4 水主の両輪

文字数 9,406文字

 年末から降り続いていた雪も止み、正月四日は呆れるほど綺麗な青空が広がった。
 二日酔いが未だ抜けぬ飢左衛門であったが、その日は朝から水主郷西部へと歩を歩めていた。西部は雪に埋もれた田畑が一面に広がっており、その中を踏み均されて雪と泥が入り混じった畦道が通じている。時折雪に足を取られることもあるが、このくらいならまあ歩くのに不自由はない。それでも飢左衛門の足取りがよたよたとふらついているのは、やはり昨日の酒のせいである。
 酒に弱い頭領たあ格好がつかねえや。
 昨日も少し呑んだだけで党員から顔が真っ赤だと冷やかされ、その先の記憶は全く無い。気がついたら朝で、しかも起き上がっただけで吐気がした。

には寝ていろと言われたが、やっとくことはやっとかなければならない。それが頭領というものだ。他の誰に頼れるものでもない。
 左手に呑めない酒の入った徳利(とっくり)を提げながら、飢左衛門はふらふらと西部のちょうど中心にある他に比べると造りの大きい民家の方へと、泥のにじんだ雪の畦道を進むのだった。 途中、雪の中を犬と遊んでいた坊主たちに手を振られ、それに応えたりしながら、ようやく飢左衛門は目的としていた民家へとたどり着いた。
「おうい。晋兵衛(しんべえ)はいるか?」
 真冬だというのに玄関の戸は空きっ放しになっていた。さすがにずけずけと上がっていくのも気が引けたので、玄関で訪ないを入れた。水主郷は飢左衛門の家を含めて土間一間という民家ばかりである。そういった家は玄関からすぐに中の様子がわかるものであるが、この家だけは違った。玄関に入ると目の前に広がるのは土間ではなく板戸だ。即ちこの家は、水主郷東部西部を含めて唯一、板戸によって空間が仕切られた、部屋という概念のある家だった。だからこそ、正月に玄関を開けっ放しにしたところで問題は無いのである。正月の挨拶に来るものを拒まないということだろう。
 良家に生を享けたならば、それなりの民家で生活でき、それなりの生活をすることができる。そうでない所に生まれたものは、そこいらで野たれ死ぬしかない。
 この民家の者は前者。俺は後者。
 天を怨んだことはない。こうして生きていることだけでも幸運なのだ。
「飢左衛門か?」
 さっと板戸が開かれ、姿を現したのは晋兵衛。飢左衛門は自分の正確な年齢は知らないが、飢左衛門と同年といったところなので、おそらく四十前半くらいであろう。代々、水主郷の長を務めてきた家に生を享け、晋兵衛自身も当然のように長を務めている。
「おう、晋兵衛。正月祝いでもしようと思ってな」
「元日にやっただろう」
「正月は元日だけではないぞ。ほれ。酒も持ってきた」
「呑めないくせによう言うわ。まあ上がれ」
「邪魔するぞ」
 草鞋(わらじ)を脱いで中に上がると、足の裏に床の冷たい感触が伝わってきた。寒いは寒いのだが、二日酔いの頭領にとっては、それなりに心地良く思えるのだからおかしなものだ。
「昨日はえらい騒ぎだったな」
 こちら側にまで昨日の盛況振りは伝わっていたということか。昨日は党員の鬱憤が爆発する結果となったがだけに当然のことかもしれない。ただでさえ水主は山の多い地域であるがために音が木霊し易い。それに何故かは知らないが、冬だとより一層響く。
「迷惑だったか?」
「毎年のことだ。別に構わん。だが、何でだ、飢左衛門?」
 話ながら互いに囲炉裏を囲んで座った。玄関入ってすぐの土間である。朱く熱を発する炭に手を翳し、座布団を通じて尻から体へと侵蝕してくる寒さに何とか抵抗してみる。しかしそれは逆に、暖かさと冷たさの対比がもたらす微妙な感覚が二日酔いの頭を今まで以上にぼんやりとさせるのだった。
「何でって、何が?」
「どうして今年は村の者の参加を断った?」
「ああ。それか」
 毎年、御厨子党が行う新年祝いには、村西部の者も参加して馬鹿騒ぎするのが恒例の行事であったが、今年に限って西部の者の参加を断っていた。無論、理由はご推察の通りだ。
