抜擢に応じることなど普通ならば有り得ないことだった。
 しかし、義就は言った。稲荷山に陣する相手が骨皮道賢だと。
 なんとなくであるが想像はついていた。それが確信へと変わった。
 迷った。道賢は雌雄を決するべきだと常々思っていた。それに畠山義就という男に興味が湧いてしまったということもある。しかし、武士の戦という舞台の上で雌雄を決するべきではないという考えも、当然あった。故に迷った。迷ってるうちに義就から太刀を受け取っていた。
 その迷いを打ち砕くべく、夜も更けてはいたが、その日のうちにこうして敵地である稲荷山へと足を運んだのだ。そして、迷いは砕けた。
 骨皮を討つ。
 確かに道賢が言うが如く、畠山義就という武士らに多少なりとも頼ることになるのかもしれない。だがそれでも、そうだとしても、御厨子をもってして骨皮を討つ。
「御厨子の飢左衛門。それくらいにしておけよ。おめえは今、俺の声一つで首が飛んじまうんだぜ」
「殺れるもんなら殺ってみやがれ」
「御厨子の飢左衛門ともあろうお方を殺っちまえば、俺の評判はがた落ちってわけか」
 怖れねえ。賊ならそんなもんは怖れねえ。けど。
「手前は賊じゃねえ」
「賊だ。俺は賊だ。畿内一の賊だ。俺は賊だ」
「ならばここで俺を殺してみろ」
 二十年近くに渡って畿内で一、二を競ってきた御厨子党の頭領にある飢左衛門の名声。それは同じ賊の間においては絶大なるものがある。畿内の中小賊集団を糾合した骨皮党だか骨皮軍の大半は、御厨子飢左衛門という名を当然の如く熟知し、そして畏怖している。そのことを、骨皮道賢もわかっている。
「舐めるなよ」
 故に、今、ここで、こいつは俺を殺すことはできない。いくら虚勢を張ろうとも、怒りからか突きつけてくる切先が小刻みに震えようとも、この場で俺を殺すことはできない。
 何故ならば、こいつは賊ではない。
 賊ならば殺せる。体面も名声も気にしない。それが生き抜くための唯一の手段であるからこそ、やらねばやられるという恐怖心があるからこそ、どんな卑怯な手を使ってでも殺れる。だが、こいつは賊ではない。いくら自身を賊と言おうが、結局は賊になりきれぬ半端者。周りの顔ばかりを窺い、自分の評判を神経質なほどに気にしているこいつには、ここで俺を殺れるはずがない。
 この男が彼方先に見ているのは賊の未来ではない。もっと違った、もっと馬鹿げたものを夢見ている。
「勝負はお預けだ」
「待て、飢左衛門」
 こいつが望むのは、今ここで俺を殺ることではない。四面楚歌の俺を殺り、卑怯者と影で言われることを望みはしない。こいつはそういう奴だった。故に、堂々と雌雄を決することを望む。それは明らかに賊の考えとは異なる。
「じゃあな、骨皮の道賢」
「待ちやがれ」
 互いに相手の顎先に突きつけあっていた打刀を一人勝手に引き下げて鞘に収め、くるりと背を向けた飢左衛門を追ってきたのは、やはり太刀が空を斬る鋭い音ではなく、狼狽したかのような骨皮道賢の声の方だった。
「心配するな、骨皮道賢」
 言いながらも飢左衛門は歩み出した足を止めなかった。それでも、背後から追ってくる足音や殺気はない。振り向いた前方にただ一つ、異様に強い殺気があるだけだ。
「手前が望むとおり堂々と、骨皮党と御厨子党で遣り合って決着をつけようじゃねえか。逃げやしねえよ。勝負は明日以降に持ち越しだ」
 今度は声さえも追ってこなかった。やはり、道賢は賊ではない。賊では有り得ない。無論、武士でも有り得ない。
 ただ、この場に居合わせた骨皮党員の中には、飢左衛門が賊としてその人格と器量の程を認めてきた男が一人だけいた。去り行こうとする御厨子の頭領をただ黙って見送る骨皮の頭領に遠慮してか、骨皮党の誰もが手はおろか、声すら出せずに立ち尽くしている中で、その男だけは違っていた。
