怨16 伝染 調布市

文字数 3,944文字

東京都調布市国領町。
開かずの踏切で有名だった線路や遮断機は取り外され、行き交う車の流れは実にスムーズだ。
深夜まで営業している評判のラーメン屋の行列を横目に、サラリーマンの岸田はこう思っていた。

「こんな週末の夜中に物好きもいたもんだ。俺は絶対に並ばねえ」

岸田は心の中ではで悪態をつくが、それを口に出すことはない。
後輩思いで人たらし、30代半ばで営業部長に昇進出来たのも、そんな性格が大いに関係している。
上手な世渡りの基本は、コネと口の上手さと人あたり。大学時代に自然と学んだ事だ。
しかし、彼の心を蝕むモノは存在している。
「ストレス」だ。
それを和らげる術は酒と娯楽。
岸田は缶ビール数本と、駅前のスーパーで買った刺身を手に、16階建てのマンションの最上階の我が家へと急いだ。
離婚をしてからは気楽なものだった。
なにものにも束縛されない人生。
やはり自分はひとりがお似合いなのだ。
会社で気を使い、妻やその両親にまで気を使う毎日はまさに地獄だった。
胃を壊し、白髪は増えて動悸は激しくなる一方。
そんなある日、妻の浮気が発覚した。
岸田はここがチャンスとばかりに離婚の二文字を口にした。
自由になれた瞬間だった。
広めのバルコニーの窓際に、アンティークショップで買ったカウチソファーと、32インチのテレビが向かい合わせに置かれてある。
岸田の人生での居心地の良い場所は、もはやこの空間しかなかった。
ソファー横のガラステーブルにビールとつまみを用意してテレビをつける。
撮り貯めた番組を休みの前日に夜更かししながら観るのが、岸田にとっての幸せな時間だった。
最上階の見晴らしは最高で、遠くの丘陵に見える遊園地の観覧車。街の灯り。空と月と太陽と雲。眺めているだけで楽しかった。
岸田は缶ビールを口にしながら、テレビのリモコンを操作した。
録画番組も「未視聴」が増えていた。
実生活がそれだけ忙しいという現実に目眩がした。
だからまた悪態をついた。

「クソが。アホくさ!」

ふと、ワイドショーの番組内容が目にとまった。
「恐怖動画! あなたは信じますか? 本当に存在した呪いの〇〇〇」
岸田はふんと笑って「視聴する」のボタンを押した。
からかいながら見るつもりだ。
もともと霊感体質の岸田にとって、この手の内容はお笑い番組となんら変わりはなく、現に知人の舞台俳優が地縛霊に扮していた映像を観た時は笑い転げてしまった。
岸田はまぐろの刺身を二切れ同時に頬張ると、それをビールで流し込んだ。
楽しい夜になりそうだ。

1話目の恐怖動画は「廃墟のカップルに襲い掛かる侍」よくある話だ。
テレビの大画面には深夜の廃墟から出てくるカップル。撮影者は彼氏だろう。若い女の全身像をカメラは捉えている。
手ブレによる画像の乱れも演出だろう。
岸田は二本目のビールを口にしながら思った。

「ロング缶にしとけば良かったな」

テレビから「ウゥー」という叫び声が聞こえたかと思うと、ひとりの侍が暗闇の河原を走り抜けていく。
彼女も彼氏も悲鳴をあげながら逃げるが、侍はまたふたりの目の前を走り抜けて行った。
侍の後ろ姿はピンポイントでしっかりと捉えられていた。
岸田はビールを吹き出しそうになりながら思った。

「あんなに怖がって震えていたのに、なんでここだけピントがあってんだよ!」

まさに作り物だ。
2話目も廃墟に佇む少女という動画で、投稿者のインタビューからストーリーは始まるのだが、その一度も噛まない台詞回しとカメラ目線に岸田は吹いた。

「馬鹿だね」

3話目、4話目と早送りにした。見る価値もないと思ったからだ。しかし5話目のタイトルに岸田は何故か惹かれた。

「火花が舞い落ちる闇夜の廃虚で、エレベーターから現れた悲しげな黒髪の女の謎」

岸田は三本目のビールに手をかけた。
前半は若者達の声と雑音。それと、いかにもなナレーションによる演出が施されていた。
岸田はいつも思う。
わざとらしいその声が邪魔なのだ。いっそ自分が演出してやろうかと。
後半に差し掛かるとホールに舞い落ちる火花と立ち昇る白煙。エレベーターの真っ赤な扉のアップ。その扉が開くと、中に佇む若い女の姿がテレビの大画面に映る。
岸田は素直に感心した。
カット割りが一切なかったのだ。途中でスタジオに戻ることもなく、ナレーション以外は完璧に思えた。
次にお決まりの、怪しげな女の顔のクローズアップが効果音と共に映し出される。
岸田は笑った。

「おいおい、また余計な演出だな」

残り少なくなった缶ビールを口元へ運ぼうと手を伸ばした時、岸田は我が目を疑った。
画面に映る女の瞳。
真っ黒な瞳に映るもの。
それに愕然としたのだ。
カウチソファーに座って、ガラステーブルに置かれた缶ビールに手を伸ばす男の姿。
まさに今、この瞬間の己の姿が女の瞳に映り込んでしまっている。
それはテレビの画面越しからじぃーっと睨まれている感覚だった。
室内の灯りの反射などではない。
明らかに異世界から女が自分を睨みつけている。