「今年は党員だけで話すことがあった。悪かったな」
「ふむ」
 ちなみに村西部は、農耕を糧とするいたって普通の農村だった。その西部村民と御厨子党との関係は良い。賊である御厨子党が煙たがられたりしたこともない。御厨子党と水主村民は互いに必要な存在だった。
「まあ、ほれ、晋兵衛。せっかく持ってきたんだ。呑めや」
「朝っぱらから酒を呑みたいとは思わんな。お主一人で呑め。盃を持ってこよう」
「あ、おい。待てよ待てよ」
 立ち上がろうとした晋兵衛を飢左衛門は慌てて制止した。
「俺は呑まんぜ。昨日の酒がまだ残ってんだ」
「なんだ、お前。呑む気も無いのに酒なんぞ持って来たのか」
「飾りみたいなもんさ。正月だからよ」
「まあ、お前らしいということか」
 一区切りつけると、晋兵衛はその手を炭の放つ熱で暖めることに集中しだした。元が多くを語る人物ではない。中背の痩身で、髯も生やさずさっぱりとした外見ではあるが、滅多に感情を表に出すことのない水主郷長の顔は常に無表情であり、細く鋭い目と合わせて何か落ち着いた雰囲気を持つ男だった。郷長として、それなりの貫禄を持っているということなのだろう。水主郷民からその長である晋兵衛に対する不満の声を聞いたことは無い。飢左衛門も晋兵衛はよい長であると思う。
 ただ、二人っきりになるとどうしても息の詰まりそうになるのだった。酒が入ればまだしも、素面の晋兵衛は話し掛けない限りほとんど口を開こうとはしない。だから正月だと言う口実を作って朝から酒を持ってきたのだが、当の本人に断られてしまった。
「そういえば」
 気まずさを覚えだしたとき、飢左衛門は常日頃と違う家の雰囲気に気がついた。いつもなら会話が途切れると同時に話し好きな晋兵衛の妻が現われ、この気まずさから救い出してくれるのだが、今日に限ってはその気配が無い。耳をそばだててみても、聞こえるのは炭の弾ける音ばかりで、普段なら騒がしいほど聞こえてくる晋兵衛の妻子の騒ぎ声が全く伝わってこない。まさかまだ寝ているということはあるまい。
「奥方はどうした。子供も」
 晋兵衛には子もいる。まだ十にもならない男が二人、これがどちらも晋兵衛には全く似ず、母親の明るさばかりを受け継いだ活発な子供だった。ここに来るたびに御厨子の頭領は子供の遊び相手にされている。
「昨日から里へ帰っている」
 晋兵衛の奥方は奈島の出身だった。この地方の中心である奈島の商人の娘と、代々水主郷で長を出してきた家系の晋兵衛との縁組は、まあ妥当というところだろう。
「奈島か。大変だと聞いたが大丈夫なのか?」
「大変だからこそ帰りたかったのだろう。いつも実家のことを心配していた」
「ふむ」
 飢左衛門が心配した理由は、ここ最近の奈島に関する噂が酷いものばかりであるためだった。南山城の中心地の一つでもある奈島は、京と奈良を結ぶ奈良街道の要所として発展してきた宿場町であるが、その宿場町も近年は寂れるばかりだった。
 十年以上も前から果てることなく続けられている畠山家の抗争がその最たる理由だった。何でも当主の座をめぐって畠山家の家臣団が真っ二つに割れ、それぞれが熾烈な勢力争いをしているという話である。今、京で起こっている大乱も、その元凶はこの畠山家の抗争に幕府の実力者が介入したがためのことだ。
 畠山家の抗争は、畠山の領国である河内、大和、紀伊を舞台に繰り広げられた。故に京と奈良を結ぶ奈良街道は、この十年の間に何度も何度も畠山の軍勢が利用することになり、街道の要所である奈島の町も繰り返し軍勢が通過していく結果となった。そして軍勢が通るたびに、彼らは軍資金と称して町から銭や食料を徴発していったのである。当然、街道の宿場町として賑わった奈島は大きな影響を受けた。
 加えて南山城もまた畠山家の領国であった。長年の戦の影響により、畠山家領国の徴税は増す一方なのだ。ただでさえ軍勢の徴発に喘ぐ奈島にはもう限界だった。今の奈島にかつての繁栄は見る影もない。
「飢左衛門」