「どけ」
 帰路に立ちふさがっていたのは笹原麟ノ丞に他ならない。だらりと垂らした右手に使い慣らした抜き身の打刀を引っ下げた麟ノ丞は、その鋭い目に飢左衛門のみを映し出し、全身から溢れんばかりの気合いと殺気を視線に込めてぶつけてきていた。
 やはり、こいつは一端の賊だ。ここで帰してはならない、殺しておかねばならない、とする思考こそが賊なのである。巷の評判など関係ない。悪名など広まって良し。卑怯者などと罵られるは万万歳。そういうものだろう。。
「どけっつってんだ」
「このまま帰すわけにゃいかねえ、御厨子の飢左衛門。二年前と同じにはしねえ」
「おめえの頭が帰してくれるっつってんだ。二年前と同じようにな」
「お頭は帰してやるとは一言も言ってねえ」
「丁稚にゃ用はねえんだよ」
「俺のことを丁稚と呼ぶんじゃねえ」
 怒号と全身から溢れ出す覇気と殺気が、共に相まって飢左衛門を打ちつけて来る。それは尋常なものではない。刀一本で頭領にまで伸し上がった手練れは、御厨子の頭領に抱いていた負い目のようなものを全てかなぐり捨て、一人の賊となって挑みかかってこようとしていた。かつて賊の間で麒麟児とも称されていた男は、骨皮に奪われていた全てのものを今まさに取り戻さんとしていた。
 楽には帰らしてはくれない、か。
 すんなりと帰れるもんだと考えていた飢左衛門の考えは甘かった。目覚めてしまった麒麟児は、片手にぶら下げていた打刀を両手で握り締め、切先を中天へと向けて構え直している。
 流石に厳しいか。こいつに勝るだけの腕は正直持ち合わせていない。なんとか隙を見つけて凌ぎ切るしかない。そんな隙があるとも思えないが、なんとかするより仕方がない。御厨子の頭領は意を決して右手を柄へと手をやった。
「やめろ、麟ノ丞」
 背後から夜空へと木霊した音声はどうやら骨皮道賢のものである。それが証拠に、対峙していた麟ノ丞の覇気、集中力がほんの一瞬だけ萎えた。こちらを睨みつけてきていた視線も明らかに背後へと逸れている。
 好機。飢左衛門が見逃すはずもない。胴丸の下に忍び込ませている小さな麻袋に左手を忍ばせた。おそらく、気付かれてはいまい。
「帰してやれ、麟ノ丞」
 麟ノ丞の覇気は既に回復し、鋭い視線も再び飢左衛門へと向いていた。ただ一つ、麟ノ丞に起こった変化と言えば、背後から木霊する道賢の大声に反応してか、顔を真っ赤に紅染させていることである。
「ここで討つべき男です。討たねばならぬ男です」
 殺気と視線を御厨子の頭領へと向けたまま、麟ノ丞は飢左衛門の背後に大声を上げていた。
「こやつだけはここで討たねばなりませぬ。二年前と同じにしてはなりませぬ」
「帰せ。いいから帰せ」
「できぬ。ここで討たねば必ずや後悔する。御厨子を討たぬ限り、賊として頂点に君臨することはできない。あんたはそれがわかってない」
「貴様、麟ノ丞。立場をわきまえろよ。おめえは俺の手下にすぎねえ。死にたくなけりゃ、これ以上ぬかすんじゃねえ」
 地へ向けられた切先と、紅染させた頬を小刻みに震わせながら、麟ノ丞の覇気は明らかに勢いを失っていった。それを見届けた飢左衛門は柄から右手を放し、足を進めた。左手に収めたとっておきも使う機会はなさそうだ。
「これが手前の頭だ。半端者だ」
 怒りからなのか、屈辱からなのか。打刀を構えたまま、わなわなと打ち震える麟ノ丞の脇を通り過ぎる際、飢左衛門は小声で話し掛けた。
「手前ほどの男が下につくなんざ、勿体無え男ってことだ」
