第8話 紗那と亀井重清

文字数 2,988文字

 その日、桜井紗那(さくらいさな)は、何気なく高校の部活動をさぼりたい気持ちになった。
 季節は夏も真っ盛り、八月の初旬だ。
 外に出ると暑くてたまらない。長袖の胴着と袴姿の彼は、とたんに汗が噴き出してくる。彼も真白と同じ弓道部だったので、家から直接はかまを着て学校へ行こうと思っていた。

 しかし、外に出たとたんの猛暑。一気に部活動に行く気をなくし、裏山の氷穴で涼んで昼寝でもしていようと思った。
 紗那の家の裏山の、氷穴。

 それは紗那が小さなころからある氷穴で、山ともいえない小さな場所なのに何故氷穴ができたのかも分からない。
 でも、今日、この場所は紗那にとって憩いの場だった。
 一日くらいさぼってもいいか、そんな軽い気持ちで裏山の氷穴へ赴いたのだった。



 氷穴につくと、何か様子が違っていた。
 いつもはうすぼんやりと、氷がただ少し入る光を反射しいてる。
 だが、今日は氷の中に緑色のヒカリゴケのような光が灯り、その光が氷穴内に充満していた。

「なんだ?」

 声が氷穴内に反響する。
 不思議に思って奥に進んでいく。周りは氷穴だけあって、気温が低い。
 真夏であってもここだけは気温が低く、さっきかいた汗が引いていく。

 ひんやりとした内部で正面の一番大きな氷壁を見上げると、そこに緑色のヒカリゴケを文字にしたような字数列が見えた。

『X(S)―D(H)118403211200』

 それはこう書いてあり、紗那に意味はさっぱり分からない。
 ただ、無気味に光るその字数列に魅入り、思わず両手を氷に付けてしまったのだった。
 それがまずかった。

 紗那には見たこともない円陣が足元で緑色に光り、自分を包んでいくのを見た。
 眩暈がして足元がふらつく。
 思わずしりもちをついてしまい、片手で床をつかんだ。

「いったっ……」

 しりもちをついた手がジンジンとしびれていた。
 眩暈をやりすごしてから周りを見ると、そこは先ほどの紗那の家の裏山の氷穴とは違っている。
 さっきよりも内部がずっと大きい。
 正面にあった大きい氷壁も、さきほどよりももっと大きくなっていた。
 その氷壁にはまださっきの字数列が緑色に光っている。

『X(S)―D(H)118403211200』

 もう一度みても意味がまったく分からず、紗那は弁当の入ったスポーツバッグをもって一歩後ろへ後退し、円陣から出た。円陣は紗那が出たとたんにすっと消え、辺りは氷穴独特の冷たい風が吹いている。

 勇気を出して氷穴の外に出てみた。氷穴はそんなに深い洞窟ではなかった。
 そこは紗那の家の裏山ではなく、どこかの山だった。山は茶色く鬱蒼(うっそう)としていて、枯れ木に白いものが積もっている。世界は白い雪に覆われていた。
 びゅうと冷たい風が吹く。

「さっむっ」

 紗那は自分の身体を自分の腕で覆い、寒さをしのごうとする。
 胴着を着ていて良かった、と思う。袖がある分、少なくても半袖よりはずっとマシだった。

「なに? なんで雪がこんなにあるんだ!?」

 目の前の雪景色に目を丸くする。銀色に光る雪面は、太陽を反射して眩しかった。
 しかし吹く風は乾いて冷たい風だ。
 この山は大きい山ではなく、山道がすぐに麓まで続いているようなので、そこを通って紗那は歩き出した。
 すると、山を下りる途中で一人の男が倒れていた。
 見た目、落ち武者、髪もぼうぼうで粗末で傷ついた鎧を着ていた。
 昔の武士の幽霊でも見たのかと紗那は思った。

「うぅん……」

 するとその幽霊は、紗那の前で唸り声をあげたのだ。
 びくっとして体を震わせた紗那だが、相手が生きている『人』だと分かると駆け寄った。肩を叩いて意識を呼び戻そうとした。