 声に反応してそちらへ目をやったが、当の晋兵衛は炭に手を翳し、炭に目を向けたままの姿勢だった。あまり人の目を見て話すこともしない男だ。
「御厨子党だけで話したと言ったな」
「おう。昨日の新年祝いでな」
「行くのか?」
 やはり、この男は鋭い。そこいらの家柄だけで長をやっているような奴らとは違う。優れた、良い長なのだ。囲炉裏から視線を上げようとしない郷長を見つめながら、頭領はそう思った。
「ああ」
「そうか」
 京へ発つ。
 昨日の結論を晋兵衛に伝えるために二日酔いを我慢して朝から出かけたのである。まさかたった一言で済むとは考えてもいなかったが。
「いつだ?」
「明日。今朝一番に誠ノ助と十五郎を先発させた」
「全員で行くのか?」
「みんな待ちに待った出立だからな。誰かを置いていくことなんてできねえ。それでだ。いくらか兵糧を持っていきたいんだが。いいか?」
「それは構わん。貯えのほとんどはお主らが持ってきたものだ」
 水主郷には余人にわからぬよう山間部に建てられた倉がいくつかある。米倉、銭倉といったそれぞれの倉には相当の貯えがあった。つまり、豊かであった。一山越えたすぐ隣の奈島の廃れ具合とは雲泥の差である。無論、それには理由がある。
 ここ数年で零落したのは何も奈島だけではない。奈良街道の宿場町や沿道の村落は、どこも徴発と重税に打ちのめされて奈島と似たような状況になっていた。しかし、水主郷は奈良街道沿いの村落ではない。街道とは一山隔たれているのだ。故に法外な年貢に悩まされることはあれど、街道を通過する軍勢の徴発に喘ぐことはなかった。
 加えて御厨子党の存在があった。年に一度ニ度と出張して様々な物資を持ち帰ってくる御厨子党は、水主郷にかなりの貯えをもたらしていた。この水主郷が飢えることなく今日に至っているのは御厨子党の活躍があるからであり、御厨子党が水主郷民と良好な関係を築いているのも彼らの活躍があるからこそだった。
 御厨子党の興りについて飢左衛門は詳しくを知らない。苦しい生活に耐え切れずに水主郷民が賊となったという話もあったし、かつて悪党と呼ばれた人々が水主を本拠としたのが今日まで続いているという話もある。とにかく何代にも渡って水主郷と御厨子党が深く関わってきたということは確かである。
 郷民にとって御厨子党は生活を助けてくれる存在だが、党にとっても水主は彼らのねぐらなのだ。水主にいるときには郷民を助けて働いたりもする。夏場は党員総出で農作業を手伝う。また党員の子で危険を伴う賊になることを拒むものは水主西部へと移って農耕に従事するわけで、やはり互いに必要な存在だった。
 だから、御厨子党が京へ稼ぎに行くことを晋兵衛が止めることは有り得なかった。出張にいくらかの兵糧を倉から持ち出すことに反対するはずもなかった。しかし、互いに共存する間柄として、飢左衛門が独断でそれらのことを決定するわけにはいかないのだ。
「よし。じゃあ、そういうことだ。遅くとも梅雨頃までには帰る。畑仕事を手伝わにゃならんからな。明日は見送りにでも来てくれ」
 いつものように言うべきことは言い、聞くべきことも聞いた。晋兵衛と二人きりではこれ以上話すこともあるまい。酒も呑むまい。そう判断して飢左衛門は腰を上げようとした。
「待て」
 意外な一言に、はっとして声のほうへと目をやると、それまで俯き加減に朱く光る炭へと向けていた晋兵衛の視線が、しっかりと飢左衛門の目に向けられていた。ぶつかりあった視線に、飢左衛門は立ち上がることを禁じられていた。
「お主に言っておくことがある。いや、頼みと言ったほうがいいかもしれん。頼む」
 視線が絡まりあっていたのは一瞬だった。晋兵衛が手をついて頭を下げたのである。
「なんだ。どうしたんだ、晋兵衛。急に畏まっちまってよ」
 思わず飢左衛門にそう言ってしまうほど、それは意外なことだった。晋兵衛が真っ直ぐに視線を向けてくることも珍しいのだが、まさか頼みごとをしてくるとは想像もしていなかった。しかも頭まで下げてである。だいたい、これまで晋兵衛に何か頼まれたことなど数えるほどしかないのだ。
