怨11 めくらまし

文字数 1,097文字

音信不通の靜子のマンションへ、高木は車を走らせていた。
メールも電話も返事がなく、来年公開の映画「幕末のキャラウェイ」のキャスティングオーディションにも靜子は姿を現さなかった。
女優 鎌田靜子の才能を一番良く知っているのは高木だった。
やっと掴みかけた幸運を、自らの手で逃してしまった靜子への怒りもあった。
だが今は、どうでもよくなっていた。
次の機会をチャンスに変えれば良いだけだし、彼女にはその才能があった。
それに、靜子と連絡が途絶えた事は一度もない。
だいいち「幕末のキャラウェイ」の監督を靜子は崇拝していた。

「津田監督の作品は何処か悲しげだけど、ハッピーになれる。いつか映画に出てみたいわ。死体役でもいいから」

そう語る靜子の瞳は輝いていた。
そんな彼女が訳もなく姿を消す等考えられなかった。
病気や事故。あるいは事件に巻き込まれたのではないか・・・高木は気が気でならなかった。
マンションの駐車場へ車を停めて、合鍵を使って靜子の部屋へ足を踏み入れる。
明かりは点いていない。
スイッチを押してもルームライトの反応はない。
ブレーカーを確認するが異常は見当たらなかった。
ダイニングルームに向かう長い廊下。
寝室もシャワールームも、クローゼットにも靜子は姿はなかった。

「靜子!」

高木の呼びかけにも返事はない。
不安に苛まれ、高木はダイニングルームの扉をあけた。
生暖かい風が、長い廊下へ吹き抜けていった。
閉め切られた室内は温室の様に湿っぽく、フローリングの床一面は水浸しだった。
高木は靜子の名前を呼んだ。
歩く度にピチャピチャと不快な音がする。
高木は大声で叫んだ。

「靜子!」

やはり反応はない。
カウチソファーもダイニングテーブルも、液晶テレビもカーテンも湿っている。
高木は窓を開けた。
新鮮な空気と日差しが飛び込んで来た。

天井からは水滴がポタポタと滴り落ちている。
その水滴の一部は、壁を伝って床へと流れている。
高木はゴクリと唾を飲んだ。
真っ白だった壁一面に、青カビと黒カビが生えていた。
ビッシリとこびりついたそれは、らせん状の模様を描きながら揺れている。
水滴は、その僅かな溝を流れていた。
高木は、足に絡みつく何かの感触にハッとした。
手を伸ばしてそれを拾い上げる。
真っ黒な長い髪の毛の束。
水気をおびて重たくなった髪の毛からは異臭がした。
皮膚のふやけた臭い。ぶよぶよと水膨れになった人の身体の腐敗臭。
高木は尻もちをついた。
鈴が鳴った。
かすかな鈴の音。

「靜子?」

突然、部屋の明かりが点いた。
しかし次の瞬間、火花と破裂音と共にルームライトは砕け散った。
カビだらけの壁、隙間を縫って滴り落ちる水滴が文字を浮かび上がらせていく。

「幽怨蟲」
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