 そのまま脇を過ぎ去った飢左衛門を、もう麟ノ丞が止めることはなかった。どうやら太刀一本で伸し上がってきた麒麟児は牙を抜かれていた。麒麟児が最後に見せた声による抵抗も、どこか言い訳がましく聞こえてしまうものでしかない。
「どうしろって言うんだ。どうすればよかったって言うんだ」
 遠ざかっていく御厨子の党領の背にぶつかってくる麒麟児の声音もまた震えていた。
「おめえみてえな大賊じゃねえ笹原が生き残る道が、他にあったと思うのか。おめえにはわかんねえ。わかるはずがねえ。俺らみてえな小さな賊が生き残るには、こうするしかなかったんだ。おめえみてえな奴に、俺らの苦悩がわかるわけねえ」
 麟ノ丞の大音声を背に受けながら、飢左衛門は先程導き出していた決意を再び胸の中で呟いていた。
 骨皮を討つ。それは自らのために非ず。賊のために。賊が賊らしくあるために。
 極悪非道の輩と思われがちの賊ではあるが、実際は違う。誰もが心に傷を抱え、弱さを抱え、暗い過去を背負っている。故に賊となる。そんな弱さを隠すために、忘れたいがために賊として暴れ回る。それが正しいことなのかどうかは俺のような半端者にはわかろうはずもない。しかし、賊となる者の大半が心のどこかに弱さを持ち合わせているということだけは断言できる。
 そんな弱き心を巧みに操り、取り入り、脅し、利用している奴がいる。ただ自己の野望のためだけに、賊という存在を利用している奴がいる。
 許せるはずがない。
 ずんずんと進む御厨子の頭領を止める者など、もはや一人もいなかった。誠ノ助らを取り囲んでいた十数名の麟ノ丞の手下達も、何ら手出しすることなく黙って道を開けている。御厨子党員三名は既に解放されていた。
「戻るぞ」
「へい」
 党領の声に立ち上がって答えたのは誠ノ助と常祐坊だけである。心を打ち砕かれた少年は、虚空に視線を移ろわせたまま、立ち上がることすらできないでいる。
「いつまでそうやってんだ、手前は」
 御厨子の頭領は、そんな少年の胸倉を掴んで強引に立ち上がらせる。沈んだ目をしたまま抗うことすらしようとしない少年の頬を、飢左衛門は手加減することなく引っ叩いた。
「手前がしゃんとしねえでどうすんだ。手前が八重吉の分まで生きてこそ、あいつも報われるんだろうが。わかってんのか、しゃんとしろってんだ」
「はい」
「声が小せえ」
「はい」
 涙を零しながら、顔をぐしゃぐしゃにしながら、十五郎は稲荷山の夜空に声を響かせた。
 緒戦を勝利した御厨子党は、敵の真っ直中である稲荷山から逃げ出すのではなく、堂々と胸を張って後にした。
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登場人物紹介

御厨子飢左衛門(みずしきざえもん)


南山城国の水主郷を根拠とする賊集団、御厨子党の頭領。

40を過ぎているものと思われるが、拾われ子であるため正確な年齢は不明。

畿内でも有数の大規模賊集団の頭領として、同業の中では多少、名を知られた存在。

骨川道賢(ほねかわどうけん)


多くの賊集団を統合し、畿内一の賊となった骨川党の頭領。

高野藤七(たかのとうしち)


高野党の頭領。

飢左衛門より一回り以上若いと推察されるが、闊達でさっぱりとした人物であり、飢左衛門もその人となりを認めている。

畠山義就(はたけやまよしなり)


三管領家の一つ、畠山家の家督を争う人物。

昨今における争乱の火種の大半はこの男が関わっていると言って差支えなく、またその舞台が御厨子党の地盤と被るため、飢左衛門はその存在を嫌悪している。

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