 奪ってきた物資を水主郷のために使うのも、農耕の手伝いをするのも晋兵衛に頼まれたからやっていることではなく、それが代々昔から続けられてきた常識だから飢左衛門もそうしている。水主郷と御厨子党が共存していくためにも、それは当然のことなのだ。むしろ、どちらかといえば飢左衛門たち御厨子党の方が晋兵衛に許可を得る立場だった。稼ぎのために出立するのも兵糧を持ち出すのも、何から何まで郷長である晋兵衛の同意が必要だったからだ。共存のため、ひいては互いに豊かに暮すためにそれは必要なことだった。どちらが上でどちらが下というのでもない。水主の郷長と御厨子の頭領は、役割こそ違えど水主郷に並び立つ両輪だった。
 それなのに郷長は頭領に頭を下げた。そしてその姿勢のまま、郷長は先を続けた。珍しくその口調は早口であった。
「今回の出立を止めはせん。党の誰もが待ち望んでいたことだろう。止められぬことくらいわかっている。好きなだけ暴れて、稼いでくればいい。しかし、今回で終わりにして欲しい」
「あん?」
「賊として稼ぎに出るのは今回限りにしてくれないだろうか」
「そんな阿呆な。晋兵衛、おまえ、何を言ってんだ」
 突然の不可解な頼みごとに一瞬、飢左衛門は呆気に取られた。それでも再度の晋兵衛の発言を聞くやいなや、御厨子の頭領は考えるよりも先に立ち上がって叫んでいたのだった。
「おまえは御厨子党が御厨子党であることをやめろと言うのか」
「やめろとは言っていない。やめて欲しいと頼んでいる」
 晋兵衛の頭も上がっていた。見上げてくる視線がぶつかる。
「同じではないか」
「同じではない。無理なことだってことはわかってるんだ。だから頼んでいる。強制はしない。お主に考えてみて欲しかっただけだ」
 飢左衛門が即座に言い返せなかったのは、ぶつかり合っていた晋兵衛の目がこころなしか潤んでいたからだった。普段は感情を面に表そうとしない、常に無表情な男が。この時、御厨子の頭領は一つのことを悟ったのだった。
 俺の方が上になっちまってたのか。
 それは男をどこか悲しく寂しい、冷めた気持ちに貶めた。だから彼は、より一層浮き彫りにされた孤独感を皮肉な微笑みで紛らわすのが精一杯だったのである。つい先程、男を立ち上がらせ、叫ばせていた熱い感情など、もはや微塵も存在していない。
「訳を聞こう」
 御厨子の頭領は再びその場に座し、囲炉裏を挟んで水主の郷長と向い合っていた。一方で水主の郷長は、飢左衛門の目にぶつけてきたその細く鋭い潤んだ視線を、再び朱い炭に落とし、その声もまたいつものゆっくりとした、いつもの落ち着き払ったものに戻っていた。
「奈良街道の惨状は知っておろう。頻繁に往来する軍勢に度重なる徴発を受け、それに重税も重なり、街道沿いの町々村々は壊滅したに等しい。それに最近は」
「前置きはいい」
 そんなことは言われなくともわかっている。
 ここ数年で街道沿いの町は没落した。さらに去年、京で大乱が勃発してからは、京へと向かう軍勢がこれまで以上に奈良街道を通過するようになり、より悲惨なことになったという話も聞いている。が、最近になって徴発を繰り返す軍隊以上に街道沿いの町々を困らせている存在があった。
 賊。
 それは死骸に集まる蝿と似たようなものだった。荒れていない地よりも、荒らされた地での稼ぎを好むのだ。故に全てを破壊し、荒らそうとする戦こそを、賊は格好の稼ぎ時とするのである。
 荒廃した奈良街道には各地から集まった賊が跋扈するようになっていた。軍勢による徴発の次には、賊による略奪が待っていたのである。奈島を始めとした街道沿いの町は壊滅したと言ってもいいかもしれない。
「晋兵衛。お前、街道を荒らす賊のことを聞いて、心を痛めたとでも言うつもりか。嫁の故郷が荒らされたと聞いて良心が擽られたって訳か。都合の良いことをぬかしやがって。水主がこうして飢えずにやっていけるのは、俺達が外で奪って稼いできてるからじゃねえか。お前だってそれを認めてきたんだ。それを今さらになってやめろって言うのか?」