「ねえ」

かすかに聞こえた女の声。
岸田は我に返った。
テレビを消して立ち上がり、辺りを見回すが誰もいない。
久々の不思議な感覚に全身の毛が逆立っていた。悪寒が走る。
岸田は窓を開けてバルコニーへ出た。
新鮮な空気を求めた。
息が詰まりそうだった。

雲ひとつない夜空に三日月。
風は爽やかで心地よい。
遠くを走るバイクの群れの音。
いつもと変わらない世界が広がっている。
岸田は頬を叩いた。
きっと酔ってしまったのだろうと言い聞かせ、思い切り深呼吸をしてみる。
なんてことはなかった。
いつもと同じ。つまらない1日の終わり。そして始まりなだけだ。
岸田は堪え切れずに笑った。
そして悪態をついた。

「くだらねえ。ばっかばかしい!」

16階のバルコニーのから、マンション裏手の小さな公園を見下ろす。
すべり台とブランコ。
鉄棒の脇の人影。
若い女が自分を見上げている。
じぃーっと見上げている女と目が合った瞬間、岸田の身体は固まった。
すかさず背後で声がする。

「ねえ」

公園の女の姿は消えていた。
岸田はある程度の覚悟を決めた。

岸田の背後で「プツッ、プツン」と音がする。
耳障りなノイズ。
-等間隔な機械音-
今しがた消したはずのテレビ画面に明かりが灯る。
ぼんやりとした暗闇に、うっすらと浮かぶ女の目。
岸田の身体は石像のように固まったまま動かない。
意識はハッキリしているものの瞼と眼球以外は動かせないでいた。
額から零れ落ちる汗が、眉毛を伝ってまつ毛を濡らす。
昔と同じ感覚だ。
岸田の視線は闇夜の誰もいなくなった公園を捉えているのに、背後の部屋の様子が直接脳に映り込んでしまう。
テレビ画面の女の瞳に映るものは、岸田自身の背中だ。その背中は徐々に大きくなっていく。
つまり、女が自分に近付いているのだ。
「恐い」
正直な気持ちだ。
バチバチと線香花火の様な音がする。
今までも、幾度も霊体験はして来たつもりではいたが、ここまで鮮明なモノは初めてだ。
岸田は震えた。
何回も瞼を閉じたがダメだった。
背後のテレビ画面の女の目は、岸田の背中をしっかりと捉えて放さない。
岸田は悪態をついた。
もちろん心の中で。

「もう勝手にしろ!馬鹿野郎! 俺なんかな、死んでもイイんだよ! どうせアホくさい人生なんだ。好きにしろよ馬鹿野郎!」

時計の針を刻む音が、カチカチカチカチと聞こえる。

「お前らな! 言いたい事あんなら素直に言えよ!なんでいつも恐がらせんだ馬鹿! そんなんじゃ誰も耳を貸すわけねえだろ馬鹿!恨みでもあんならな、恨む相手に言えよ馬鹿! 馬鹿野郎!」

岸田は最後の言葉だと覚悟して、今までの寝不足の恨み辛みを吐き出した。
不思議と恐怖心は薄れていった。
自分の背中越しに、若い黒髪の女がハッキリと見えた。
泣いている。
痩せてはいるが、生前はきっと美しかったのだろう。なんとなくだがそう感じた。
女の声が耳元で聞こえる。

「ねえ。あたしのために泣いてよ」

冷たい手が、岸田背中を這っていく。
首筋から耳元を伝い、髪の毛を弄り額から鼻筋、そして唇から顎へと真っ白で華奢な腕が伸びていく。まるで何かを確かめているかの様に。
岸田は心の中で呟いた。

「泣いてやるよ」

冷たい腕は岸田の肩から腕、そして手首へと伸び続けている。

「ああ、この女の手を掴んだら俺は死ぬんだな」

直感だった。岸田は想像した。
手を掴んだ瞬間に、地面へと真っ逆さまに落ちて行く己の姿を。
それでも良かった。
愛想笑いの疲れる人生だ。
友達もいない。人を愛せない。嫉妬や妬みの人生なんて終わりにしたかった。
ただ勇気がなかっただけだ。
次に生まれ変われるのなら、いや、生まれ変わりも望まないだろう。ゼロになりたかった。
冷たい手が岸田の手の甲を撫でている。
岸田が手を掴もうとしたその時。

「ダメ! まーくん!」

と、故郷の母の声がした。
絶叫だ。
岸田は思わず振り向いた。
振り返る事ができた。
そこに女の姿はなく、テレビも消えていた。
電話がすかさず鳴り響く。
ディスプレイには「母」の文字が表示されていた。10年ぶりに聞く母の声は優しかった。

「まーくん、元気ね?」

岸田はなんとなく恥ずかしかった。

「う、うん。どうしたの急に?」

「たまには声くらい聞きたいもんよ。お母ちゃんもう歳だからね」

「幾つ?」

「あら、知らんの? 68歳だよ。おばあちゃんだよ」

楽しげに笑う母の声を聞いて、岸田の目からは涙が溢れ出た。何故だかはまだわからない。
いつかわかる時がくるのだろう。

「どした? グズグズ聞こえるけど?」

岸田は慌てた。
鼻声を誤魔化そうと、わざとらしく咳をして涙を拭ってこう言った。

「風邪気味だよ。何かと忙しいから」

母の声がする。
こんな息子を愛してくれている存在。今更ながらに気が付いた。

「嫌になったらいつでも帰って来るんだよ」

岸田は言った。

「うん、わかった」

と。
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