「大丈夫ですか? ここで何をやっているんです? こんな寒いのに」
「うぅうん……」

 男はうなり声をあげて、朦朧とした意識で紗那を見た。

「…し…つ…さま……」
「え?」
「はら……へった……。さむい……」

 男はそう、うわ言のようにつぶやく。
 最初の一言はなんと言ったのか分からなかったけれど、このコスプレをしているような男は腹が減っているらしい。顔色もよくないので紗那は自分の持っていたスポーツバックから弁当を出し、ひざをついて座り、箸を添えてその男の前に置いた。

「腹が減ってるなら食っていいぞ」

 紗那自身はさっき家で朝食を食べたばかりだ。
 それに雪山で腹がへって行き倒れていたら、本当に死んでしまうだろう。
 男は紗那の弁当箱を見ると、ゆっくりと身を起こした。
 それを見て、紗那は弁当箱の蓋を開け、その男の手へ箸を握らす。

 弁当の中には唐揚げや卵焼き、ウインナーやてんぷら、大きなおにぎりが三個、高校生男子の腹を満腹にできるだけの量の飯が入っていた。

 男はそれを見るなり、無言で弁当をかっ込み始めた。
 はじめはおにぎりを食べていたが、ウインナーを箸で挟んで、紗那の方を見たので、紗那は「うまいよ」と言ってみた。
 男は一口でウインナーを食べると、大きく息を吸ってまたおにぎりをかっ込んで食べた。

「うまい! なんじゃこれは! こんなうまいもん食ったことねえや!」

 男は今度、唐揚げに箸を刺して口に入れた。

「これも美味い! 得も言われぬ美味しさよ!」
「ああ、よかった。なんか元気出たみたいで」

 紗那はにこりと笑うと男の脇に袴姿で胡坐をかいて座りなおした。
 男は瞬く間に弁当を食べ終わると、ふうっと一息入れて、紗那に土下座した。

「ありがたく頂戴した。わしは亀井六郎重清(かめいろくろうしげきよ)というものだ」
「なんだか長い名前だね。俺は桜井紗那っていうんだ」

 自分とそう歳の変わらない男を見て、紗那は気安く応えた。

「紗那殿、いや、紗那様か。貴方はわしの命の恩人じゃ。あの美味い飯をくれた、命の恩人!」

 土下座した頭を紗那の方に上げて、重清は目に涙をにじませる。

「い、命のおんじん? ちょっと大げさだな。それに紗那って呼び捨てでいいよ。俺と君はそう歳が変わらないみたいだし」

 重清は紗那の言葉に感激してにじんだ涙を袖で拭った。

「なんと心が広いお方なのだ。飯をくれただけでなく、そんな気安く接してもいいと言ってくれるとは……!」
「あ、いや、ね……」

 紗那は何と言っていいか分からなくなった。重清はどうやら直情径行であるらしく、感激しきりと涙をぬぐっている。

「わしは決めた。今日からこの命、紗那にささげることにした」
「は、はあ?!」
「紗那、昨今の世の中は戦が続き、民は飢え、命は儚く散っていく。しかし、わしがそのすべてから紗那を守ろう。紗那の為に生き、紗那の為に死ぬ」

 今、すごいことを聞いた、と紗那は思った。
 重清は目をきらきらさせて紗那を見ている。

「ちょっとまってよ。俺、そんな凄いヤツじゃないし、俺の為に生きるとか、死ぬとか言われても困るんだけど」
「しかし、紗那はどうやら独り身の様子。そんな恰好で食料もわしに与えてしまった(ぬし)は、どうやってこの先旅をつづけるのじゃ。わしがいれば百人力だぞ」
「たび? 別に旅なんてしてないんだけど……。それに(いくさ)って……なに?」

 現代っ子である紗那には重清のいっていることがまったく理解できなかった。

 重清は立ち上がると、紗那に手を差し出した。紗那は暫く考えてその手を取ると、重清に引っ張られてぐいっと立ち上がる。

「取りあえず、この山を下りようぞ、紗那」
「あ、ああ」

 紗那は重清という珍妙な仲間と一緒に、この山を下りることにした。
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