 御厨子党は奈良街道での略奪に参加してはいない。御厨子党員が水主にいるときは農耕を手伝ったりするのだが、農作業が暇な時期には体力仕事も行っていた。即ち、奈良街道における物資の輸送の仕事である。奈良の町で業者に雇ってもらい、街道を使って京まで物資を運ぶのだ。いくらか払われる銭は無論のこと水主郷の倉に収める。年に何度かそうしたこともしていた。
 奈良街道は俺たちのお膝元じゃねえか。
 故に襲えなかった。無論、奈島や街道の町々は御厨子党の存在など知りはしない。知っているのは水主郷の人々のみであり、襲わないと格好つけたところで利などあるはずもなかった。現に八重吉などは略奪すべきだと騒いだ。しかし飢左衛門は静観することに決めた。他の賊集団が街道を略奪する中、御厨子党は彼らをとめることもせず、ただただ静観してきたのだ。
 それは荒くれ者に残っていた最後の良心だったのかもしれない。
「違う、飢左衛門。違う」
「何がどう違う」
「恐いのだ。この水主が奈島のようになることが」
 長年の付き合いで初めて聞いた晋兵衛の弱音に、飢左衛門は確信した。自らが共に並び立ってきた朋友さえにも頼られる存在となってしまったことを。
「考えすぎだろう。奈良街道の宿場町だったからこそ奈島はああなっちまったんだ。この水主は一山越えなきゃ街道に出れないんだぜ」
「そんなことはわかっている」
「なら、お前は何を恐れてんだ?」
「木津川がある」
「ああ」
 思わず飢左衛門が声を上げてしまうほど、それは確かに的を得た回答だった。
 近年の荒廃で不通区間すら出ている奈良街道に変わって注目されつつあるのが木津川だった。大和から南山城を通って淀の大河へと流れ込む木津川は、同じく淀川に合流する桂川、鴨川と間接的に繋がっている。言うまでもなく桂川と鴨川は京の地を流れる川である。即ち、木津川の流れを利用して京と奈良の二大都市を結ぶ水運が、奈良街道に変わって台頭してきたのである。
 それはそれでいいのだが、恐らく晋兵衛が心配するのは、この水主郷が木津川流域の集落であるが故のことだろう。水主郷西部に広がる水田は、すぐ脇を流れている木津川から水を引いているのだ。
 今でこそ、京と奈良を結ぶ木津川水運は物の往来が主である。が、近いうちに人の流れも盛んになるかもしれない。無論、軍勢も。その時、今度は木津川流域の町々村々が彼ら軍勢の餌食になるかもしれない。奈良街道沿いの奈島と同じように、木津川沿いの水主もまた軍勢の徴発に遭い、廃れていくのではないのか。晋兵衛が抱いている不安はそういうことだろう。
 やはり、この男は鋭い。一体、木津川流域に生活するどれほどの人間が、このような不安を抱いているだろうか。大方は木津川が賑わって、自らの村も豊かになればいい、くらいにしか考えていないだろう。確かに、飛躍しすぎた不安なのかもしれない。が、有り得ないことではない。否。大いに有り得ることである。今はそういう時代だった。
 しかし、飢左衛門には解せない。晋兵衛の心中を察知すると、飢左衛門はその疑問をぶつけていた。
「晋兵衛。お前の考えてることはだいたいわかった。けど、これと御厨子党が賊をやめることに何の関係があるんだ?」
 言うと、またもや晋兵衛の視線が囲炉裏から上がり、飢左衛門のそれと交錯した。既に郷長の目にさっきの潤みはない。
「守って欲しい」
「守る?」
「武士の軍勢や賊から、この水主を守って欲しい。いや。水主だけではない。奈島。いや、奈良街道の村々を救って欲しい。御厨子党の活躍で、この水主には相当の貯えができた。昔に比べれば豊かになった。先代の頃と比べてもな。もうお主らが外で働かなくても十分にやっていけるのだ」
 正直、飢左衛門は白けた。つまり、この水主一帯を守る義賊になれということだ。御厨子の賊に善玉になれとは、全く途方もない話だ。
「御厨子党が南山城は水主に在りと宣言するのだ。それだけで奈良街道に跋扈しておる賊どもは失せるであろう。この地域を軍勢が通り、徴発せんとすれば、御厨子党が出張し、その地の住民と協力して武士を追い払う。さすれば、この地方は救われる」
 確かに前者なら不可能ではないだろう。御厨子党は賊の間では有名な方であり、同時に恐れられてもいた。賊同士というのは諍いが起きやすいものである。故に互いにどこを本拠としているかを教えるはずもなかった。恨みを買った際に本拠を教われては話にならないからである。よって御厨子党の本拠が南山城であると賊の間で噂を流せば、今奈良街道で暴れている大抵の賊は逃げ出すだろう。
 それはよいとしも、後者は余りにも突飛な話だった。果たして御厨子党四十ニ人で武士勢力と戦うことができると、本当に晋兵衛は思っているだろうか。長年に渡り頭領として御厨子党を率いてきた飢左衛門は、徹底的な現実主義者となっていた。頭領の判断一つで、党の命運は決まるのだ。だからこそ飢左衛門は、どんな時も慎重に時局を見極め、最善であろう選択を下す。
「なあ、晋兵衛」
「飢左衛門。お主ら御厨子党の目が外へ外へと向いている間、この地域、南山城の状勢は一気に悪化した。それ故にわしら各地の長は連絡を取り合い、各々が何とか生き延びる方法を模索してきたのだ。元々、この辺り各集落は親密に協力し合ってきた仲だったからな。それでも今、この地域は武士のために壊滅しかけておる。奈島もどこも、今や風前の灯火だ。この水主だけが豊かであることに、わしは負い目すら感ずるところがあった。だからこそ、我ら水主が動かねばならぬ。奈良街道沿いの町々も、木津川沿いの村々も、我ら一体となれば必ずや武士にも勝てる。それが水主のためでもある。そして、結束の要となるものは、南山城の象徴となるものは御厨子党しかない」
 この男は聡明だ。どうしようにもなく聡明な長だ。が、晋兵衛の言っていることは綺麗ごとに過ぎない。理想に過ぎない。
「晋兵衛。お前の言いたいことはわかった。けどな」
「いや」
 自らの経験が生み出した価値観によって導き出された、自明の返事を伝えようとした刹那、頭領の回答は聡明な郷長の低く鋭い言葉と、さっと突き出された右手によって封じられていた。
「今はいい。今度、水主に戻って来るまでの間、ゆっくりと考えてみてくれ。そして考えた後に答えを聞かせてくれ。拒絶してくれても構わぬ。真剣に考えてみてくれ。お主にしか頼れる者はおらんのだ、飢左衛門」
 再び下げられた郷長の頭を眺めながら、飢左衛門は一つ溜息をついていた。そして、わかったよ、と素っ気なく言っていた。頭領の返事を耳にし、いつもの無表情な顔に若干、安堵の観を表した顔を晋兵衛が上げたとき、既に飢左衛門は立ち上がっていた。
「まあ、明日の出陣ん時にはいつものように見送ってくれよ」
 ああ、という郷長の返事を背に受けながら、飢左衛門は雪の世界へ足を踏み出していた。
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登場人物紹介

御厨子飢左衛門(みずしきざえもん)


南山城国の水主郷を根拠とする賊集団、御厨子党の頭領。

40を過ぎているものと思われるが、拾われ子であるため正確な年齢は不明。

畿内でも有数の大規模賊集団の頭領として、同業の中では多少、名を知られた存在。

骨川道賢(ほねかわどうけん)


多くの賊集団を統合し、畿内一の賊となった骨川党の頭領。

高野藤七(たかのとうしち)


高野党の頭領。

飢左衛門より一回り以上若いと推察されるが、闊達でさっぱりとした人物であり、飢左衛門もその人となりを認めている。

畠山義就(はたけやまよしなり)


三管領家の一つ、畠山家の家督を争う人物。

昨今における争乱の火種の大半はこの男が関わっていると言って差支えなく、またその舞台が御厨子党の地盤と被るため、飢左衛門はその存在を嫌悪している。

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